小説『仮想美少女シンギュラリティ』感想:美少女と多神教


感想

電子で読むか、紙で読むか

2022年9月、バーチャル美少女ねむ『仮想美少女シンギュラリティ』を読んだ。これは『メタバース進化論』の第7章のファントムセンスの話を掘り下げたものだが、書かれた時期は『メタバース進化論』から三年遡る。私は『メタバース進化論』を著者の博士論文と呼んでおり、そこに書かれた内容はソーシャルVR国勢調査2021の結果を除いて著者の活動の初期に既に構想されていたものだ。『仮想美少女シンギュラリティ』には、著者がメタバースを人類史上の革命と語ることの真意がより具体的に表現されている。

ただ、Kindleとオンデマンド印刷のどちらで読むかは非常に悩ましいところだ。Kindleのユーザーはあくまで閲覧権を買っているだけであり、本を所有しているわけではないため、ダウンロードしていなければ配信停止やアカウント凍結などで読めなくなる危険が常にある。私にとって本とは外付けの脳であり、自分の脳へのアクセス権を他者に握られることは最小限にしたい。しかし、文庫本や新書のレイアウトに慣れ親しんでいると、本書の物理書籍版には面食らう。この本のペーパーバックは小学校の国語の教科書のような大きな文字で印刷されているからだ。結局私は本書を、最初は電子書籍で読み、Kindleへのアクセスが失われた時に備えた保存版として物理書籍版を持っている。

幽体離脱について

ネタバレを避けるためには、逆説的だが核心を端的に告げるのがよいだろう。それで全てが伝わってしまうなら小説として書かれる意味はないからだ。奥義とは公にすることが不可能な奥義のみを指すのだとアレイスター・クロウリーも言っている[1]。本書の核心はつまり、ファントムセンスはフルダイブVRへの技術的な鍵であり、美少女アバターはファントムセンスを生やすのに最適なインターフェースだという話。

ボディイメージが物理肉体ではなく仮想の体に繋ぎ直されることは、既に夢や幽体離脱という形で人々に経験されている。夢と幽体離脱では接続を切り換えるプロセスが若干違うのだが、美少女アバターを用いる方法は幽体離脱に非常に近い。だが、美少女であるがための違いもある。それが小説では語られる。

私の思うに、夢では覚醒時に働いている意識のプロセスが徐々に不活性化していくことによって自然に変性意識が浮上してくるが、幽体離脱では変性意識が覚醒時の意識から強引に主導権を奪取するような形を取る。そしていずれの場合でも、物理肉体は動いていないのに、動かしているのと変わらない感覚が体験される。恐らく脳波も動かしている時と同じようになっているだろう。

意図的に幽体離脱を起こすプロセスは、簡単に言えば「もう一つの自分の体を想像し、そこに体性感覚と意識を移し替える」というものだ。その過程は、

  1. 自分の肉体を弛緩させる、

  2. 体性感覚を強化する、

  3. もう一つの身体を想像する、

  4. 強化した体性感覚をもう一つの身体に入れる、

  5. 視点をもう一つの身体に入れる、

  6. 覚醒時の意識が弱まるのを待つ、

というステップから成る[2]。自分がこれから入るアバターを見ることはもう一つの身体を想像することに他ならないし(3)、VRを使えば視点は入る(5)、他のアバターと触れ合えば体性感覚も入る(4)。肉体の弛緩と意識活動の低下はVR社会で時間を過ごすことによって代替される(1,6)。しかし本書で語られる「美少女であるがための違い」とは、体性感覚の強化の部分に相当する(2)。

幽体離脱では、意識を幽体に入れる前に光が体の表面をなぞるイメージをする。これは体を動かした時に空気や物との間で起こるべき触感を模擬し、幽体の体性感覚を強化するための技法だ(チャクラやエーテル体のようなスピリチュアリズムの言葉を使わずに説明できる)。身体は触るためのものだが、触られた感覚が体の認識へとフィードバックされもする。

