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真理 VS 誤謬:5死者は墓の中で何をしているのか?

死者は墓の中で何をしているのか?

死んだ人たちは、復活の時まで墓の中でどんな状態でいるのでしょうか?聖書は死後の状態について次のように描写しています。

A) 死後の状態

1、生きている自分の子供たちの良し悪しについて、何も感じられないほど、現実とは完全に断絶された状態:「彼の子らは尊くなっても、彼はそれを知らない、卑しくなっても、それを悟らない」(ヨブ記14:21)。
2、感情や意識が一切ない状態:「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」(伝道書9:5,6)。「その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる(詩篇146:4)。
3、無活動の状態:どんな「業も計画もなく、知識も知恵もない」(伝道の書9:10)。
4、苦痛を感じられないだけでなく、神様を賛美さえできない無感覚の状態:
「死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府(墓grave)においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか」(詩篇6:5)。
「わたしが墓に下るならば、わたしの死に何の益があるでしょうか?ちりはあなたをほめたたえるでしょうか?」(詩篇30:9)。
「死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない」(詩篇115:17)。
「陰府は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。ただ生ける者、生ける者のみ、きょう、わたしがするように、あなたに感謝する。父はあなたのまことを、その子らに知らせる」(イザヤ38:18、19)

B)眠りと呼ばれる死後の状態

聖書は上のような死後の状態を“眠り(sleep)”と表現していますが、このような聖書の単純な表現は、死後の状態について世間で言われている他の見解を一掃してしまいます。
ダニエルは、キリストが来られることについて預言した時、土に帰った死んだ者が、眠りから覚めると言いました。「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう」(ダニエル12:1、2)。
聖書に登場する数々の著者たちが、死を“眠り”と表現していることには理由があります。なぜなら、“眠り”は死んだ人の状態を、最も適切に描写できる言葉であるからです。私たちが、疲れ果てて夜眠りにつくと、すぐに深い眠りに入りますが、次の朝、目が覚めるまでの時間は、あたかも一瞬が過ぎたようにしか感じられません。自分が眠っている間に、何が起きたか全く分からない、深い無意識の状態で眠ります。死と呼ばれる眠りも、このようなものです。
聖書が、死を眠りと呼ぶもう一つの理由は、死はあたかも眠りのようであって、時間と空間と周辺の物事を全く意識できませんが、朝になって眠りから覚めるように、いずれは、死という眠りから起き上がって、復活することができるからです。
聖書では、死を“眠り”の同義語として使用した箇所が66回も記録されています。次に列挙する聖書の偉人たちは、皆死を“眠り”として表現しました。

ヨブ:ヨブ記3:13;7:21;14:12;17:16
モーセ:申命記31:16
ダビデ:詩篇13:3;サムエル下7:1;列王記上1:21;2:10
ソロモン:列王記上11:43
エレミヤ:エレミヤ51:39、57
ダニエル:ダニエル書12:2、13
イエス・キリスト:マタイ9:24;マルコ5:39;ルカ8:52;ヨハネ11:11
マタイ:マタイ27:52
ペテロ:ペテロの第二の手紙3:4
ルカ:使徒行伝7:60;13:36
パウロ:コリント人への第一の手紙11:30;15:6;18、20;テサロ二ケ人への第二の手紙4:13~15;5:10

霊感を受けた聖書の記者たちが、最も頻繁に言及する死の性質は、死んだら何も知らない無意識の状態になる事です。今日、キリスト教界だけではなく、その他のあらゆる宗教界で言われている代表的な思想は“死後にも命がある”という教えです。ところが、このような教えは、聖書のどこにも根拠のない、別の思想から来たものです。中世時代に、異邦の宗教人たちが信じていた教えが、キリスト教会にも入り込んできたのです。
「その息が出ていけば彼は土に帰る」という詩篇の言葉は、死をとても単純に、そして、的確に説明しています(詩篇146:4)。ソロモンも、『伝道の書』の中で、死について次のように述べています。「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない。・・・・すべてあなたの手のなしうる事は、力をつくしてなせ。あなたが行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである」(伝道の書9:5、6、10)
死後の状態に対する、人々の偏見と先入観が、深く根を下ろしているために、どんなに明白な聖書の言葉を目の前で読んであげても、その言葉を受け入れない傾向があります。もし、ソロモンが次のように言っていたとしたら、死に対するすべての論争は、とっくの昔に、確実に終わっていたことでしょう。「その愛も、憎しみも、ねたみも、これからも続けられるので、あなたの行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もある」。しかしソロモンは、これとは全く反対の事を言いました。「あなたが行く陰府には、わざも、計略も、知識も、知恵もないからである」。どうしてこのような、はっきりした聖句に対抗して、聖書とは違う自分たちの主張を繰り広げるのでしょうか?
本当に信じがたいことが、キリスト教会の中で広がっています。聖書にはそのような記録が全然ないだけではなく、むしろ、それらとは正反対な事を、繰り返し言っているにも関わらず、大勢の人々は、自分が信じたいと願うことだけに固執しています。死に対する真理を証言している、数々の聖書の箇所を見ながらも、多くのクリスチャンたちが、儒教や仏教が教える立場をそのまま信じています。
死についての真理をもう一度読んでみましょう!「陰府(墓)は、あなたに感謝することはできない。死はあなたをさんびすることはできない。墓にくだる者は、あなたのまことを望むことはできない。ただ生ける者、生ける者のみ、きょう、わたしがするように、あなたに感謝する。父はあなたのまことを、その子らに知らせる」(イザヤ38:18、19)。もし、義人たちが、自分自身が死んだ後、天の御国へすぐに導かれたとするならば、彼らは神様を賛美しないでしょうか?
ダビデは、死についての真理をこのように記録しました。「死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない」(詩篇115:17)。「死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか」(詩篇6:5)。

