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私の青春を返せ!爆風スランプ「45歳の地図」 1990年4月8日リリース。

最初に買ったCDとはなぜだか爆風スランプだった。

あれは高校生の頃だっただろうか。

ザ・ベストテンで「無理だ」の出演を見て強烈に私の眼に焼き付き、彼らのバンドの音楽に付いていこうと思った。

コミックバンドかと思いきや、当時のボーカルのサンプラザ中野さん、(現在サンプラザ中野くん)の早稲田大学生で6年生だったように記憶している。

私は大学に行きたかった。ちゃんと勉強して学問をしたかった。

だから大学は4年間のレジャーランド、テニスにスキー、麻雀にボーリング、ビリヤードにと遊びまくる大学生を心から軽蔑したものだった。

むしろあーいう大学生にはなるまいと心に誓った。

それは親のお金で私が大学生をやらせてもらっていたからである。

当時、私は若くて反抗したくて仕方がない状態だった。

だから某新聞の奨学生となり自分は1番前の席で朝刊を配り終えた後で睡魔と戦いながらも必死に講義に耳を傾けてはシャープペンシルでノートに板書を取った。

最前列で何度も船をこぐ頭で講義に集中していたし。よく教授に食ってかかった。

頭に来ていた。

何にって。それは学生全てが遊びに大学に来ているもんじゃない。

そして、ひたすら学んだ知識と知見を教授にぶつけることでなんらかのディベートすら申し込んでいた。

入学してまずは自主学習しているサークルで法学を学んだ。

私は結局法学は諦めた。法学は実は後追いの学問だったからだった。

法学研究会に入りまずは民法を教えてもらったものだ。

そして、夏休みには育児休業法についてのレジュメを作り発表したのだ。

よくグリーンボールという名前のボーリング場で遊んだ。

カラオケにも行った。

それは新聞奨学生をやめて親から仕送りを送るように頭をsageた大学生2年目のことだ。

朝は毎朝5時前に起床し、午後4時には夕刊を配る毎日だった。

サークル活動にはほとんど1年当時いけなかった。4時限目はもう夕刊を配りにバスに乗って水戸駅に戻って新聞店に戻らなくてはならないからだ。

そのせいでそうたいは教員免許はあきらめ、同じく学芸員の資格もあきらめ、あとはひたすら大学院生になることだけを考えてがむしゃらにノートを取り、図書館に通い、生協の書店で10%引きで教授の印税のための貢物の代金としてこれらの学費を捧げたりした。


大学デビューという言葉がひとり歩きしていた。

私の脳の障害はひとまずは落ち着いていたように思う。

そこまで散らかった暮らしもしていないし、モノがなくなるようなことはなかった。

法学研究会ではカタミ先輩という生粋の水戸っぽの先輩がいらっしゃっていて随分可愛がってくれた。

なぜかそうたいはカタミ先輩にたくさんおごってもらい。

COCO'Sでステーキやサントリーローヤルなどをごちそうになったことを覚えている。


そんなカタミ先輩がカラオケでおはこにしていたこの曲。

それがそうたいが買ったCDである45歳の地図だった。

上のリンクは爆風スランプではなくボーカルのサンプラザ中野くんの還暦バージョンである。歌詞も随分違っている。

この曲にはかつて自分たちの親の世代がその子どもたちがスネをかじっては平気だったというごくごくありふれた日常で実に平和な様子が歌われた。

バブル世代には耳が痛いだろう。

売り手市場だったはずだ。なにせテレホンカードをもらって接待すら受けていたんだから。

就職氷河期世代にとっては実にのんきな状態だ。

なにせ就職しようにも間口が狭くて仕方がないんだから。

令和2年の今や終身雇用制度など三種の神器でもなんでもない。

ジャパン・アズ・ナンバーワンっていつの時代なんだ。

今や子供時代の不幸の指標こそジャパン・アズ・ナンバーワンじゃないか。

オヤジのようになりたくはないと中学校の文集で全校に発表されたそうだ。

1990年の当時高校生当時2020年がどういう社会になっているかの予想などできるはずもなく、バック・トゥー・ザ・フューチャーするならば、中高年世帯に「贅沢を言うなよ」のひとつでも言って差し上げたい。

私にとっては中高年が一見子どもたちのために見えて、もしくは親バカの要求を満たすために、子どもたちを食い物にする親の皮肉に激しく共感してしまったのだ。

コインの両面であるし、光と影の世界でもある。

苦労して美味しい食べ物も食べず、ひたすら子供に学費を捻出してくれた両親に心から感謝して何か恩に報いたい気持ちも強い。

が、しかしそうたいは元々音楽がスキでスキで。できればピアノの調律師など音に特化した職人だって選べたはずだたった。

中学生当時マーケティングに興味を持っていて商業の雑誌がスーパーに置いてあったので当時、SMだのCVSだの英単語に触れていきなり業界人になっていしまって自分がなにかとんでもない異星人にでもなってしまって気が動転してしまった記憶も鮮明に覚えている。

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そして今45歳をとうにすぎた今日。

今地図は真っ白のような気もする。1本の道はあるようでなく、ただ平原が広がっている。

それはまるで槇原敬之さん(と敢えてさん付けさせてもらおう)の歌う「GREEN DAYS」のように。

話はそれるが槇原敬之さんほどファンを泣かせた音楽家はいないのではないか?

早く戻って来いよというファンも、もう裏切られたから顔を出すなと言いたくもなるファンもいて当然だろう。

私はきちんとけじめをつけてさえくれたらまた音楽の世界に戻ることを願うし何よりも彼の歯を案じる。

芸能人にも歌手にとっても歯は命だからだ。

たしかに45歳の地図はいいCDだった。それはまるで父親に対する一種の共感であったり理解だったりする。

あるいは父親という世代への敬愛の一環のようなものかもしれない。

いきなり45歳の地図からGreen Daysを引っ張るそうたいは唐突だろう。

でも、私の涙は止まらないのだ。この曲を聞くとなぜだか号泣したくすらなる。

感情が失禁してしまうんだ。

たくみなコード進行と青春という歌詞を歌う際にブルーノートの入った以下の歌を聞くと止めどなく涙があふれてくる。目から滝のような涙がこぼれ嗚咽したくすらなる。

本当に世の中わからないことだらけである。

本当のことを探して一瞬見つかったようでまた別のなぞなぞがビックウェンズデーのようにやってくるのだろう。

わからない事だらけでも
ホントの事だけ探していこう
そんな気持ちを誰もがきっと
青春と呼ぶのだろう

かつての45歳の地図の世界は未来予想図でしかなかった。

その未来を今生きている。地図は自分で作ることができるとわかったつもりのそうたいではあるが。

本当のことを探す旅のお供に使う地図など何度でも書き換えが可能だ。

さて、3,000字をそろそろ超える。推敲するうち1000字も加筆してしまった。


そうたいの今回の投稿をひとまず締めくくろう。

そうたいは未だに未婚であり、子供もいないが青春まっさかりである。

一人暮らしであろうと夫婦で暮らそうと子供がいようがいまいが家族は家族であり、それ以上でもそれ以下でもない。

私は家庭経営の学問に加わりたいと心から願い日本語を愛するヒトリの苦学生なのかもしれない。

いささかシニカルな表現であったかもしれないが、貴重な時間を割いてここまで読んでくださった読者の方へ、こころから感謝をささげ次回のnoteで再開することを切に願う。

ありがとうございました。そうたい。令和2年9月9日9時20分。


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