性表現有益論:フィクションによる欲望の言語化

性表現規制という手段

 性差別と性暴力を減らすことは現代の多くの社会にとって重要な課題である。その実現のために様々なことが試みられてきた。同意のない性的接触が悪であると幼いうちから教える試み、犯罪に及びやすい暗がりなどの環境を作らないようにする試み、権威ある役職の男女比を調整して制度設計に多様な視点を取り入れる試み。それら一群の試みの中に、ポルノグラフィ(性表現)を規制するという試みがある。

 ポルノグラフィの規制を試みる立場からは、性差別や性暴力が、人々が両性に対して抱くステレオタイプや規範によって生じると考える。そして、ポルノグラフィがそのようなステレオタイプや性規範を再生産している、あるいはより直接的に、見た者の欲望を掻き立てて性暴力描写の真似をさせると考える。性教育やアファーマティブ・アクションのようなポジティブな施策よりも先に、ポルノグラフィのもたらすネガティブな影響を排除するべきだと考える。

 ここで言うポルノグラフィは、女性の裸体や性器、及び性行為を描写したものに限られない。2023年6月現在の日本の刑法における「わいせつ物」とも一致しない。性別、年齢、様態、媒体、実在のモデルの有無、読み手の属性、流通する場所を問わない。よって、より広い語義の「性表現」と呼ぶ方が適している。自分の性を表現すること、という意味の性表現(gender expression)と重なるところもあるが、ここでは性的な好奇心に訴える表現(sexual media)のことと捉えればよい。

 性表現規制派はそのように考えた結果、法規制、民間の自主規制、市場の縮小を目指す。その手段として、議員や国際機関へのロビー活動、広告やエンターテインメントへの抗議、クリエイターへの批判を行う。直接的な暴力に訴える活動こそしないが、電話攻勢によって企画担当者を疲弊させたり、自治体やイベント会場を通じて企画を中止させたりするだけでも、性表現を扱う企画に対する未来の抑止力になる。当然、その過程で不利益を蒙る人々や事実上の検閲などが生じうるが、長期的にはそれらの副作用を上回る性差別解消の効果が全社会的に期待できる。

 本稿で私は、このような性表現規制論の前提にある、性表現が悪しきステレオタイプを生み人を加害に駆り立てるという言説に対して反論する。なぜ反論するか。性表現には、害がないばかりでなく性差別や性暴力の解消に資する価値があり、性表現規制をやめることによって、その価値を万人が利用できるようにするべきだと考えるからである。

性表現には固有の価値がある

 性表現を擁護するために、これまで様々なロジックが考え出されてきた。その中には、私が使わないものがいくつかある。単なる性表現規制派への人格攻撃は論外だが、私が使わないロジックのうちの一つは、他の表現を人質に取る類のものだ。「性表現規制を許して公権力を強めれば政権批判も弾圧される」のような論法は、私が使うべき武器ではない。私が擁護したいのは性表現そのものだからだ。

 他の表現の権威に依存することなく性表現を擁護するためには、性表現に固有の価値を語らなければならない。

 今日、性表現に対する批判の多くはジェンダー論の観点からなされる。そのようになされた批判の結果、性表現規制がある程度世間に受け入れられているということは、性差別の撤廃や性犯罪の抑止のような目標が世間の合意を得ているということだ。私も心情的にも戦略的にもこれらに反対するものではない。むしろ、このような目標に反対する、あるいは軽視するような主張は、市井においても議会においても主導権を握れないと考えている。しかし一方で、性表現も譲れない。私は性表現こそが男女平等の正義に適うのだと主張する。

 性表現をジェンダー論の見地から擁護する理路には、例えば「日本では女性作家による表現や女性読者による受容が盛んであり、それは女性が性的主体となる機会を生み出す」というものがある。だが、この理路は男性作者・男性読者を救わない。そして性表現批判において、懸念されているのはもっぱら性表現が男性読者に与える影響なのだ。

 男性による男性のための性表現を擁護する理路としては、「フィクションで満足していれば現実の他者に暴力を振るう動機は減る」というものが伝統的にある。しかし、この理路による擁護が功を奏したことはない。その理由は、フィクションでは満足できないほど男性の性欲が激烈なものだと思われているか、フィクションはむしろ不満を煽ると思われているかのいずれかまたは両方だろう。それらには一定の説得力がある。

