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Vol.3 島に行って

とある映像の撮影で島に行った。
高層ビルが生み出す侵された空気、電車が鉄のレールにぶつかり合う鈍い音、学生が酒を飲み、女を抱き、馬鹿騒ぎする騒音、ピタピタのスーツを着た営業マンが忙しなく会社に向かう風景。

そんな日々を当たり前のように送っていた。
もはやそんな毎日を、不快だと思うことも無くなっていた。

僕は自主映画を制作するために島に向かった。青い青い海の風景がどうしても撮りたかったからだ。
片道900円。一時間ほど船に乗り、着いた先はまさに別世界だった。
川端康成の雪国から「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」というように。

そこでの日常は、やけに時間がゆったりと進んでいた。海の波が穏やかで、歩道を歩くご年配の方の歩行速度が遅いからであろうか。
雲行きの怪しかった天候は、雲が裂けるように晴れて、海の青さは際立っていた。

島民同士は皆、知り合いである。
行き交う人々は挨拶し、昼間から酒を交わし、今日の海の機嫌を語っている。「海は穏やか」。そう呟く彼らの背後には大きな、それは大きな海が広がっていた。僕のような街に住む人間は、それが当たり前ではない。しかし、かれらは当たり前のように、海の存在を受け入れている。彼らの日常は海とともにあるのだ。遊び場所が海。高校生達は、暇があれば海に行き、冬でもお構いなく海の中に入る。
高校生「たろうはどこ行った?」
高校生「海行ってるって!」
こんな会話が聞こえて来た。ぼくはやはり、島の人間は、ぼくらと違うのだと感じた。

僕らの生きる世界は忙しく、息苦しくて生きにくい。
しかし島で生きる人々は自由であった。
社会の波を外れて、思い通りに、豊かに生きているのだった。それは果てしなく広い海が島民達に魅せていた思想のように思える。
僕は、この果てしない海と島民に出会って考えた。

人は生まれながらに自由である。海のように自由である。しかし、まるで僕たちは何かに怯えながら生きている。それは言葉にするととても羅列しきれない無数の観念である。その観念は僕達を強く強く縛っている。だが、そうした観念を忘れて、僕たちは自由に生きてもいいのだ。「なによ、こんなもの」といって、無駄な観念は捨ててもいい。そんなことはどうでもいいものだと、島民達と海は言っている。自由に生きよう。生きていいのだ。

僕は自由に生きる。こうすれば笑われるとか、こうしないと"普通"はダメだとか、そんなことどうでもいい。周りの目は気にしない。

そういう思想を、僕は島に行く事で海に魅せられた。

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