twitterアーカイブ+:映画『劇場版ポケットモンスター キミにきめた!』感想

映画一回目

 劇場版ポケモン(舞台挨拶回)を観た。以下、ネタバレを排除しながら所見を述べる。

 この映画を、いつものクソ劇場版と言ってしまうのは容易い。過去作の要素をリサイクルした雑なお涙頂戴だと非難することも。しかし、これを一つのストーリーというよりイメージビデオとして捉え、ポケモンの世界観についての製作者側からの立場表明と解すれば、本作の持つ歴史的意義は極めて重い。

 本作には無駄なシーンが極めて少ない。大部分のシーンに「意図」が窺える。それらは全て、たった二つのテーマの同工異曲である。そして全編は、徹頭徹尾そのテーマを観客に印象付けるためだけに費やされるのだ。ここまでの強いメッセージ性を持ったポケモン映画はエンテイ以降は皆無である。

 この二つのテーマのうち一つは、これが製作者側の立場表明であるとするならば、私にとっては喜ばしいものだった。先日リーリエについて述べた私の妄言とも関連する。このため、私はサトシが「バトルしようぜ!」と言う度に、「スケベしようぜ!」と言っているように聞こえ笑いをこらえるのに苦労した。

妄言(妄言ではない)

操刷「私は真剣勝負のポケモンバトルは実質セックスだと思っているので、いつの日かセキエイ高原の頂上でリーリエに再び相見える事を夢見ている。」

 より深刻なのはもう一つのテーマの方である。これはポケモン世界の根幹に関わる話であり、この理由のために、これまで長くポケモンと共に歩み、ポケモン世界の秘密を解き明かそうとしてきた者はこの映画を必ず観るべきだと私は助言する。単なるポケモントレーナーやポケモン未経験者は観ずともよい。

 ポケモン世界の裏側には、常に「ポケモンのいない世界」への想像力が貼りついている。赤緑が、無意識を意識化する心の挙動を模倣した、セラピー的役割を持ったゲームである以上、ポケモンの世界は常に現実世界と対比参照される。ポケモン図鑑があり、バトルが殺害を趣旨としない限りはそうだ。

 その事に最も早くから気付いていたのは、恐らく脚本家の首藤剛志であろう。本作の例のシーン(その1(学校のシーン))は、「それ」が、遂に具体的なビジョンを伴って現出した瞬間であり、ポケモンの製作者側が「それ」の存在を遂に認めてしまったという事だ。サン・ムーンの内容(ウルトラホールの存在)と合わせて考えればさらに恐ろしい。

 一度見てしまったものについて、見なかったふりをするのは困難だ。今後のアニポケは、或いはゲームも、この想像力に明示的に晒されながら作られるかもしれない。その時、ポケモン作品がどのように変質していくのかは分からない。だが首藤の「ティラノサウルス回」は全くの夢物語とも言えなくなった。

 例のシーン(その2(ピカチュウが喋るシーン))について。ここで当然抱かれるであろう疑念について、私は無難で合理的な解釈をする立場だが、仮に逆の立場から解釈すればまた興味深い知見が引き出せる。即ち、ポケモンはどこまで人間か(またはその逆)という根深い問題が、再びここで浮かび上がってくるのである。

 本作で強調されている二つ目のテーマは、これらのシーンから呼び起こされる底無しの不安に対し、一つの回答を与えるものだ。それは本作のタイトルに端的に現れている。で、あるからこそ、本作は旅立ちの朝を描いたのだ。サトシが例えば六歳の頃のシーンなどが決して描かれないのはこれが理由だ。

 ちなみに例のシーン(その2)の直後に例のシーン(その3(復活のシーン))があるが、これは私の考察においてはもはや重要ではない。このシーンは問題提起パートではなく回答パートにあたる。

 総括すれば、この映画の姿はストーリーではなく寓意の集積であり、その寓意はポケモン世界の内容と形式についてユーザー集団が抱いている漠然とした不安に、それぞれ現時点での回答を与えるものである。この両者に回答を与えたという事実によって、私は本作の歴史的意義を重視し高く評価する。