 欲望の「量」の問題にする限り、男性向け性表現を擁護する理路は説得力を得られない。「本能だから抑えられない」という開き直りを濫用してきた先人たちを恨むがいい。私はむしろ、欲望の「質」、別の言葉で言えば「方向性」の話にするべきだと考えている。


 ある種の行為は、現実で行えば相手個人の人権を侵害する。しかし、同じ行為がフィクションとして表現されれば、全く違う効果を持つことになるのだ。現実でもそれが行われることを助長する、ということにはならない。二つの前提から、二つの過程を通じて、二つの結果が生じる。

〈前提〉

  • 様々な種類の欲望が表現されること。

  • これはフィクションである、という前提認識のもとで読まれること。

〈過程〉

  • 男女の性交を至上目的とする、ステレオタイプな性欲観が相対化される。

  • 一人一人異なる、読者自身の欲望を認知するための語彙が手に入る。

〈結果〉

  • セクシュアリティをはじめとする自己理解が進む。

  • 性犯罪が抑止される。

 これらのことについて、以下では詳細に述べる。

性表現は欲望を認知させる

 「見る、即、真似する」という単純な図式(弾丸理論)が誤っていることは言うまでもない。といって、「影響は十分小さい」という主張も、性表現の真価を見落としている。見ることは、ただ真似するばかりではなく、「自覚して思い留まる」という方向にも人間を動かす。それは、人は自分の欲望の全てを自覚してはいないからだ。自覚し、言語化することで初めて、人は欲望に対する主導権を握ることができる。私はこの主導権を握ることを「理性の俎上に上げる」と呼んでいる。

 人間の欲望はいくつもの階層からなる。人間の生理的刺激に反応して生じる欲望。過去の記憶の蓄積から生まれ、常に意識の片隅にある欲望。あるいは、実行に移される瞬間まで思いもよらなかった行為だが、後から当時の心境を振り返ればその行為として表れる他になかったと思えるような、無意識の反映である欲望。それらの欲望は相互に矛盾していることさえある。

 また、欲望のうちのいくつかは社会的に植えつけられたものだ。私が性表現の擁護者であるとはいっても、社会や言説が人に欲望を植えつける力を持っていることを否定はできない。社会に植えつけられた欲望の最たるものはセックス欲だと私は考えている。つまり、「性欲というものは必ず、異性との性器挿入の快楽を得ることを究極目的とするはずである」という社会通念のことだ。実際には人間に性交という本能があるわけではなく、性器摩擦とオーガズムの快楽を学習し、その快楽を最大化するために粘膜を求め、それがたまたま、視覚や嗅覚の情報によって異性に引き寄せられた先についているだけだ。

 しかし、たとえ性器挿入と生殖を究極目的としない欲望があったとしても、その欲望をうまく認識して言語化する術がなければ、社会通念に従い、自分の望んでいるものはセックスなのだろうと誤認してしまう。性暴力のいくらかは、この誤認がなければ防げるものだ。「セックスできなければ一人前でないような気がする」という考え、「たとえ合意がなくても性器挿入さえできれば何事かを達成したことになる気がする」という考えは、自分が本当は何を望んでいるかを考える機会があれば、防げるものだ。

 性表現は、欲望を認知するための手段を与える。自然に生じたものであれ社会に植えつけられたものであれ、人間がどのような欲望を持ちうるか、ということを赤裸々に提示する。行為や属性をデフォルメしてエッセンスを抽出し、シチュエーションに名前をつける。こうして、読者はまずその欲望の存在を知り、大枠を把握することができる。これが認知だ。そして、それらが紙や画面という外部の媒体に一旦映し出されることによって、読者は描かれた行為と自分の欲望とを冷静に照らし合わせ、「自分がしたいことはこれであろうか」と問うことができる。これが欲望の再検討だ。

 ポルノを読んで認知できるものは、自分の欲望に限らない。「人間というものはこういう欲望を持つことがあるのか」という、他者への理解。「自分がされたことにはこういう名前がついていて、こういう欲望を背景にして起こるのか」という、自分のトラウマの解体。欲望を知ることは自分と世界の両方を知ることである。