C) 使徒パウロの葬儀説教

新聞に時々載る訃報や葬儀の通知には、次のような文があります。「**様は、2018年○月○日、召天されましたので、ここにご通知申しあげます。享年80歳」。さらに、葬儀場などでも、亡くなった人の魂は、すぐに天国へ行きました、というような説教がされることがあります。形のない死んだ人の霊魂は、フワリフワリと飛んで天に昇っていったので、あとで天国へ行った時、再び会えるのです、と慰める牧師たちの説教を聞きます。しかし、このような、死んだ人の霊魂だけが、すぐに昇天するとか、その人たちと天国で再会できるという、訃報の通知や、葬儀場でよく聞かれる典型的な説教は、ほんとうに聖書が言う真理と一致するものでしょうか?
実際、死んだお父さんお母さん、息子や娘たちは、死後すぐに天に昇ったのでしょうか?この質問に対する確実な答えを、私たちは『テサロニケ人への第一の手紙』4章にある、使徒パウロの葬儀説教から知ることができます。
その中で、使徒パウロは、遺族を慰める説教を次のように締めくくりました。「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」(4:16~18)。
ここでパウロは、天でイエス様と共にいるようになる方法や順序について語っています。パウロが語った、「こうして、いつも主と共にいるであろう」という言葉を、安易に見逃してはなりません。なぜなら、この言葉は、“このような方法を通してのみ主と共にいることができる”という、大切な内容だからです。パウロは主と共にいることのできる唯一の方法として、イエス・キリストの再臨と、その時に起きる、死んだ聖徒たちの復活を提示します。パウロは、遺族たちに「だから、これらの言葉をもって互いに慰め合いなさい」と言いました。人が死んだ時に、何か、目に見えず触ることもできない煙のような霊魂となって、体を離れて、天国か地獄のどちらかへ行く、というような話はしませんでした。もしそれが事実であるなら、パウロは、はっきりそう述べて、「死んだ人たちは、今天国で生きているのだから、何も悲しむことはありません」と説教しても良かったはずです。
死んだ愛する人々は、今、天の御国へ先に入って、地上に残された人たちが、この世で受けるあらゆる苦しみを見下している、という事が事実なら、それを語ることができたはずなのに、そうしませんでした。それは、死とは、そのようなものではなかったからです。パウロは、人が死んだ後、主と共にいる唯一の道は、イエス様が再び来られた時に、まず死んだ義人が復活して、生きている義人と合流し、空中で主にお会いすることを、教えています。
しかしパウロは、同時に、人は死と墓で終わるのではないという、光栄ある事実も指摘しています。パウロは遺族たちへ、死の眠りから覚める復活があることを語り、慰めました。義人たちは、不滅の体を主から受けることになり、その出来事は、またたく間に起こる事であると話しています。「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである」(コリント人への第一手紙15:51~53)。
あらゆる死者は、完全に無意識の中で眠り、やがて、自分自身の運命を決定する最終の宣告を聞くために起き上がるでしょう。たとえ彼らが千年前に眠りについたとしても、イエス様が来られる5分前に眠りについたとしても、彼らにとって、復活するまでの時間は1秒もたっていないかのように感じられることでしょう
ある人は、神様は、ずっと昔に死んだ人々の、ぼろぼろで腐った死体を、どのように回復なさるのだろうかと考えて心配します。ある死体は、爆弾で吹き飛ばされたかもしれません。またある死体は、火に焼かれ、ある人々は深い海の底に沈んでいるかもしれません。しかし、あらゆる命の源であり、創造主である神様にとって、各人の肉体と個性を、完全に回復することに、何の難しさがあるでしょうか?神様にとっては、たやすいことなのです。神様には、各個人を完全な姿で復活させるのに、何の支障もない事実を信じるべきです。

さて、体から抜け出た死んだ人々の魂は、まだ生き残っている家族や知人たちを助けるために、空中をあちらこちら飛び回っているのでしょうか?死んだ魂は、お盆のたびに、自分の家に訪ねてきて、ご馳走でお腹を満たし、満足そうな微笑みを口元に浮かべるのでしょうか?
聖書は、死んだ者たちは完全な無意識の状態で、復活の時まで「眠っている」と宣言しています。さあ、読者の皆様が答える番です。「死者は墓の中で何をしているのでしょうか?」

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