 その他、
・懸念された過去改変については、私の基準では問題ないレベルだ。
・マコト・ソウジ・クロスという初登場人物で固めたのは、適切な措置だったと思う。
・ロケット団については、監督には猛省を求めたい。二十周年だぞ。
・中川翔子の芸風はやはり好きになれない。世代の問題なのか。


 ポケモンというコンテンツを民話として、つまり象徴の集合として見るならば、ポッポのような普通のポケモンは単なる身近な自然界の象徴であるが、伝説のポケモンはもっと抽象的な意味合いを帯びる。一言で言えば、それらは「困難を乗り越えることの象徴」なのだ。

 彼らはそれぞれのいる場所(フリーザーならふたごじま)の象徴であると共に、険しい道程を踏破したという達成の象徴でもある。アニメで唯一その考え方に厳格に従っているのはホウオウであり、それを崩さなかったキミきめは名作だ。ホウオウは「旅の目標」の象徴であるから、登場は最後の最後でよい。

 キミきめは、「今回はサトシがこういう冒険をしますよ」という話ではなく、冒険をするということそのものを象徴した民話ないし寓話であるから、その中で三犬の扱いが雑だったのはやや残念だ。しかし元々三犬はアニメシリーズでは大した(三匹に共通するような)象徴的意味を持っていない。

 ルギアは自らを評して、「私は私が幻であることを願う。それがこの星にとって、幸せであるなら」と言った。ここにこそ、伝説のポケモンは単なる生き物を超えて一個の象徴であるという思想が――首藤剛志の思想が――凝縮されている。「みんなの物語」ではこれがどうなるか。

 首藤解釈は、常にポケモン世界を心的過程として捉える。その思考法が、渋々子供を劇場に連れていった親たちをも圧倒した「ミュウツーの逆襲」を生んだのだし、そうでなければ、我々が通常想定するような意味ではエンテイの登場しない「結晶塔の帝王ENTEI」は発想さえされなかっただろう。

 キミきめは作中でポケモン世界の実在を否定しなかったが、肯定もしていない。あれはポケモンのいる現実に戻るという解釈もできるが、一方でポケモンという想像の世界を捨て去ってしまわず、必要のある限りそこに留まり続けてよいのだという見方もできる。

 諸君は「くもんの読書コース」に連載されていた「ルミちゃんシリーズ」(なかえよしを・作、上野紀子・絵)の中の、「くもんの読書コースI」所収の最終話「15歳のルミ」という話を知っているだろうか。あれが首藤解釈におけるポケモン世界だ。


映画二回目

 劇場版ポケモン(二回目)を観てきた。公開から三週間経ったためネタバレに配慮せず所見を述べる。未見の向きはしばらく適当なワードでミュートされよ。

 二回目の鑑賞で、私が新たに気になった事が一つある。それはポケモン図鑑の不在だ。これは映画の世界内設定の観点からも、ポケモンというコンテンツの受容のされ方の観点からも注目すべき現象だ。まず前者の面では、子供でも三犬を知っているほどポケモン研究が進んだ世界だという事を意味する。

 初代アニポケでも、図鑑完成の使命はあまり強調されなかった。しかし初代では、図鑑はポケモンを最大でも149種類しか知らなかったのだ。翻って今は地方の間の交流も盛んであり、研究者も膨大なデータを持っている。データ収集にも参照にも、図鑑という形式は採用されなくなったのかもしれない。

 作品を受容する我々の側にも同じ事が言える。我々は既に800種を超えるポケモンを知っており、場合によっては覚える技や種族値まで知っている。ポッポに図鑑を向けて「ことりポケモン」とかやっているのは尺の無駄だというわけだ。しかし懐古のための映画ならポケモン図鑑も再現してほしかった。

 だが、ポケモンの全てが未知でなくなったわけではない。その事はサトシの学校の夢に顕著だ。世界は同じような風景の繰り返しだと知りながらも、サトシは「行ってみなきゃ分からない」と言う。図鑑は種としての平均的な情報しか示さないが、サトシが知りたがっているのはそういう事ではないのだ。

