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性癖分析シリーズ1「貧乳の実母を犯すということ」

概要:承認欲求の非自明な年齢依存性から生じる、乳幼児期のような庇護を求めるデストルドーと青年期のような恋愛を求めるリビドーとの相克によって、スレンダー体型の実母キャラに需要が生まれることについて。


2023.02.19 本記事の英訳版がnote運営事務局より「性的な音声、画像、動画」が含まれているという理由で公開停止措置を受けました。英語版記事は規約に抵触するおそれのある箇所を修正して新規投稿しました。本日本語版記事でも、規約に抵触するおそれのある箇所を修正しました。


 本稿は2017年11月に時代錯誤社より発行された「月刊『恒河沙』199号」所収の「貧乳の実母を犯すということ」に加筆・修正を施し、同団体の許諾を得てここに掲載するものです。

 海外への意見発信のために、全文の英語訳を以下のページに掲載します。文法上の誤りの指摘・表現の改善案などあればコメントにてお寄せください。

〈2023.02.19 URLを検閲修正版に差し替えました。〉



0 ロリババアの周縁としての母

 西暦2015年9月、『コミックLO』をはじめニッチ性癖専門誌を数多く手掛ける茜新社は新たに「ロリババア専門誌」の創刊を宣言した。ロリババアとは、高齢ながらそれに不相応な幼女の外見を持つキャラクターの総称である。『』と名付けられたこの新企画に対し、当時の私は次のように冷ややかな反応に徹した。

荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第4部「ダイヤモンドは砕けない」

「新機軸は…ロリババア~~~? ケッ! おれは巨大娘趣味だよ…! 『ロリババア』なんて短絡的なギャップ萌えでチャンチャラおかしくて…」


 私がこの雑誌を実際に読んだのは、それからおよそ一年半の後である。総合的な感想を言えば、ロリババアというジャンル自体は精神分析学上多くの重要な要素を包含するものの、成年向け漫画として「ロリババアでなければ描けないエロ」には乏しい。

 しかし、そんな中で私のこころのおちんぽに響いたのは、ともするとロリババア漫画としては中途半端の評を受けるかもしれない一作であった。

【画像検閲済】yam『あやかしえにし』所収「ネコミミ母さん」

「こんなゴムに出すくらいならお母さんの口の中に出しなさい!」


 この作品に登場する母親は実年齢418歳の化け猫という設定だが、ロリババア漫画の中核をなす重要要素であるはずの年齢ゆえの冷静さや技術、また常人と生きる時間スケールが違うことに起因する悲しみなどは一切描かれていない(夫と三年ご無沙汰しただけで息子に発情する)。彼女において年齢は単なるギャップ演出のための小道具に過ぎず、彼女というキャラクターの本質はただの「極端に若く見える・スレンダー体型の・実母」だと言ってしまえる。

 ここで私はあることに気付く。私は同じ構成要素でできたキャラクターを知っている。それはより有名な全年齢対象作品に登場する。それはルザミーネである。

『ポケットモンスター サン・ムーン』の登場人物、ルザミーネ


 ルザミーネはゲーム『ポケットモンスター サン・ムーン』(2016年発売)に登場する重要人物である。生活感のないプラチナブロンドの姫カット・ミニスカワンピ・白と黒のストライプタイツ・ハイヒールという出で立ちの痩身の美女。申告されなければ彼女が四十路で二児の母であるとは誰も分からない。そして、彼女はその容姿と設定のギャップによって熱狂的な人気を博した。本稿が最初に書かれた2017年11月13日時点で、pixiv上には「ルザミーネ」タグのついた絵が1696件あった。2022年11月13日現在では4336作品になる。

 ――この種のキャラクター造形が、少なくない数の、ある種の人間の琴線に触れるのはなぜか?
 これが本稿の解き明かそうとする問いであり、無意識領域の性的コンプレックスを探るために私が読者諸賢に提案する新たな視座である。


1 「バブみ」概念の矛盾

『ネコミミ母さん』の母親と『ポケットモンスター サン・ムーン』のルザミーネに共通する要素のうち、最大の特徴は「母親であること」であろう。従ってまず、母親という記号がキャラクター造形において担っている典型的な意味について概観しよう。

