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ハンドルからオフィスへ:運転とマネジメントにおける「メタ認知」


1. 運転とマネジメントは似ている

最近、車を運転することと、マネジメントすること、を並べて考えるようになってきた。私は、自家用車に乗るのが昔からあまり得意ではなく、何かと電車やバスを選びたがる傾向がある。自家用車が狭いことで生じる強い閉塞感と、行動を限定される感じが苦手なのだ。しかし、苦手は思考の母である。このことを、何か意味のあるインサイトに繋げてみたい。

結論から述べる。私は、運転とマネジメントには「①自分が客体として体験し得ない主体的行為が、他者に如何に体験されるかを想像する能力が必要である」、「②仮に自分が下手だったとして、他者からフィードバックを得ることが難しい」、という2つの共通点があると思っている。だから、運転について語ることは、マネジメントについて考えるための手段の一つになりうるのではないか。あるいは、もっと大きく、非対称性の高い関係の対岸にいる他者をどのように慮るのかという問題について考えるきっかけになるのではないか。そのように読んでいただけると幸いである。



2. 自分が客体として体験し得ない主体的行為が、他者に如何に体験されるかを想像することは難しい

運転している人は自分の運転を乗客として体験することができない。このことが「①自分が客体として体験し得ない主体的行為が、他者に如何に体験されるかを想像する能力」の必要を生む(主体-客体を共時的に身体として要求する行為には全て同様のことが言える。)自己の主体的身体としての行為を、純粋な客体的身体として同時に経験することが不可能な以上、常にその行為の経験的評価は他者に委ねられている。だからこそ、自分が決して体験できない自分の運転を、他者が如何に体験するのかを「想像」した上で、その体験の質の向上を目指すことを通じてのみ、運転は上達する。

私たちが日常的に経験する運転の「下手さ」というのは、ハンドルを握った途端に車が音を立てて壊れ始めたり、所構わずぶつかって大破したり、スピード狂いが制限速度を無視して走り回ったり、といったマンガ的な「下手さ」とは次元が全く異なる。現実における運転の「下手さ」は、カーブにおける減速、停車時のブレーキ使い、加速減速の制御、乗員に合わせたルート選択といった、極めて微細なテクニックの欠如が積み重なって表出する。なんとなく不愉快な体験が積み重なることで、取り返しのつかない不協和音が流れ始めて車内に充満する。

このような不快が生じるのは、乗客が車の挙動に対する制御を一切持たず、運転手の微細な身体的動作が何千倍にも増幅された車の動作を、ひたすら受け身に体験するしかないからだ。より噛み砕いて言えば、ブレーキを踏むことも、ハンドルを触ることもできない乗客は、乗車中に体験する不快を自主的に解消する手段を持っていない。電車やバスであれば車両や座席を移ったり降車するなど、ある程度自由な選択を許されているが、自家用車の場合はそうはいかない。乗客は、発生する不快に対して、ただその場でジッと耐えることを強制される。

運転手がこうした不快を経験しないで済む理由は、車の挙動が「自分」の身体的動作に連動しているためだ。カーブで減速し損ねるのはブレーキを踏むのが遅れるからであり、高速道路で必要以上に加速してしまうのはアクセルを踏み込みすぎるから。つまり、運転手は常に「なぜ今このような挙動を車が取っているのか」を合理的に把握できる状況にあり、そのことが元に生じている車の挙動が与える苦痛を和らげているのだ。

よく乗り物に弱い人でも自分の運転では酔わないといわれるが、それは脳が予期する車の動きと、実際に生じる車の動きの相関が、自分が運転している場合により強固であるからに他ならない。対して乗客は、運転手の身体的動作を予期することも、その向こう側にある車の挙動を予期することも勿論できない。人間は、説明可能な不快より説明不可能な不快の方により絶望するものである。



3. 仮に自分が下手だったとして、他者からフィードバックを得ることが難しい

運転手と乗客が体験する運転の不快に格差が存在することは、「②仮に自分が下手だったとして、他者からフィードバックを得ることが難しい」という事実と強く関連している。運転の上達が、乗客の体験の質を向上させることによってのみ達成されるという前提を受け入れれば、その近道は乗客から自分の運転に対して直裁なフィードバックを得ることに他ならない。しかし、これがまた非常に困難なのである。