 あるカテゴリーのもとで見れば同じようなものであっても、個々の事物、個々の経験はそれぞれ違っている。サトシはそれを意識しているのだ。その上で「全てのポケモンと友達になるのがポケモンマスター」と言っているのだ。それは、図鑑完成よりも遥かに困難で遥かに崇高な使命だ。

 赤緑において、ポケモン図鑑は未知の自然を分類し秩序のもとに捉える行為、中沢新一の言う「子供の科学」のためのツールとして機能していた。だが今、そのような発達段階にある低年齢層の子供はスマホを持っており、もはや図鑑は夢のアイテムではない(ポケモンファン自体も少子高齢化が進んでいる)。

 一方で、「一般論を超えて、この自分とその相手だけの、個々の出会いと経験を大切にしよう」というメッセージであれば、現代を生きる子供にも大人にも等しく関係する。その点で図鑑の不在は、懐古としては寂しくあるけれども、今という時代に合わせた新しいポケモン解釈としては納得できるものだ。

 もう一つ気になる事がある。ポケモンと人間の死についてだ。ソウジのレントラーは死んだ後も死体が残っていた。一方、サトシは消滅する。この違いは何なのか?
①ポケモンの技と自然現象との違い。
②ポケモンの生命と人間の生命との違い。
或いは、その両方であるかもしれない。

 ポケモンの技と自然現象が全く異なる現象であるとすれば、ポケモン世界におけるポケモンは、自然界に根差した生き物ではなく、自然の諸力とは異なる別の体系に生きる存在であるという事になりかねない。だがこれは、まず「自然」をどのようなものとして捉えるかにもよるだろう。

 仮にポケモン世界の自然が、電磁気力・弱い力・強い力・重力ではなく、ノーマル~フェアリーの十八種類の力から成るとしてみよう。その時、ポケモンの技は必ずそれらのうちのどれかだが、自然現象は恐らくタイプの複合になり、しかも絶え間なく存在し、移り変わる。

 自然現象は、例えば吹雪であれば「こおり+みず+ひこう+でんき」であるかもしれない。それはHPを削りはするが、各タイプの要素を少しずつしか含んでおらず、また単位時間あたりの威力も小さい。物質である肉体は運動である生命よりも堅固であり、それ故に死んでも肉体は消えないのかもしれない。

 しかし、単一タイプしか持たず単位時間あたりの威力も大きいポケモンの技は、過剰に放たれれば、受けた者の肉体のうちそのタイプに弱いタイプの要素を完全に破壊してしまうのかもしれない。すると肉体を形作るタイプ元素(元々は無形)のバランスが崩れ、物質としての形を保てなくなるのかもしれない。

 強力なポケモンの技を複数同時に受けたために、サトシは消滅したり、別の世界では石化したりしたのだろうか(石化は技を受けた方向や、技がエスパータイプであった事によるのか?)。少なくともポケモンの世界においては、HP、生命、肉体、精神が消滅する条件はそれぞれ異なるという事は言えそうだ。

 ちなみにこの解釈では、アルトマーレ沖合でのラティオスの死は、何らかの技(技的なもの)や自然現象が直接の原因というより、ラティオスの方から肉体を構成する力までも自ら使い果たしたためという事になる。

 もう一つの可能性、人間とポケモンの生命の在り方がそもそも異なるという仮説は、つまり「ポケモンはポケモン世界の住人だから消えないが、人間はポケモン世界の住人ではないから消える」、もっと具体的に言えば「ポケモン世界は人間の想像の産物であり、人間が死んでも現実に戻るだけ」というものだ。

 この解釈でラティオスの死を説明する事は難しい。だが、「ラティオスは死んでおらず、存在の形式が変わっただけで、未だポケモン世界の中にいる」と強弁する事はできる。我々が死んでも原子は消えないのと同じだ。同じ肉体の消滅でも、完全に脱出してしまったサトシとは境遇が異なるという事になる。

 次の疑問だ。テンセイ山でサトシが出会いの日のリフレインをやった時、ピカチュウは何故力尽きてサトシの肩から落ちたのか? その後サトシが消滅してから強力な放電をするわけだが、それを何故もっと早くやらなかったのか? ピカチュウの気合に関する何かが、旅立ちの日と違ったのか?