 母親キャラによって表現されることの多い性質とは、相手の存在を無条件で全面的に肯定し、その過失を赦すという、「承認と免責」の機能である。この機能は現在のネット空間においては、専ら「バブみ」という言葉で表現されている。もっとも、傾向としては本物の母親ではなく、年少の少女や姉や年若い声優にバブみが求められることが多い。

飯田ぽち。『姉なるもの』第5話より。「バブみ」と「おねショタ」はしばしば同一視されるが、両者の厳密な定義と差異については今日でも議論が錯綜している


 ここに二つの疑問がある。一つは、「バブみ」という言葉そのものに示されているように、承認と免責を与える「母」に対して、何故与えられる側の立場が「乳幼児」であるのかということ。もう一つは、何故、母でないキャラクターにまでバブみが見出されているのかということである。

 一つ目の疑問については、分析を試みた先例が既に数多くある。それらによれば答えは単純だ。親は子がいくつになっても親だが、子としては乳幼児が、承認と免責を最も強く享受できる立場だから、というものである。これは一見もっともらしく聞こえるが、あまりに単純な見方であることを後で示す。

 一つ目の疑問への答えの単純さと裏腹に、二つ目の疑問はこれに矛盾する。年少の少女や姉や声優にバブみを求めることは、いわば「母と乳幼児」という基本的な図式にバリエーションを持ち込み、放散させるものである。このバリエーションは何から生まれるのだろうか。

 二つの方向からの考察が可能だ。一方は「母と乳幼児」という図式への反発、もう一方は他のバリエーションの持つ魅力による誘引である。「母と乳幼児」という図式が心理的な反発を招くことは社会通念上の禁忌や自分自身の現実の母との関係によって説明できるだろう。幼女や姉のキャラクターが母親とは異なった誘引力を持つことは、年齢の近さをはじめとした様々な要素によって説明できるだろうし、その誘引力は性行為を描写するにも好都合だろう。しかし理由がどうであれ、「母と乳幼児」という図式から離れることは肝心の承認と免責の効用を制限する方向に働く。

 一般論的に言って、乳幼児が承認と免責を最も強く享受できるのは、何らかの行為を積極的に意志することも意志を実行に移す能力もない、つまり自己決定能力がないからである。母を選り好みし、あまつさえ性的快楽を求める在り方は、乳幼児から逸脱し、承認と免責を享受する権利を損なうことになる(※1)。「バブみ」は、承認と免責を享受する側を乳幼児に比定する限り、本来的に放散と矛盾を避けられない。承認と免責の最大化という理想と、書き手や読み手がもはや乳幼児ではないという現実との乖離が、こうした矛盾を引き起こしているのである。

 それでは、幼女や姉に向けられる「放散したバブみ」は、承認と免責の最大化を諦めた末の妥協に過ぎないのだろうか。放散したバブみが広く受け入れられている状況をそう断じるのは早計であるように思われる。承認と免責はもっともらしく見えるキーワードだが、その前提に誤りはなかっただろうか。もしくは矛盾を統合する隠れた前提を我々は見落としてはいなかっただろうか。


(※1)乳幼児に性的快楽や性欲はないのか、という点については注意を要する。幼児においても自慰行為があることは報告されている。また、そもそも性衝動をより低次の欲求が成長して具体性を伴ったものと解釈するなら、乳幼児期にこそその本質が露呈していることになる。そのため本来ここでは成熟した性衝動を強調するために「射精の快楽」などと呼ぶべきである。成人性と幼児性の矛盾の最も先鋭化した例の一つとして授乳手コキがある。


2 乳幼児期からの離脱

 先に「乳幼児が、承認と免責を最も強く享受できる立場」だと書いた。与える側の都合からすれば、確かにそうであろう。だが、果たして受け取る側が望んでいるのは承認と免責なのだろうか。承認と免責に色はついていないのだろうか。

 成人した読者が承認と免責を求めるのは、成人した今、それが欠乏していると感じるからである。しかしその欠乏感が、より若い特定の時期における欠乏感体験の残滓だとすればどうであろう。それが物心ついてからのことであれば、その時点で自分に欠乏があることに気付き、以降ずっとその欠乏感体験を引きずるのではないか。特に乳幼児期に十分な愛情を受けて育ったがその後欠乏を蒙ったという場合、承認と免責を求めるにあたって、乳幼児期よりもむしろ自分自身の欠乏の時期を「やり直す」ことを望むのではないか(※2)。