さて、この触られた感覚は単なる想像によっても得られる。光が身体に触れているところを想像して身体感覚が強化されるなら、同じように実体のない想像物、例えば他者の視線でも同じことができるだろう。それが本書で試みられていることだ。さらに羞恥心によってフィードバックを強化することも提案されている。

美少女について

実際それほどうまくいくだろうか、という疑問はある。フルトラで脚にファントムセンスが生えたという著者自身の話を聞くと、そういうものなのかもしれないと思う。が、やはり一見奇妙な話だ。脚などは顔から遠いから視覚の優位性の恩恵も受けづらい。また、トラッキングで物理肉体が動いているなら「物理肉体が動いている感覚がなければ触られた感覚もない」という学習をしてしまうような気もする。

そのため、トラッキングによるアバター操作は短期的には肉体を離れる形のシンギュラリティに逆行し、VR市場を拡大してBMIを見据えた技術革新を促す形でのみ進化に貢献する、と私は当初思った。しかし実際に脚にファントムセンスが生えるなら、恐らくはもう一つの要素、つまり羞恥心が、物理肉体の体性感覚の影響を上回るのだろう。羞恥心とは自意識であるから、「人々が美少女に向ける、熱い視線」とは、自分一人のものであってもよい可能性がある。自分が自分の動きを見て可愛いと思えば、それがフィードバックになるのかもしれない。


原理的にそうなら後は量の問題で、美少女の領分になる。量の問題とはつまり、「個人差があるが不可能ではなく、美少女なら達成が近付く」ということだ。

美少女は人間の様々な可能性をブーストする。質的に新しいものはそれほど付け加えないが、量的にブーストされた結果それまでと質的に異なる現象が起こることはありうる。インターネットが「速さ」という量の強化技術に過ぎなかったにもかかわらず、アイデンティティ・経済・コミュニケーションの全てに革命を引き起こしたのと同じようにだ。本書で主人公に起こることも、「身体の動作への関心」が美少女によってブーストされた結果、美少女の側の身体へとボディイメージが切り替わったという不連続現象、相転移だ。

私はこれまで、我々が関わる客体をいかに美少女化するかということに力点を置いてきた(似た発想として、とま氏の「宇宙美少女計画」がある)。しかし著者は、主体である我々自身が美少女であることで何が経験されるかを語る。これは今まで語られづらかった側面ではなかろうか。「愛される存在としての自分」を確固として思い描ける者は未だ少ないから。

ストーリーについて

物語としては、島のくだりがクライマックスに対して果たす貢献が明瞭でないことが気になる。ねむの目的は島の完成ではなく「自然を超克して人の時代を始めること」と読めばクライマックスでやったことと整合するのだが、やや思い詰めたような動機ではあるし、手段が迂遠過ぎる。つまり、一介の土地神に過ぎない合歓姫命が人類全てを進化させようとする動機が見当たらない、ということだ。その動機さえ見つかれば、具体的な変容の形として身体のデジタル化を選ぶのは分からなくもない。物理肉体とは人間を翻弄する「自然」の最たるものだからだ。

あるいは「私」の母の発言から、ねむに第二の語られざる目的があると推測することはできる。それがあった方が島のくだりが活きる。例えばこうだ――「私」の母のかくれんぼの相手は島の大人であり、母が出てこないので姉が代わりに巫女の役目を負わされ、そして死の間際に合歓姫命と感応し、姉のわずかな不満を勝手に汲んだ合歓姫命が「私」の母への復讐を企てるが、合歓姫命は神着島の外へは限られた影響しか及ぼせないため、VR空間で再現された神着島に「私」の母を連れてこさせようとした(物理現実の神着島とVR空間で人の思い入れによって再現された神着島は、神にとっては何の違いもない)。

他の可能性を考えることもできる。例えばかくれんぼの相手は合歓姫命で、母は結局捕まるが姉が奪還して身代わりになったとか、合歓姫命は噴火の度ごとに捧げられた巫女が神通力と共に襲名するものであるが「私」の母の姉かその前の代に至って「すべてをねむにすればより確実に龍を抑えられる」と考えたとか、様々な想像ができる。