 首藤解釈についてはhttp://pokemon710.blog.fc2.com/blog-entry-143.html…に詳しいが、単に「サトシを守るため」という解釈なら、旅立ちの日とテンセイ山では状況やピカチュウの心境に違いがあるようには思えない。首藤解釈の方が、この状況の説明はしやすいと思う。

 首藤解釈のもとでは、「旅立ちの日のピカチュウは『自分は自分である』という強い意志のもとで電撃を放ったが、テンセイ山でのピカチュウは相手ではなくサトシを見ていた、だから真の力を発揮できなかった、その後の放電は自責によるものである」という解釈が成り立つ。

 一方、俗説に従えば、ピカチュウが電撃を放てなかった理由は「油断」や「慣れ」によって説明する他なくなる。サトシが消滅した時の放電は「サトシを返せ」に加えて「何故守れなかった」という意味に取れるが、俗説の場合の方が少しだけ、ピカチュウは自分が力を発揮できなかった理由に気付きづらい。

 続いて、最後のナレーションが入る場面だが、「人間はポケモンと、この世界の中で色々な絆を結びながら、仲良く暮らしていた」という台詞がある。記憶は正確ではないが、最後が過去形になるところだけは非常に薄気味悪く感じた。ポケモン世界はやはり、過去のものになりつつあるのではないか。

・ボンジイについて。最後のあの台詞は言葉にするだけ蛇足。伝えたい事があるなら映画の本筋の中で伝えよ。
・ロケット団について。やはり監督には猛省してほしい。二十周年だぞ。最後にコジロウがニャースを押し戻してやるだけでよかったではないか。たまには彼らにも良い思いをさせてやれ。

 以上、今夜のポケモン考察だった。続きはDVD/BDが出た時か、また気が向いた時にしよう。

 気が向いた(というより先の記述に抜けがあった)のでポケモン考察の続きを少しだけする。ピカチュウが相手ではなくサトシを見るようになったために力を発揮できなかったというのは、言い換えれば「友情はポケモンを弱くする」というクロスの発言の証明ではないだろうか?

 首藤解釈におけるピカチュウは、旅立ちの日においては自分の事を誰にも何にも帰属しない「ピカチュウ」であると考えていたが、テンセイ山では自分をサトシと不可分のものとして考えていたという事になる。その結果、サトシが危地にある事が不安や焦りとなって心に忍び込み、力を乱したのではないか。

 であるならば、ピカチュウがその後の放電に込めた想いには、「サトシを返せ(怒り)」「何故守れなかった(自責)」のみならず、「他者と絆を結ぶ事、失いたくないものができる事が、何故このような報いを受けねばならないのか(もう一つの怒り)」も含めねばなるまい。

 だが、サトシを失うかもしれないという不安に脅かされる事は、未だピカチュウが完全にはサトシを、サトシと自分との関係を信じきれていないという事でもある。赤の他人→友人→依存(テンセイ山ではここ)→互いに自立し高め合う盟友、という長い長い階梯を、まだまだ彼らは登り始めたばかりなのだ。

「人間はポケモン世界で死んでも現実に戻るだけ」という解釈で、ミュウツーの逆襲の石化はどう説明されるか? やはりここでも、サトシの受けた技がエスパータイプだった事が鍵となろう。サトシは(ポケモン世界に構築された)肉体は無傷のまま、精神だけに深刻なダメージを負ったのではないか?