 このように考えれば、乳幼児にあるまじき社会常識や性欲を持っていることは、承認と免責を最大化することともはや矛盾しない。正確には、承認と免責がもたらす効用を最大化することと矛盾しないのである。承認と免責を最も欲した時期が第二次性徴期以降であれば、当然性欲も肯定されて然るべきだからである。このことは自分自身が乳幼児から逸脱することのみならず、母にあたる存在をもっと若い、性的魅力の高い女性として描くことも許容する。主体が乳幼児から外れ、多くの他者と関わりを持つ年齢へとシフトした時点で、それに承認と免責を与えるのは必ずしも母でなくともよくなる。

 こうして様々な承認欲求充足のパターンが生み出されることになり、母性が年少の少女の無垢さで代替されるという現象も起こる。一旦そうなれば、対象が年少の少女か姉か声優かという問題はロリ論・おねショタ論・声優論といった各論に委ねられるべき些末事となる。

 母に限られなくなったこれらの嗜好は、「いつ、どの程度承認を求めていたか」と「いつ、どの程度、実際に承認が得られたか」という二つの情報によって分類できるだろう。ここで、求めた(または、求めるであろう)承認の量を年齢xなどの関数とみて、待望承認関数w(x)と呼ぼう。一方、実際に得られた(得られるであろう)承認の量を年齢などの関数とみて、所与承認関数f(x)と呼ぼう。そしてこの二つの関数の積f(x)*w(x)を、各年齢において承認と免責から得られる効用(うれしさ)を表す関数、承認投機関数と呼ぼう。

所与承認関数(左上)、典型的な赤ちゃんプレイ愛好者の待望承認関数の例(左下)、典型的な赤ちゃんプレイ愛好者に対応する承認投機関数(右)


 例えば9歳の時に最も承認に飢えていたなら、待望承認関数w(x)はx=9で最大値をとることになる。あるいはw(x)が乳幼児期と青年期の二箇所に山を持つこともあるかもしれない。また、所与承認関数f(x)は大雑把には乳幼児期に最大値をとり単調減少するが、年齢以外のパラメータによっても変動しうる。最終的な嗜好を分類するのは承認投機関数f(x)*w(x)によってであるが、ここで単純にwのみを用いないのは、実際に各年齢で得られるとみなされている承認の量であるf(x)が、シチュエーションが作品として描写された際のリアリティを左右するからである。しかし、個人差は主にw(x)において導入される。


(※2)乳幼児期に欠乏感体験がある場合は欠乏状態に気付くこと自体が困難である上、身体接触などによって安心が得られるという実感がないため、別の機序を考えなければならない。


3 おねショタの限界と実母への回帰

 承認と免責の効用を年齢によって重み付けすることで、「バブみ」の議論から多様なバリエーションが自然に引き出されることを見た。しかしながら、我らがルザミーネは若々しい美女として描かれながらも、依然として四十歳を過ぎた二児の母である。このことが持つ意味を無視してはならない。承認と免責の充足の在り方が多様化するメカニズムが明確になった今、実母という属性が今も持っている意義とは何であり、どのような場合にそれが見る者の琴線に触れるのだろうか。

 前節で、承認と免責を与える側が必ずしも母でなくてもよいと述べた。しかし正確には、求められる承認と免責が大きくなるにつれて、これは成り立たなくなる。個人的に無条件の好意を寄せてくれるというレベルであれば幼女にも務まるが、経済的に扶養してくれる、親族への世間体を取り繕ってくれる、就職先を斡旋してくれる、犯罪を隠蔽してくれる、人生相談に乗ってくれるなどという社会的な範疇にまで要求が及べば、幼女はもちろん社会人の姉にとってさえも過剰な負担であろう(※3)。

 承認と免責は多くの作品においては「おねショタ」という形式のもとで充足が図られるが、「おねえちゃん」もこの問題に対する大域的安定解とはなり難い。「おねえちゃん」が未成年であれば、承認と免責を与える側の抱える未熟さや不安定さ、社会的に弱い立場などをある程度共有してしまい、また赤の他人であれば、幼少期から弱みを含めて全てを知られていない(=弱みを見せると接し方が変わるのではないか?/出会う前のことを全て語り尽くすことはできない!)という不安が生まれる(※4)。

