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子供は誰のもの?

鼻水を垂らした子供(3歳と1歳)を連れて、夫が忘年会に行ってしまった。コロナにかかるといけないので、置いていくように言ったが、連れて行くの一点張り。
あぁ、とても心配だ。可愛い、可愛い私の子供。何かあったら、許さない。
私は、こういう時、いつもこう思ってしまう。
夫には、分娩室にも入ってもらって、子育ても、まぁまぁしていた。
子供の顔は、夫にそっくり。半分は、夫の遺伝子だし、私だけのものではない。でも、夫のものでは、けっしてない。泣いてる時、熱が出た時、お腹がすいた時、いつもそばにいるのは私だ。少し、おむつ替えを手伝った、お風呂に入れた、たまに着替えを手伝うレベルのやつに渡したくない。そう考えると、分娩室にも入れてやらなければよかったと思う。私と子供の初めての大事な瞬間。
2人目の出産時に義理母に上の子を預けた時もそうだった。
本当は、預けたくなかった。実家に預けたかったが、不自然だったので、一生に一度、最初で最後のプレゼントのつもりで預けた。案の定、心配ばかり。二度と預けたくないと思った。その時も、私の子、私の子、この手から離したくない。どうか無事でいますように。と願っていた。
子供は、母親だけのものではないのは、分かっている。
二人とも、1歳から保育園に預けているので、日中の育児は、先生がしている。よく、おじいちゃんおばあちゃんとも遊ばせるので、子供はおじいちゃんおばあちゃんが大好きだ。やっぱり、パパがいなかったら、「パパは?」と聞く。幼稚園のお兄ちゃんお姉ちゃんの真似ばかりしている。成長とともに子供たちの内面が、私以外のところで、形成されているのを、肌身で感じる。親は、子供たちの帰る場所として、いつも暖かく待っていればいいのだ。
でも、この母性とやらは、女性ホルモンが減った今でも何故か、緩和されない(ほんと、女性ホルモンは一瞬でなくなる)。毎日、毎日、毎分、毎秒、「ママ、ママ」と呼ばれるたびに、母性は強くなってしまうのだ。たぶん
おばあちゃんになっても、ずっと残っている。人の子でも、心配になる。
子供の悲しいニュースを聞いただけで、耳を塞ぎたくなる。あと、女性の体が強調されたアニメを見るたびに、不快になる。幼い子供までもが、性の対象になることしか連想されない(体が強調されていなくても、強調された大きな目など、明らかに成人男性をターゲットにしたキャラクター)。
世界中の子供が、安全で幸せになるようにと心から願うのは、世界中の母たちではないだろうか(もちろん、その他、いろんな人たちも願っているだろうけど)。そう思うと、もっと、女性は強くならなければいけない。社会で発言できるようにならなければいけないと思う。
だから、夫の勝手な行動は許されない。世界中の母を敵に回したな。
熱でたら、責任持てよ。

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