 エスパー技とは純粋な精神干渉なのか(それはゴースト技の領分なのでは?)、それとも念動力による物理的打撃なのか、という疑問はある。だがともかくも、サトシの精神だけがあの時現実に戻されていたならば、無傷のまま操縦者(然り、この解釈では精神は肉体に優越する)を失った肉体は当然停止する。

 サトシが現実の世界からポケモンの世界(想像の世界)に生まれ直し、しかしその中でダメージを受けて現実に引き戻されるという構図は、現実の我々に照らして考えれば、空想の世界でさえ痛みやままならぬ物事を味わい、幻滅して空想する事をやめてしまうという事態を意味する。

 だがサトシはポケモンの事を忘れず、結局はポケモンの世界に戻ってくる。http://fusetter.com/tw/KS2SB#allにある通り、想像の中の世界、何度でもそれに飛び込む力を捨て去ってはならないし、本当に捨て去ってしまう事もできない、というのがアニポケのメッセージと言えるだろう。

 まんだら氏の考察にある、ピカチュウの方からも灰色の世界に飛び出してきた、という点を私は見落としていた。虚構のキャラクターがこれほどまでに現実に影響を与えているこの時代の様相に合致したシーンだ(ミュウツーの逆襲の頃は描けなかっただろう)。だが、それができるなら、もはや――

 ――もはや、サトシが帰る先はポケモン世界でなくともよいのではないか? ピカチュウや他のポケモン自ら現実世界に赴き、現実世界をこそ「ポケモンのいる世界」に変えてしまえばよいのではないか? そして、想像力の暴走とも呼ぶべきその事態は、既に我々の世界で進行しているのではないか?

 もっとも、それは大人の理屈だ。そのような中途半端な世界を描いて有難がるのは大人だけだ。サトシと同じ年頃の子供は必ずやポケモン世界を欲し、発見し、或いは自ら再創造し、より純度の高い想像の世界を我が物として駆けるだろう。大人が浴しているのはそのおこぼれに過ぎん。


 最近では映画をきっかけにアニメ版ポケモンについて考えているが、私は元々ゲーム版のシナリオにのみ関心のある人間で、アニポケは幼少期に観ていた無印の雰囲気しか憶えてはおらず、アニメの情報と言えば首藤コラムから得たものだけなのだ。今回はその問題意識にたまたま映画が合致しただけだ。

 だが、首藤コラムを見れば分かるように、「人とポケモンとはどういう関係を築いていくべきか」という問いが根底にあるのはゲームもアニメも変わらない。今回の映画で、アニポケを専門に考察する層が私の位置から見えるようになったのは収穫だった。

 今、ポケモンGOが世界を侵した。アニメはこのタイミングで首藤構想を復刻させ、ゲームはこのタイミングでウルトラホールを出した。私はウルトラサン・ウルトラムーン以降のポケモンのゲームが、ウルトラホールの通過と称して所謂第四の壁を超えてくる可能性を考え始めている。


地上波放送

「劇場版ポケットモンスター キミにきめた!」は、ストーリーを楽しむものというよりも教義を散りばめた宗教映画のようなもので、悪い言い方をすればその露骨さが幸福の科学の映画にとてもよく似ている。だが、これを宗教映画と呼ぶならば、その教祖は紛れもなく首藤剛志だ。

「ポケモン世界は心的過程である」――これが、田尻智・首藤剛志・中沢新一が共通して主張したテーゼであるが、キミきめはそこまでは踏み込まなかった。せいぜい、「ポケモン世界には外側がある」というところまでを示したに過ぎない。それでも、アニポケの歴史からすれば革命的だったのではなかろうか。

 ここのサトシクライシスはショッキングなシーンではあるが、これは我々が経験したことでもあるのだ。誰もが、焦りと自暴自棄に自らを投げ込み、自分を支えていた地盤を自ら否定する時期を経験する。経験せねばならぬ。

 言葉は、言葉通りに受け取ってはならない。この生の大部分は、そのような局面から成っている。

 ポケモンが進化した時、サトシが「○○に進化した!」という定型文しか言わないのも、ディテールをその都度変える必要はなくミニマルな記号性だけあればよいという寓話的思考を反映しているのだ。