 さらに、これらの条件がクリアされたとしても、二者の関係が家族・肉親に祝福してもらえるかどうか分からないという懸念を払拭できない(※5)。多くの要求に応え得る万能のヒロインを描く作品もあるだろうが、その万能性を確実に印象づけることができなければ、「安心して甘えられる」という本来の機能には瑕疵が残る。しかし、もし「おねえちゃん」の内実が「実の母親」であれば、上記の全ての問題は解決に向かうのである。

 幼児にとって母親は全能である。のみならず、自己責任のもとで社会に参画するリスクが増大した現代日本においては、母親の支配的な影響力は成人してもなお人を束縛する。さらにこのような社会で結婚・出産にまで漕ぎつけ、物心がつく年齢まで子を育てたという実績は、一定の忍耐力と経済力、そして社交スキルの存在を暗示する。もちろん実母であれば子のことは生まれる前から知っているわけでもあり、また性愛関係についても母親がいいと言えば他に反対する者はごく少ない。こうした「母」のイメージが必然的に生み出す安心感と信頼感は原理的に、前節で導入した待望承認関数wの形状にかかわらず成立する。餅は餅屋の諺に倣えば、蓋し「赤子は母」と言うべきか。

 それにもかかわらず、「多くの人は若い女の子の方が好き」「肉親とはちょっと……」という禁忌や商業主義の都合は厳として存在し、母の代わりに幼女・義母・近隣住民・教師などが承認と免責の与え手に任じられる状況を生んでいる。この状況に適応するための「母」の奇策――それが、「貧乳の実母」というハイブリッド属性である。


(※3)月刊『恒河沙』152号所収「妹のつくりかた」には、姉という属性を指して「外界の不安を家庭に輸入する」と述べられているが、承認と免責の高負荷領域ではまさに外界と繋がり、外界と折衝し得る能力こそが求められているのである。
(※4)性行為に興味津々であるような年齢の場合は特にそうなりやすいと思われるが、「おねえちゃん」に大人の余裕が感じられない描写はおねショタにおいては邪道とされることもある。
(※5)愛し合う二人の間で関係を完結させ、社会環境からの圧力に対しては駆け落ちなどの方法で抗うという思考様式がゼロ年代以前にはしばしば見られたが、それを良しとしない現代の「祝福原理」については稿を改めて考察する意義がある。ここで指摘しておかなければならないのは、この「祝福原理」は幼少期から母親の顔色を伺いながら過ごした経験に端を発すると思われ、これを強く内面化した人間はそもそも実の母親との性愛に親和性が高いと考えられる点である。


4 過去には盤石を、未来には流動を

 我々はキャラクターについて議論しているから、図像における描かれ方がキャラクターの機能を左右することを無視できない。情報爆発の時代を迎える以前、母親の身体的な条件とは即ち子を守り育てるための豊満な乳房と安産型の幅広の腰を持つことであった。しかし翻って現代、フィクションに描かれる母親像は若干の変容を見せている。冒頭で紹介した『ネコミミ母さん』然り、ポケモンのルザミーネ然り、生殖器官の豊満さを捨ててスレンダー体型ないし幼児体型を選択する例が散見されるようになっている。

 この現象を説明するためには、第2節で導入した待望承認関数w(x)に立ち戻るのが有効である。乳幼児期を脱し、異性を意識するようになってからの時期にw(x)のピークを持つような人間。児童においてさえ男女の関わりがリスクとみなされる社会には、そのような人間は多く現れる。そのような人間(ここでは異性愛男性とする)が、ひとたび「母」概念の効用に気付いてそれをどうにか利用しようと考えた時、何が起こるか。それはまず、「安心して母親に甘えたい」という欲望と「同年代の女の子と恋愛を楽しみたい」という欲望との相克である。言い換えればこれらは、無我の過去に向かうデストルドーと、自律の未来に向かうリビドーの相克である。

 安心とは何か。実績のある相手に、求めただけの承認と免責を保証してもらうことである。恋愛とは何か。見知らぬ他人と契約を結び、不確実な未来に投機することである。この二つを矛盾なく結合させる方法はこうだ――「母」の観念的特質であった安心感と信頼感アンチ・フラジャリティ、「世情に長け、自分のことを全て知っていてくれる」という側面を、全て設定だけのものとし、身体的特徴には第二次性徴を迎える前の女児を思わせるスレンダー体型を与えるのである。信頼に足る能力と経験を培った過去に、成長の余地ある、子供が等身大の恋人として歩調を合わせて歩んでいける未来を接ぎ木するのである(※6)。