 性暴力の原因が性欲ではなく支配欲であるとしてもなお、上の考え方は有効だ。ポルノは、作者がそれを描きたいと思うなら、支配欲の側面も赤裸々に描写する(実際にその側面を描く作品は多い)。読者は、欲望の肉体的・心理的・社会的な側面を全て含めて、ポルノを通して認知することができる。性表現に限らず暴力表現にも、この効果が期待できる。

性表現は読者に内省を促す

 性表現を擁護するための論理として、従来「二次元で満足すれば、三次元には手を出さなくなる」というものがあった。これは、文字通りには正しいが、「何に満足するのか」という点では恐らく性交→射精の伝統的なパターンを念頭に置いている。また、「満足することなどあるのか?」という反論に対して無力でもある。

 対して私は、性表現の価値をもっと深いところに見る。性表現は、欲望に名前をつけて客観的に観察できる形にし、しかもその表現する範囲は伝統的な異性間性交に留まらない。これらの特徴により、「そもそも何が欲望されているのか?」という問いを読者の内に引き起こす。欲望しているものが伝統的な異性間性交やそれに連なる犯罪行為ではないという可能性に気付かせるのだ。この効果は、メディア効果論でいう議題設定機能説(メディアは「何が重要な問題であるか」についての人々の判断に影響を及ぼすとする説)に対応している。

 性表現をこのように捉えることには、一つの大きなメリットがある。「価値のないもの・人気の出ないものを守ってこそ表現の自由であり、豊かな社会だ」という絵に描いた餅に、実利を与えることができるのだ。欲望を認知させるという機能に重きを置く限り、多くの人に不快とみなされる表現も、市場原理の加護を得られないニッチ表現も、レアさによって価値を得ることができる。しかもその価値は、「理性の行使を助け、現実の暴力を防ぐ」という特大の道徳的価値に繋がっている。

 ニッチ表現ほど強く擁護できる、しかもそれが「あっても許される」というレベルではなく「あればあるほど好ましい」ということは、社会に流通する表現の幅を広げることが望ましいということを意味する。多くの、そして幅広い種類の表現に触れることのできる環境なら、「自分がしたいのはこれだろうか」という問いの後に、「これでないなら、どれだろうか」という問いを始めることができる。その問いは、自分が何に性的惹かれを感じるかということなのだから、立派にセクシュアリティの探究と呼べるものだ。

性表現は自由ならば欲望を相対化する

 表現の種類に幅があることによる恩恵は、伝統的な性愛が相対化されることだけではない。ニッチ性癖を含むあらゆる欲望が相対化される。なぜなら、あるポルノが表現している欲望が、別のポルノが表現している欲望と矛盾することがあるからだ。

 合意のもとで行われる性行為と、合意なく行われる性行為。年上の相手を求める主人公と、年下の相手の魅力を礼賛する主人公。現実の性行為の質感を可能な限り追体験させようとする表現と、現実では決して実現できないシチュエーションのアイデアの奇抜さを競う表現。これら、互いに矛盾する欲望の表現を読むことで、性表現は万人が従うべき規範を表しているのではなく、限られた読者層や作者の好みを描いているに過ぎないということを読者は学ぶことができる。

 この学びこそ、現実と虚構の区別がつくということそのものだ。多様なポルノグラフィが自由に流通する環境は、現実と虚構を区別する能力を養う。従来唱えられていた「現実と虚構を区別する能力があるから、ポルノを見ても真似しない」という主張は、実は順序が逆なのだった。


 欲望はみな異なるということが分かったなら、では自分自身の深い欲望は何かという問いに至らずにはいられない。その際、性表現が大雑把にでもジャンルに分類されていること、つまり市場が成立していることは、自分の欲望により合致する表現を探す上で役に立つ。もし、あるジャンルについて議論している同好の士がいて、そのジャンルの本質は何かとか、さらに細分化できる可能性があるとか、同じジャンルに括られていた表現たちが実は全く違う欲望を表現しているとか、そのような言説に接することができたならばますます探究の役に立つ。