 悪しき者、こころのしずくを使う時、こころは穢れ、しずくは消える。この町と共に――。
 クロスの主張には確かに一理あるが、ポケモンが心の国の住人であるという教義からすれば、それらの間に敵対的な優劣をつけることはやはり望ましくない。そこでは、対立は止揚のためにあるべきである。

 敢えて言うが、アーサー王伝説のキリスト教的解釈における「聖杯」と、キミきめにおける「虹色の羽」とは同じものである。

 私はアニポケに疎く、おふれのせきしつのBGMが歴史的にどのようなシーンで使われてきたか知らないのだが、このサトシ復活のシーンを分析することは逆にレジ系の象徴的意味を解明することに繋がるのか……?

 そしてこのサトシとホウオウのバトルは、「この出来事は、誰も知らない方がいいのかもしれない。忘れた方がいいのかもしれない」という種類の出来事だ。だが当然、ミュウツーの時のそれとは意味合いが異なる……。

「あのころ、人とポケモンは様々な絆を結び、この世界の中で仲良く暮らしていた。今はもう、誰の記憶にも残っていない――。」

 改めて、サトシがポケモン世界に戻ってきた時の演出は、「ファイナル・ジャッジメント」で鷲尾正悟が大悟した時の演出を思わせ(映像が似ているというより、特殊技術の使い方の露骨さが)、笑い無しには見られないのだなあ……

 ポケモンのいない世界が殊更に灰色に描かれていたのは、「ポケモンのいる世界が本物である」として首藤解釈を否定することになるのだろうか。私にはそうは思われない。むしろポケモンがイマジナリーフレンドであるという本来の主張からして、「灰色の現実世界」を前提としているのではないか。

 現実世界が灰色であってもよい。色鮮やかな空想の世界で遊ぶ、そのような時期があってもよい。だがいずれは、それらは全て思い出となり、大人になって現実を生きるべきである――。そう考えれば、キミきめと首藤解釈は何ら矛盾しない。もっとも、私自身のポケモン観はこれとは少しだけ異なる。

 首藤解釈と私のポケモン観の違いについて言えば、私はポケモン世界は単なる能動的な想像力の産物ではなく、無意識領域を含む、ユング的な「心的過程」全般の象徴とみなしている(中沢新一の『ポケットの中の野生』を参照されたい)[1]。子供が大人になったからといって、それらを失うわけではない。

 大人が生きる現実の只中にポケモンがいてもよいではないか、大人が現実とポケモン世界を自由に行き来してもよいではないか、というのが私の主張だ。ポケモンGOは、ポケモンをバトルやコレクションの道具と見る人間を増やした点でクソではあるが、世界の過渡期として順当な、予想されたクソであろう。


「オレでいいのか」問題とは、人間同士に置き換えてみれば結婚する二人の意識の問題よな。社会的に用意された「伴侶」「最愛の人」という記号が先にあり、その枠に入れるのがオレでいいのか、と問うのは、確かに相手と自分を互いに対等な真なる実存とみなす態度ではない。

 ピカチュウを「ポケモン枠」としか見ないことは、自分自身を「トレーナー枠」としか見ないことに等しい。それは思考の硬直を生み、トレーナーという存在の最も目立つ側面しか見えなくさせる。故にサトシは、バトルを優劣と結びつけ、バトル以外の事柄についてもバトルで優劣を決められると考えた。

 これは既にジェンダー論の文脈で数十年前から提起されている問題で、例えば田中美津あたりの「便所のワタシと汚物のキミよ」という言葉に顕著だ。ともかく、首藤剛志は「ポケモンとは何か」を常に問いながらも、「何であってもいいじゃないか」とも考えるバランス感覚を持ち続けたのだ。


 ポケモン(伝説のポケモンではない、単純に自然の象徴としてのポケモン)は普段は草むらに潜んでいて見えないことにこそ意味があると私は考えるため、これは首肯できんな。どこに何がいるか分からない方が、「至る所に」感があるのではないか。

 諸君は「星の王子さま」を読んだことがあるか? 王子さまが最後にパイロットに贈った贈り物を憶えているか? あるいはここに一人の釣人がいたとして、穏やかな大海原を見て「何もいなさそうだなあ」と思うだろうか? トイレに続く真っ暗な廊下はどうか?