順を追っていくと、まず、そもそも自分の運転が下手であるという事実に気が付くこと自体が、非常に難しい。これは先ほど述べたように、運転手は自分の運転による不快を経験しづらいからだ。自分が上達の必要を感じていないことについて、他者に意見を求める動機を持つことは困難である。

さらに、不快を経験している乗客が、運転手に対して率直にその旨を伝えてくれる可能性も、これまた非常に低い。乗客としては、運転してもらっている身分で苦言を呈すことには、心理的抵抗を感じるものだ。また、運転手として「自分が運転が下手だ」という事実を突きつけられるのは、自身の身体性が毀損され、メタ認知の能力の低さを突きつけられる、いわば、恥をかかされる体験である。車の運転が下手であることは「ダサい」という社会的認知も強い。乗客は、「ちょっと✖︎✖︎さん、運転荒いよね…」などと、車を降りてから二言三言お互いに囁き合うのが関の山で、いわんや、運転手に直接苦言を呈することなど、まず起こらないだろう。



4.運転が上手くなるにはどうしたらいいのだろうか

ここまで運転が上達することの困難について滔々と語ってきた。では、結局運転が上手くなるにはどうしたらいいのだろうか。私なりの回答は、まず①②を強く強く自覚した上で、メタ認知と非言語的な信号を受信する力を鍛えることだ。(なお、私を含む一族は運転がかなり下手です)

ここで言うメタ認知とは、「自分が乗客だったら、自分の運転をどのように体験するだろうか」という俯瞰的視野に立って、自分の分身を後部座席に置き、乗客の気持ちを想像することだ。絶対に覆らない非対称的な関係の対岸に自らを位置付けることは、難易度最高のメタ認知である。また、ケアやホスピタリティの気持を持って他者に向き合あえるかも非常に重要な視点だ。

そして非言語的な信号とは、乗客が発する不快の身体的なシグナル(ため息、息遣い、姿勢の変化など)であり、運転手はそのシグナルに常に体を傾け、シグナルが低減するような身体的動作を仮説検証を通じて明らかにする必要がある。アクセルの踏み方、ブレーキの踏み方、リアへの切り替え、カーブのハンドル、車線変更、ルート選択、休憩の頻度、エトセトラ…。言語を通じたコミュニケーションが困難だとしても、人間の身体は音声以外にも無限に信号を発しているものだ。それを拾うためのアンテナの感度を高める。


5.運転とマネジメントはどう似ているのか

最後に、運転とマネジメントを接続してみよう。冒頭で述べた通り、私は運転をマネジメントのアナロジーとして考えることが可能だと思っている。運転手に座っているのがマネージャー、後部座席に座っているのはチームメンバーだ。私は自分がどうやってチームメンバーが「私」を体験しているのかを体験することはできない。また、チームメンバーから「私」に対してフィードバックをもらうことも極めて難しい。運転手-乗客関係も、上司-部下関係も、非対称的な関係の中で対岸にいる他者と意思疎通をすることに他ならない。

マネージャーの一挙手一投足は、組織の持つ階層制度や権力的な非対称関係を通じてアンプのように意味を増幅され、チームメンバーに対して不快を与える(もちろん快の場合もある)。それは運転手の身体的動作が、アクセルやブレーキを通じて車の物理的動作として増幅されてアウトプットされるのに似ている。マネージャーが持つべきなのは、自分の振る舞いや言動が、関係の対岸にいる他者= チームメンバーにどのように体験されるのかを想像する強いメタ認知の能力、そして非言語的な信号(例えば言葉をかけたときの瞬き、姿勢、語調、その後の行動など)を受け取って、自分の行動にフィードバックする能力ではないだろうか。

運転がアナロジーとして使えるのはマネジメントだけではない。非対称的で主客の転倒が発生しない関係の全てに敷衍できるはずだ。だから、運転が上達すると言うことを抽象的に言い換えると、非対称的な関係の対岸にいる他者を慮る能力が上がった時だと言える。

自分は運転が上手です!と大手を振って言い回れるとはつゆほども思わないが、ここまで述べたことは常に考えながら運転席に座るようにしている。長くなったが、この文章はこれにてTHE ENDである。


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