 さらに、ジャンルとして名前がついていて同好の士がいること自体が、自分の欲望は社会で生きていけないほど異常で孤独なものだという思いを大きく軽減してくれる。この疎外感がなくなるだけで、思いつめて加害や犯罪に走る可能性は決定的に減るだろう。人間は、欲望が満たされないことで爆発する場合よりも、自分が何を欲望しているか分からずに不安と焦りから人を傷つける場合と、自分の欲望が社会と折り合いのつけられるものだと思えずに思いつめる場合の方が遥かに多い。

 性表現のこの効果は保健体育の教科書では代替できない。読者の欲望に効率的に働きかけようとするエンターテインメントの媒体でなければ、読者は自分の心の反応を十分な強さで検知することが難しく、従って描かれた行為やシチュエーションが自分自身の欲望にどれほど合致するかを判断することも難しいだろう。

 また、それほど性表現によい効果があるのなら、全国民に積極的に読ませればよいのか? そうではない。我々がすべきは自由に読める環境を整えるところまでであり、それ以上踏み込んで強制的に読ませたり、特定の作品をピックアップして教科書にしたりすることは逆効果だ。何らかの結論を強制されることも急かされることもなく、一人一人異なる欲望を一人一人異なる経路で探っていく以外に、自分自身を知る方法はないように思える。


 描かれる欲望の幅という点において、多くのAVのような実写のポルノよりも、イラストや漫画やゲームのような「二次元」のポルノに優位性があると言わざるを得ない。実写でないフィクションの作品には、実在の人間の身体をそのまま映した作品に比べて、登場人物の属性やシチュエーションに物理的に課せられる制約が少ない。また、デフォルメされた絵によって、描かれているシチュエーションが世の中に数多ある欲望の中の一つに過ぎないという相対化の効果も働きやすい。さらには、鑑賞者が自分の嗜好を反映した新たな表現を生み出すことも「二次元」の媒体であれば比較的容易であることから、欲望の琴線を探るためにも優れている。

 ただし実写のAVにも、欲望を自覚させる効果がないわけではない。多様な作品が流通して鑑賞されれば、欲望の相対化の効果も働くだろう。そして鑑賞の前後に、演技や擬似体液などの作為を含んで作られた作品であることを明確に意識させる何らかの仕掛けがあれば、相対化の効果は増すだろう。しかし、「本当にこんなことが起こるかもしれない」と錯覚させることで二次元と差別化を図りたい場合には、そのような仕掛けは邪魔になるだろう。

 実写ポルノ、ならびに今後増えるであろうVRのポルノがどのような場合にどのような道徳的価値を持つかということについてはさらなる議論が必要だ。また、生きた人間がリアルタイムにアバターを操作して行う性的サービスは、基本的にフィクション性(代替可能性、消費の軽さ)を前提とした本稿の議論とは異なる、性風俗の問題系に属する。

自由な性表現の環境は欲望のカタログである

 私は、このように多様な性表現が自由に流通する環境のことを「欲望のカタログ」と呼んでおり、自分の琴線に触れる表現や空想を探ることを「チューニング」「プローブ」などの言葉で呼ぶ。

 欲望のカタログには、できるだけ抜けがないことが要求される。ここまで述べたように、多様な欲望が表現されて市場に出ていること自体が、人を特定の欲望に向けさせていた社会通念を弱め、一人一人が自分自身を知ろうとできる可能性を開き、少数者の疎外感を減じるからだ。従って、この欲望のカタログから抜け落ちてよい表現は一つもない。一つ一つの表現を取り上げて、わざわざ吟味して、この表現は性犯罪につながらない、この表現はちょっとアウト、と判断していく思考法を、私はしない。あらゆる表現は、十分に多様な欲望のカタログの中に対等に並ぶ限り、全て犯罪を減らす効果を帯びる。

 そして、その欲望のカタログの中では、もはや「性表現か、性的でない表現か」という区別も意味をなさないことがお分かりいただけるだろうか?