 何百もの普通の薔薇よりも、たった一本の自分の薔薇を愛すること。その一本の薔薇のあるために、全ての星々が輝いて見えるということ。ポケモンのいる世界が夢と冒険の世界だというなら、そういうことを忘れてはなるまい。

 大人になったからと言って、自ら目を覆ってポケモンを見えなくしてしまう必要はない。我々はもっと想像力豊かに生きてよいのだ。それは今からでも始められる。初音ミクの出現とMUSES-Cの帰還が、「この世の全てを擬人化する方法」を私に教えてくれた。


 Nの出現はポケモン世界にとってもポケモンというコンテンツにとっても必然で、その意味でこれはNという「現象」と呼ばれるべきなのだが、もちろん彼はポケモンに貼られたラベルを貼り替えただけで、主人公に出会うまではポケモンを真に対等な存在とは見ていなかったわけだ。

 悪の強制から善の強制へという発想ではなく、選択肢を与えて相手の主体性に任せるべしというのは、どこの世界のどの解放運動でも同じことよな。プラズマ団は人間にポケモン開放を訴えるだけでなく、ポケモンにも啓蒙活動をすべきだった(ゲーチスがそれをするはずはないのだが)。

 ポケモンに選択肢の存在に気付かせ、己の身の振り方について再考させることにやや成功したのが、ポケスペのぶぶちゃんの事例ではなかったかと私は思う。ポケモンも皆が皆ミュウツーではないのだから、たとえ虐待を受けていても自分の意志で現状を変えるという選択肢になど思いもよらない者も多かろう。


 私はポケモンを愛しているが、種族値や個体値をとやかく言うタイプのトレーナーではないということだけ憶えておいていただければ幸いだ。ポケモンバトルは楽しい! 熱いポケモンバトルは実質セックス! だが、ポケモンはバトルの道具ではない。私はポケモンのいる世界そのものについて考え続ける。

 ポケモンGOに交換機能が実装されたことを受け、実家の母が「操刷法師が実家に帰った時に、都合のつかない母の代わりに母のiPhoneで捕獲したミュウツー」を私に送ろうと申し出てきたが(私もポケモンGOをインストールだけはしている)、謹んで断った。ミュウツーは強敵と戦える環境の方が喜ぶだろう。

 技や特性といったパラメータのことに関する限り、それは「種族としてのポケモン」の話であり、「私と旅をしているこのラティアス」のことではない。きっと、パラメータに表れない何かがたくさんある。ゲームのプレイヤーでもアニメの視聴者でもなく、ただポケモンと共に暮らす者だけが知る秘密だ。

 クロスの場合、彼自身の信念は一貫しているが、初期アニポケの教義には「ポケモンに敗北の屈辱を味わわせるべきではない」というところからして既に抵触していたのだ。「ライバル!」の歌詞を見よ。そこには、「負けた悔しさは震えるほどだけど 勝ち負けよりも大事な何かがきっとあるはずさ」とある。

 また誤った引用をしてしまったらしい。ここでは、元の歌詞の一番「負けた悔しさは震えるほどだけど 握り拳をほどいて ズボンで汗拭き握手しよう」と、二番「勝った嬉しさは泣きたいほどだけど 勝ち負けよりも大事な何かがきっとあるはずさ」が混同されていた。

 宗教映画であるから善悪の対立ははっきりしており、とりわけ「悪」が何であるかは明確にされている。クロスもサトシも一度は「悪」に陥ったが、クロスは留まり、サトシは脱した。クロスの名前と髪型は、「×(バツ)」の暗喩であるという身も蓋もない解釈もできる。

 サトシも完全に悟りを開いたわけではない。この映画では、ホウオウはキリストであり、サトシはキリストに「はっきり言っておく。あなたは今この時、わたしと共に神の国にいる」とか何とか言われた人に過ぎない。サトシはポケモンを友達と宣言して義とされたが、今度はそのことがサトシの試練になる。

