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それでも前向きに生きよう!

月に一度の主治医との面談。
「今の状態でお母様を退院させるわけにはいかないので、あと3カ月の入院延長を、我々の方でもなんとか頑張りますので、ご承知いただけますか」
と告げられ、
「え!?」と思わず声が出た。
12月初めに入院した母は昨日3月3日に退院する(または退院させられる)はずだった。
だが、現在は2月から始まった電気治療の最中で、それが終わって経過観察も含めて症状が安定してから退院する方が良いので、少し入院期間が伸びます、と相談員から先週聞かされていたが、まさか更に3カ月延びるとは思っていなかった。
「国の法律で精神科病院の入院は3カ月ではなかったのですか?」
初めにそう聞かされていたので、単調直入に尋ねた。
「国の決まりはそうなんですが、患者さんによってはどうしても退院させる状態ではない、ということを病院が判断すれば、我々病院側が国に再度申請手続きを行って延長する、という特例措置もあるんです」
と説明され、母の入院を延長させるために病院内で退院支援委員会が諮問会議を開き、様々な調整と判断を踏まえた上での決定だと聞かされた。

母を診て頂いている側としては、そして今後の受入れ先がまだ見つからず、在宅介護を半ば覚悟していた者にとっては、母を更に3カ月世話してくれるのは有り難い。
だが同時に、精神科病棟に延べ6カ月入院という「特例措置」を受けた患者になると、ますます今後受入れてくれる施設が減るなぁ、という心配もある。
「いま行っている電気治療なんですが、既に6回終了し、今週はお休みで、来週から再度三週間にわたって6回行う予定です」
「え!?」今度はさっきよりも更に大きな声が出た。
1月の面談で電気治療を打診された際、母は既にカナダでm-ECT
(modified electro convulsive therapy)を何度も受けいることを話し、もう母にその治療は受けさせたくない意向を伝えた。それに対して、
「日本で電気治療をする場合、4回が一般的、さらに様子を見て2回行うこともあり、それでも効かない、又は効果があると思える患者はあと2回、最大でも合計8回です」と断言した医師から、
「あと6回、合計12回の電気治療をすることになります」
とシレっと言われても、はいそうですか、よろしく、とは言えない。
ましてや、一度お断りして、他の治療法を検討してほしいと依頼したにも関わらず、やはりお母様には服用する薬では改善が見込めないので電気治療をご了承下さい、と言われ、
『m-ECT(修正型電気痙攣療法)の説明と同意書』にサインをするためだけに病院を訪れ、止むを得ず電気治療に同意した経緯があるだけに、最初に言っていたことと違いますやん!という気持ちが沸き起こった。

さりとて「更に6回はやめて下さい、私が家で介護しますから」と言える様態の母ではなく、在宅介護が難しい、ではなく非現実的だというのも明白。
「電気治療は受けさせたくない、というのが本心だというのは今も変わりませんが・・・」
「はい、それはもう重々承知していますし、長男さんがそのようにおっしゃっていたことは私どもにとっても判断を下す際に議論した点ではあるんですが・・・」
きっとここで息子の私が反対したところで、ここにいる主治医師、看護師、相談員は、厄介な患者の家族もやはり厄介でやりずらいなぁ、と困惑するだけだろうし、結局は他に手の施しようがなく、後日「やはりお母様には更に6回」と電話で言われて、同意書にサインする(させられる)展開になるような気がしたので、
「はい、分かりました。既に100回以上カナダでその治療を受けたので、最大8回の筈が、合計12回になったところで大したことではない、という思いもあります。なんだか私の感覚も麻痺してしまって痙攣状態に陥っているような気がしますが、先生がそうおっしゃるなら、どうぞよろしくお願いします」
と頭を下げると、部屋の中の空気が一気に緩み、医師を始め、看護師と相談員も表情をほころばせ、その後は不思議と談笑ムードになった。