原理的な限界

 当然、全く同じ欲望を持った人間は二人といないのだから、他人が作った性表現と自分の欲望が完全に合致することはない。ある性表現を見て、「自分がしたいことはこれであろうか」と問えば、「近いが、少し違う」という答えになることが多いだろう。それを受けて自分自身で好みの性表現を作り出すことも一つの方法だ。

 しかし、恐らくはそれでも、完全に満たされることはない。技術には限界があるし、記号が世界を写し取る力にも限界があるし、人の心は時と共に変わるからだ。私は完全に満たされることがなくても構わないと思う。深い欲望にある程度まで迫る手段を手にしている、社会通念に支持されない欲望でも同好の士がいる、ということを知るだけでも精神は安定するし、欲望が完全には満たされないものだと知ることもまた重要な学びだろう。

 だから、多様なポルノグラフィが自由に対等に流通して自由に見られる環境では、不本意な暴力が激減するだろう。しかし中には、自分の欲望を真摯に分析してみた結果、現実の他者を傷つけるやり方こそがまさに自分のやりたいことだった、という結論に至る者もいるのかもしれない。このような者を性表現の力で止めることはできない。国家暴力装置の出番である。私は、人間の精神が自由である以上このような者が出ることは避けられず、自由に伴うコストとして割り切るべきだと考えている。そのコストは、自由な表現の環境がもたらす広く深いメリットに比べれば小さい。

他の立場の議論との接続

 性表現の自由を擁護するために使われてきた論法は他にもあるが、以下ではジェンダーステレオタイプの議論の方面からなされる二つのものについて検討したい。

  • 性表現には既存のジェンダー規範から外れたものがあり(女装など)、それらは性差別を解消する方向にはたらく。

  • 性表現の作り手や読み手のうち少なくない割合が女性であり、性表現は男性の欲望に迎合するようにばかり作られているのではない。

 これらの伝統的な(性表現を弾劾する言説群に比べれば新しいが)主張に対しても、当然反論がある。しかし、多様な性表現が流通する環境が欲望の認知を助けるというここまでの主張と組み合わせることで、それらの反論の多くに対して再反論することができる。

 まず第一の「性表現には既存のジェンダー規範から外れたものがある」という主張に対して、「それはごく一部のニッチ表現であり、ポルノの大多数は旧来的な男尊女卑表現である」「ジェンダー規範から外れているように見える表現でも、なお女性に何らかの役割を押しつけるものである」という反論がありうる。それらに対しては私はこう言おう。たとえ少数のニッチ表現であっても、流通して「そのような欲望がある」と知らしめることができる限りは、欲望のカタログの一部となり、多数派の欲望を相対化する力を持つ。そして、その知らしめることのできる欲望の範囲は「女性キャラクターに何らかの役割を押しつけたがる欲望」というところにまで及ぶ。よって、たとえ反論が事実であるとしても、なお現実の性差別の解消に資する効果がある。

 次に第二の「性表現は女性も主体的に参加している分野である」という主張に対して、「女性であっても、女性差別的な社会構造の再生産に加担していることは非難に値する」(いわゆる名誉男性)という反論がありうる。それに対しても、そもそも性表現は性差別への加担とは真逆の機能を持つと言った上で、作り手・読み手が多様であることは欲望の認知と再検討を促す機能をますます充実させる、と私は言う。

 このように、欲望を認知するツールという観点を持ち込むことにより、他の性表現擁護のロジックを補強することができる。逆に、欲望の認知という観点がなければ、従来から使われていた性表現擁護のロジックは全て「真似したらどうするのか」という古典的な批判に対して弱い。それに対する性表現擁護者側の反論は、これまでデータしかなかったのである。

 ちなみに、役割を押しつける話に関連して、フィクションに描かれたキャラクターと現実の人間とを同一視してよいかという問題については、脈々とした研究の伝統がある[1-3]。フィクションのキャラクターに性的に惹かれることを、現実の人間に惹かれることとは異なる独立した一つのセクシュアリティとみなす動きも顕在化してきた。しかし、欲望の認知と再検討に注目する私の主張では、フィクションのキャラクターと現実の人間とを完全に別物とはみなさない。両者がある面で繋がっているからこそ、現実の人間に向ける欲望を、フィクションを見て認知し再検討することができる。

 私見では、現実の人間に欲望を向けていると思っていても、そのとき脳内で想定している対象のイメージは常に、相手が目の前にいるかどうかにかかわらず、フィクション的なものである。よって、全ての人間はフィクション性愛の実践者であり、フィクションと性を巡る議論はフィクション性愛者という性的少数者の名誉回復運動として行うよりもフィクション性愛という営みの権利運動として行う方が望ましいというのが私の立場である。

実装上の課題

 上で述べてきた主張に対して、次の四つの反論が考えられる。

  • 人間は誰もが我が身を顧みられるほど賢いか?