 つまり――「友達がそんなことするはずない! 友達だと思ってたのに裏切られた!」というのが、次にサトシを待つ試練である。サトシは優劣の思考からは抜け出したが、より大きく抽象的な思考の檻、「相手を何らかのラベルの枠に押し込めて決めつける」というステージにはまだ留まっている。

 キリストになりたければ、クロスに「何故バトルをする?」と問われた時、胸を張って「わかるもんか!!!!!!!!!」とでも言えばよかったのだと思う。



 それは、爬虫類や両生類の皮膚、あるいは泥や水草に触れた時の粘質な感触が、男女を問わず胎内記憶・母子一体状態に根差したプリミティブな官能だからだ。哺乳類だって一皮剥けばそういう感触になる。酒鬼薔薇聖斗が猫やナメクジを解剖した背景にも、実はそのような事情があったに違いない。


その後

「オラシオン」は、曲だけ聞けば確かに名曲だが、劇場版での使われ方がクソ脚本をCGと音楽で誤魔化すような印象しか与えないために、2017年まで私の中では不当に低い評価をつけられていたのだ。キミきめでボーカル曲として復活したのは英断であったと思う。

 あなたがキミにきめる時、キミもまたあなたに決めているのだ。だが、ポケモンというコンテンツがその摂理を明確に説いた場面は、私の知る限り二度しかない。「オレ……だね……」と(明確か?)、サン・ムーンで最初のポケモンを選んだ時のハラの台詞である。

 ここにおいて、人間とポケモンの垣根は曖昧になり、主体と客体という区別すら揺らぐことになる。ポケモンを人間のカリカチュアとして見る視点はアニメで首藤剛志氏が持ち込んだものだが、私はこの「境界の曖昧さ」というテーマを、ルザミーネという人物を用いて増幅することができると考えた。


 キミきめでピカチュウが、旅立ちの日の挙動を再現した上でマーシャドーに負けたのはなぜか。その理由を、操刷法師はサトシとピカチュウの関係の変化に求め、その変化は映画「水の都の護神」が我々にもたらした衝撃と通底している、と述べる。


 キミきめで灰色の世界の描写を挟むのは首藤解釈に応答する上では完全に正しいが、肝心の「では、我々はポケモンのいる世界をどう維持していくのか、首藤剛志の憂いたアダルト・チルドレン社会をどう回避するのか(または、回避しなくてもいいとどう示すのか)」ということがろくに説明されていない。

 キミきめでサトシが復活できた理由は今もって判然としない。ミュウツーの逆襲では一応の理路があったが(ただし映画を観ただけで気付ける代物ではない)、キミきめではサトシとピカチュウを繋ぐ光の裂け目を出現させるために誰も何もしていない。唐突な奇跡の産物であり、あまりに他力本願なのだ。

 灰色の世界で再確認したサトシとピカチュウの間の絆が、この時サトシを救ったと考えてもいいだろう。だが、首藤剛志への応答としてはそれでいいのか? 個々の友好関係が個々人を救うというだけでは、世界全体に希望を保証するには弱い。現に、野生ポケモンもクロスも救いや学びを得てはいない。


 サトシとはポケモン世界にとってのヤマトタケルのようなものだと私は思っている。実在した個人だという確証さえなく、ポケモン世界のあちこちで語られていたかもしれない逸話や願望を単一の英雄像へと詰め込んで、時系列を持つかのように細部を改変して適当に並べたものを、今我々がアニメで見ている。

 ちなみに、「キミにきめた!」がダンデ戦の前であることは明らかで、なぜならダンデ戦を経たサトシとピカチュウはもはやあれしきの有象無象に負けることはないからだ。よってキミきめはサトシ神話の最後に置かれるべきエピソードではなく、よってホウオウにもあの場では勝っていない。


[1] 中沢新一『ポケモンの神話学 新版:ポケットの中の野生』、角川書店、2016


〈以上〉

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