歩み寄る姿勢が功を奏したのかは分からないが、医師に「少々お待ち下さい」と言われ、10分ほどホールで待っていると、看護師二人に付き添われ、車いすに乗せられた母が開いたエレベーターの扉から出て来た。
1月後半と2月はオムツと吸収パッドを届けに来ても母には面会できない訪問が続いたので、とても久しぶりに母と会うような気がした。
車いすでどんどん近づいてくる母に、
「ご長男さんですよ。分かりますか?」と看護師が尋ねると、
母は、うん、と少し頷いたように見えた。
「こんにちは」とあいさつする息子(私)に、
「あのねぇ」と母は言葉を発した。
看護師二人、相談員、主治医が母の言葉に注目する。
「わたしは死んだよ~」
と、か細いながらもハッキリした口調で母が言う。
「もう、折角来てくれたのに、そんなこと言ったら息子さんが悲しんじゃうよ」と看護師に言われても、
「わたしはねぇ、もう死んじゃったの、ダメなの、捕まるの、狙われてるの、人生終わりなの」と以前と変わらぬ否定モードが続く。
思考回路、といえるのかどうかは分からないが、母の妄想は相変わらずだが、一時のような狂暴さ、こわばった表情で機関銃のようにまくし立てる攻撃性はなく、淡々と否定的で絶望的な発言を続ける。
その場にいる人がそれぞれ母を励ましたり、安心させる言葉を掛けても、それらすべてを「でもねぇ、ダメなの」「そうじゃないの」と打ち消す母に、
「なかなか根深くて、お母様は一筋縄ではいきませんな!」
と、医師が雰囲気を和らげるように言うと、
「もう、折角会えたんだから、もっと楽しいことを言ってよ~、さっきエレベータの中で、息子さんが優しい、って言ってたじゃない、へそ曲がりなんだからぁ」
と看護師も茶化すように言う。
そんな、少しぎこちないながらも、そこにいる全員が懸命に良い雰囲気を演出しようとする努力をことごとく否定し台無しにしながらも、ずっと私の顔を見続ける母の目が少し潤い始めたなぁ、と気付き始めてからわずか数十秒後、母の左目の眼尻から溢れた涙が頬を伝って流れた。

母が流す涙の真意を推し量ることはできない。
だが、入院した初日、
「助けて、殺される、アカン、こんなことしたらアカン。なんでこんなことするんや!ひどすぎる!やっぱりあんたは分かってないんやわ!」
と涙ぐみながら私に助けを求め、強い口調で言葉を発し続けた母だったが、3カ月の入院で、一時は魂を抜き取られたような状態にもなるほど強い薬を飲んだせいで、いやお陰で、精神の異常な興奮は和らいだのは確かだ。

決して息子に会えた喜びの涙ではない、ということはなんとなく分かる。
おそらく、とてつもなく深い、光の届かない深海の底から湧き出る深層水のような、母の心の奥底にある様々な思いが伏流水のように沁み出た哀しみの涙ではないかと思う。それでも母の感情が、たとえ僅かであっても、動いていることが嬉しかった。

母の太腿を触ると、以前よりも更に細く痩せているのが気の毒に思えた。
もう母はひとりで立つことは出来ないのかもしれないな、と思うと無性に母と散歩がしたくなった。
手を握ると掌は温かくちゃんと血が通っていて、血管に脈動も見られた。
「死んだんやで」と言いながらも、ちゃんとこうして生きている母。
この前来た時は会うことが叶わず、私自身が大泣きしてしまったが、今回は不思議と涙は流れず、立てなくても、否定的な言葉ばかり発してもいいから、それでも前向きに生きようよ!と心の中で母にエールを送ることができた。
母に「前向きになって」とか「前向きに生きよう!」と言っても、間違えなく否定されてしまうから、心の中で何度も言い、以心伝心を願った。
ママ、前向きに生きようよ!
人間は皆例外なく死ぬからそれまで前向きで生きよう!
例え心の中とは言え、体以上に心が衰えた母に「前向き」という言葉は、云われるだけでしんどいのかもしれない。
それならせめて息子の自分が母の分も前向きに生きればいいか。
(これからママがどんな風になっても、ボクは前向きに生きるよ!)
心の中でそう誓うと、伝わったのか、今度は母の両眼から、また涙が流れ落ちた。