  • 欲望を自覚する方が、自覚しないより抑えが利くというのは本当か?

  • 異性間性交が相対化されると、少子化が促進されるのではないか?

  • 性表現が自由に流通すると、むしろ多数派の表現が少数派を駆逐し、多様性が減ることにならないか?

 これらは全てもっともな懸念であると言おう。どれも厄介な問題だ。

 第一の懸念、人間の認知能力を高く見積もりすぎではないかという疑問に対して、先述したように、「認知能力はむしろ多様な性表現を見ることによって鍛えられる」と言うことはできる。しかし、その伸び代や伸びる効率には個人差があるだろう。あるいは知的障碍者の場合はどうなる? このような個人差に対して、例えば危険を伴う道具である自動車はライセンス制によって対処しているが、性表現の利用を知的機能によって制限することは知る権利や身体の自由権(ここでは自慰の自由を念頭に置いている、ただし性表現を用いない自慰は不自由ながら可能だ)を侵害することでもあるだろう。

 第二の懸念、欲望は自覚すれば制御できる類のものなのかという疑問は、それが事実かどうかということよりも、事実であることを納得してくれる人々がどれだけいるか、という点で深刻だ。「欲望の統御」という発想は明らかに外向的な欲望、つまり他者を対象とするタイプの欲望を念頭に置いており、さらに踏み込んで言えば、男性が女性に向ける欲望を念頭に置いている。

 女性に性欲がないという考え方はもはや時代錯誤だが、男女の欲望の性質はどうやら異なるらしい。また、欲望というものに対する捉え方も異なる。成人女性の約半数が自慰を経験していないという調査があり、ポルノサイトの利用者の男女比はどこでも約7:3に偏る(三割を意外に多いと思う人もいるだろうが)という調査がある。私が本記事で主題にしている「欲望」という言葉がそもそも生々しくて嫌だ、という人もいるかもしれない。

 このような層に対して、どうすれば欲望と性表現の関係についての新しい考え方を納得してもらうことができるだろうか? 私は、一人一人が丁寧な言葉で、自分の欲望との関わり方を真摯に語っていく他はないと思っている。私的な信頼関係のある間柄なら、そのような話もできるかもしれない。書籍ならLPOPによる優れた記録がある[4]。これまで語られなかったこと、自虐や冗談のような形でしか語られなかったこと自体が、誤解と抑圧の結果であり、また原因でもあったと私は思う。

 第三の懸念、少子化への懸念は、諦めてもらうしかない。私はジェンダー論に適うように議論を進めてきたが、伝統的な異性愛性交を重んじる保守的な立場との妥協点を見出すことはできなかった。人工授精と人工子宮の普及が一つの答えではあるが、人口の維持とは別に異性間性交という行為そのものに(万人にそれを強いるほどの)神聖さを見出す立場の人々を私の主張で説得することは残念ながらできない。

 第四の懸念は、性表現に限らないあらゆる市場が抱える課題だと言えるだろう。グローバル巨大企業の台頭により、「完全な自由競争は強者のやりたい放題を許してしまう」という認識が広まりつつある。とはいえ性表現については、伝統的な異性間性交を描く作品を規制してニッチ性癖を保護するという方針を私は支持しない。私は異性間性交への欲望それ自体を悪徳として非難するものではなく、あくまで「それしかない」という思い込みに対して警告している。また、伝統的な性行為の描写でも、作者ごと・作品ごとの差異を知ることは有益だ。

 各種表現の流通する量に偏りがあることは避けられないとしても、せめてそれぞれの存在くらいは認知させられるようにするべきだろう。まず少数派に不利益を与えないための方策として、広告宣伝において差別せず、ジャンルごとに棲み分けをするにしても「棲み分けがなされていることが分かる・中におおよそどういうものがあるかが分かる・中を詳しく見たければ自由に見られる」というラインを維持すること。そして、表現「についての表現」まで隔離の対象としないこと。これらは性表現全体のゾーニングについても同じだ。