 ただ性欲を満たすことだけではなく、過去と現在と未来にわたって全人的な承認と免責を求めるのならば、近親相姦の禁忌の証・性的渇望の温度差の証・残された未来の差の証、それ故いつか別れて独り立ちしなければならないことの証である豊満な胸や尻などは、むしろ邪魔にすらなるだろう。

 待望承認巻数w(x)のピークが小学生から中学生の範囲にあって尖鋭であれば、単に「母」が生殖適齢期にあるというだけでは彼の要請を満たさないことが分かる。彼の望みは射精の快楽より前に存在するもの、同年代の女子が一種異様な存在に見え、嫌悪に似た不定形のむず痒さを覚えながらも抗えぬ引力に惹かれてそのふくらはぎのあたりをちらちらと眺めていた「あのころ」の、自分でも正体の分からない衝動を鎮めることなのだから(※7)。この「子供の頃の同級生の女子」の姿が、母親にしかできない強度の承認と免責を伴って「いいよ」と差し出されること、これこそが彼の求めているものなのである。これゆえに、貧乳の実母というキャラクター造形が生み出され、現にメジャーな作品において大きな成功を収めているのである。


(※6)無論、「等身大の恋人」という側面は容姿のみによって担保された錯視に過ぎないが、二次創作(作品として出力されない個人の妄想もここでは含む)においては容姿の情報が目に見えない設定や性格よりも比較的よく保存されることがあり、二次創作を経ることにより「等身大の恋人」の側面が発達するという段階まで考慮するべきである。
(※7)母の面影と同級生の少女とのリンクについては、一部の手塚治虫作品や『新世紀エヴァンゲリオン』も示唆に富む。また、射精の快楽より前に存在する性衝動について、詳細を以下の記事で論じた。


5、貧乳の実母と新たなる旅立ち

 かくて、「貧乳の実母」というキャラクター造形が、ただのギャップ萌え狙いに留まらない、極めて明快かつ切実な心理学的合理性の産物であることが明らかになった。「母」と「娘」と「待望承認関数w(x)」の神秘的な結合は、父と子と聖霊の三位一体にも比定されうる深遠なる哲理である(※8)。老いたる太陽が若々しい姿を取り戻して地下世界から蘇るエジプトの神話が、女神を太陽神に戴くこの国で変奏された結果の、これも道理であろう。バブみの放散から始まった探索行は、こうして螺旋を描いて再び母へと戻ってくるのである。

 さらに「貧乳の実母」は相反する二つの性質の貼り合わせであるが故に、それらの要素を微調整することで様々なバリエーションを生み出すことができる(※9)。細分化した性癖の袋小路ではないのだ。例えばルザミーネの場合、その容姿を見るだけでもいくつもの微妙な足し算引き算の痕跡が窺えるし、シナリオ終盤の感情的な言動も、高圧的で陰湿なものではなく少女的な駄々こねのように描かれており、当初の優しい母親の印象と鮮烈な少女性を同居させることに成功している。また成年向け作品では無視できない「プレイ」の幅についても同様だ。特に一度は捨てた胸・尻の豊満要素を、足の裏(若い時の方が柔らかく肉付きがよい)などによって代替・調整するという方向については今後さらなる模索と発展が待たれる(※10)。

 人間は自分の意識に上り言語化される情報のみによって生きているのではない。むしろ我々の思惟の大部分を支配しているのは無意識である。しかし我々はただ無意識に怯えるのではなく、それを理解して共生していかなければならない。無意識を映す鏡として性的嗜好は格好の鏡であり、タブー視されている内容ともなれば尚更である。その端緒として母との関係性は無視できない。貧乳の実母は、我々の知らない自分自身を見せてくれる。それはまさに、生まれた時から子を知っている母親の特権なのである。


(※8)ルザミーネとその娘リーリエを重ね合わせる読み方について、まずはジョージ『私の母様』を、そして拙作『少女時代』を参照されたい。

(※9)ただし、相反する要素を張り合わせて作られた属性は市場原理によっていずれ両極端に収束することが、月刊『恒河沙』152号掲載「ツンデレの数理」にて示唆されている。
(※10)女性キャラクターの足の裏を性的対象とする心理については、「巨大娘(サイズフェチ)」というフェティシズムの構造と関連して、いずれ別に分析の機会を持ちたい。


〈以上〉

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