別れ際に「また来るからね」と母に手を振ると、最初にしたように、うん、と頷いてくれた。
本当は面会ができない状況下に会えるように配慮してくださったことへのお礼を看護師と医師に述べ、
「もし、今日のようにまた会える機会があれば、きれいな海が近くにあるので、入院中に海を見せてあげたいですし、その時は私も付き添いたいので、教えていただけますか?」というと、看護師と相談員が一斉に主治医を見る。
私だけでなく、受付係の女性も含め、ポカーンと真正面を向いたままの母以外の、ホールにいる全員からの視線を感じた医師は、
「あっ、そうだね。そうしてあげると良いね。許可を出しますよ。もう少し暖かくなったら外に散歩に出掛けましょう」と快諾してくれた。
それを聞いて、看護師二人は安堵したように、
「よかったねぇ。外に出られるって」
「息子さん優しいねぇ、一緒にお散歩できるね」
と母の肩に手をやったり、母の顔を覗きこんだりして声を掛けている。

「また、オムツとパッド、大量に持ってきますね」と私が言うと、
「いつも催促してすみませ~ん」と申し訳なさそうに最も頻繁に連絡をくれる看護師が言う。

今回届けたテープ式オムツ20枚と吸収パッド計81枚

今日の面談で、母は電気治療を開始してから食欲が回復し、よく食べるようにはなったが、それでも体は弱っており、歯を三本抜き、免疫機能も落ちているので、さらに強い薬を処方すると腎臓や肝臓だけでなく、多臓器不全などで一気に良くない方向に進む恐れがあり、来週始まる電気治療の第二クールと平行して服用する薬と量も慎重に判断したい、とも言われた。

「病院」という施設、特に精神科の病院ではその性質上、嬉しい話や明るい話が聞けないことは承知しているし、いままで母がお世話になった介護施設、認知症専門医とデイサービスも含めて、「生」と「死」と向き合う現場で働いている医師、看護師、職員の方々が患者だけでなくその家族とも対峙し、様々な制度と制限の中で働いておられて大変な責任を背負っている、ということを私自身が以前より理解できていると思う。

毎回複雑な思いになるのは変わらないが、今回のように「死んでるのよ」と言いながらも生きてくれている母に会えると、心の中で占めていた不安よりも安心が勝り、死中活有(シチュウカツアリ)のような希望も芽生える。
この数年、友人や親戚の親、家族が亡くなったという知らせが多く、肉親を失った人の哀しみに比べると、まだ生きている母のことで悩み、生活が徐々に、又は突然、劇的に変わっていくことに苦慮することは幸せなんやで、とつくづく思うようになった。
なので、今後もなんやかんやとあるやろうけど、それでも、
「前向きに生きるぞぉ~!」と海に向かって叫ぶと、

驚いて一斉に遠ざかる海鳥たち

岩場で休んでいた海鳥たちが驚き、一斉に海に入ったかと思うと、警戒するように何度も後ろを見ながら、もの凄く速い足漕ぎで私から遠ざかっていった。
あ~、ごめんなさ~い。
もう大声で叫ばへんから心配して後ろ向かんでも大丈夫やでぇ。前向いて進んでねぇ、と海鳥に言ったが、鳥達からしたらきっと、驚かせたお前が「前向きにぃ」とか言うな!かもしれません。
それでもやっぱり、前向きに行きましょう、生きましょう!

母と歩きたい海辺

いつも以上に長くなりましたが、お読みくださりありがとうございました。

今回の病院訪問、面会などに関連する以下のnote↓↓もお読み頂けると幸いです。


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