 実際にはあらゆる表現は過去の表現の影響を受けているし、ある表現が存在すること自体が「こういう表現が存在してもいいだろう」という政治的メッセージであるから、厳密に「表現についての表現」の基準を定めることはできないが、例えば2018年3月に『エロマンガ表現史』(稀見理都、2017)が北海道で有害図書指定されたことは「表現についての表現」への抑圧の典型例であろう。

 一方、積極的に少数派の利益を増すためには、ダウンロード販売のサイトなどで頻繁に行われている、特定ジャンルを特集した「ピックアップキャンペーン」のようなものが現実的な方法かもしれない。表現の市場がパイの奪い合いになっていると、多数派を抑圧する発想に流れることが避けられないため、表現の享受者の数を増やす必要は常にある。

理屈は実感の後からついてくる

 性犯罪の認知件数は戦後以来、わずかな増減はあるものの減り続けている。しかし、これを「減っている気がしない」と感じる人々は多く、また減っていることを納得していても、その一因が性表現の機能にあると考える人は少ない。

 体感治安が向上しないのはマスメディアの報道姿勢に原因の一端があるが、性表現が持っている本当の効用が知られていないのは、単に慣れと語彙の問題だ。欲望のカタログを有効利用している人が少ない、いてもその効用を語る語彙を持っていない。理屈と実感が両方伴わなければ、堂々と性表現を擁護することができない。実感を広めるためには理屈とは独立した方向からの働きかけ(ここでは経済効果と政治的パワーゲームのこと)で性表現を社会の表舞台に出し、「エロが氾濫したが大丈夫だった」という既成事実を作るべきだと私は思う。そして、「なぜ大丈夫だったのか?」を問う者が現れた時、この記事で述べた「性表現による欲望の認知」という説明が真価を発揮するだろう。

年齢制限への異議

 ニッチ表現ほど強く擁護できることについては上に述べた。それは過激でグロテスクな表現についても同じだ。表現を不可視化するほどのゾーニングをすべきでないことも述べた。さらに、未成年者が性表現に接することも、欲望の認知という観点から擁護できる。

 自分の欲望に最も振り回され、他人の欲望に最も晒される時期は、男女を問わずティーンエイジだ。欲望を認知し言語化する術を持つことは、本来未成年にこそ必要なのだ。現実と虚構を区別する能力は、性表現を読むことによってこそ養われる。性的な欲望をはっきりと意識する時期を迎えてからでは遅い。第二次性徴期を迎える前に多様な性表現を自由に吟味することが許されていない状況は、社会秩序の維持という面から見れば暴力への加担であり、未成年者個人の権利という面から見れば教育虐待である。

 しかし、何歳から自由にするべきなのかという具体的な線引きの決め方には議論の余地があるだろう。それは恐らく、知的障碍者にどのような自由を認めるかという話とよく似た議論になるだろう。これについて私は確たる意見を持っていないが、確たる意見を持っていないうちは、マイナス2歳(胎教に性表現を用いることを否定しない数字)という線引きを掲げておく。

まとめ

 まとめよう。性表現は人間の持ちうる多くの欲望を類型化し、言語化する。多様な性表現に接することによって、読者は自分の欲望を認知して理性の俎上に上げることができ、さらに自分のより深い欲望が何であるかを再検討することができる。この結果、読者は自分のセクシュアリティを高い解像度で探って幸福を追求することができ、また犯罪や加害を未然に思い止まる可能性が増す。これが、ジェンダー論とも社会秩序の維持とも衝突しない、性表現を積極的に擁護するためのロジックである。


 この記事の感想や引用、及び、より平易な言葉による解説を歓迎します。その際、出典として著者名(操刷法師)と記事名(性表現有益論:フィクションによる欲望の言語化)、または前記二項目に代えてこの記事のURLを明記してください。


[1] 大塚英志、『「おたく」の精神史』、講談社、2004
[2] 永山薫、『増補 エロマンガ・スタディーズ』、筑摩書房、2014
[3] 松浦優、『メタファーとしての美少女-アニメーション的な誤配によるジェンダー・トラブル』、「現代思想」第50巻第11号、2022
[4] LPOP、『抜いた記録』、LPOP、2019

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〈以上〉


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