しかし、これらは私の邪推に過ぎないし、作品の核心でもない。核心は個人の事情ではなく、あくまで汎人類的な進化の可能性を示すことにあるだろう。

ちなみに万が一これらの私の邪推が「当たり」で、将来『仮想美少女シンギュラリティ Catastrophe side』のようなものが書かれる時に同様の展開になったとしても、私は設定を当てた者としての特権を一切要求しない。


また、バレンタインのくだりも物語から浮いているが、これは物理現実から課された最後の試練と取れなくもない。この『インディアン・ペール・エール』の章が持つ嵐の前の静けさ感は私の好みだ。ペール・エールでは国内なら常陸野ネストビールとインドの青鬼、国外ならSculpinとHollyroodに私は思い入れがある。最近ではそれにPasaulio SkoniaiとTiger Sharkが加わりつつある。

日本神話について

「古事記にもそう書かれている」を馬鹿正直にファクトチェックして回るのは野暮だが、自分の好きな分野への言及があって手元にたまたま文献があると、出典を確かめたくなるのが人情だ。

「巫女が自然の怒り、龍の怒りを鎮めることで、ようやく神代が終わり、人の時代、人類の物語が始まったの」というソルティの発言がある。神代の終わりと言えば天孫降臨か崇神天皇(実在が確からしいと言われている最初の天皇)の頃くらいしか候補がない。私は本書を読んだ当初、崇神天皇の治世に大物主が祭祀を要求したことと、その大物主が過去に姫を娶って後の神武天皇の后を生んだことを一緒にして「巫女が龍の怒りを鎮めた」と言っているのかと考えた(大物主が蛇であることは古事記にも書かれている)。

しかし、目を日本書紀に転じると、ソルティの発言は猿田彦のことを言っている可能性がある。日本書紀には、天孫降臨の道中に現れた猿田彦の外見について次のような記述がある[3]。この描写は古事記にはない。

其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。

『日本書紀 全文検索』

 七咫ななあたという鼻の長さは蛇と男根に通じ、赤酸醤あかかがちという語に含まれる「かがち」は蛇の別名、またその語が目の形容に使われていることはヤマタノオロチ(古事記・日本書紀共に)と同じである。いかにも吉野裕子が言いそうなことだ。日本神話の神は穿った目で見れば全員蛇神にこじつけられると思うが、猿田彦が蛇神だとすればアメノウズメのしたことは完全に「巫女が龍の怒りを鎮めて人の時代を始めた」と言ってよい。

ただし、神着島は古事記の国産みの物語の中にそのままの名では見つけることができなかった[4]。日本書紀にもない。これは半ば当然のことで、西国の神話である記紀に伊豆諸島が登場することは考え難い。三宅島の郷土史でも当たれば何らかの記述があるのかもしれないが、元々旅行先の郷土史の収集癖のある私が2018年に訪ねた時には何らかの理由で役場で手に入れられなかった。

SFについて

本書は娯楽小説というより工学的な技術にまつわる思考実験としての側面が強く(この二つは排反ではないが)、その意味において私はSFに分類したいと思う。私なら予防線張りや反証抑止に腐心するだろう楽観的な未来予想を好奇心で押し通すのは、エヴァンジェリストの本領と言うべきだろう。

著者は「この本の内容はほとんど自分が実際に体験したことであるから、SFとは思っていない」と述べている。私はメッセージの核心部分であるBMIへの美少女の利用についてはまだファンタジーの域だと思っているからSFとした。一方でフィクション要素が乏しくとも、「従来のSF作品を『すでに起こった事実』として過去のものとし、(中略)全く新しいスタイルの『SF作品』である」とした例もある。いずれにせよ、SFの定義論争が意義あるものになった例は寡聞にして知らない。

バーチャル多神教小説の検討

アニミズム

私は上で「我々が関わる客体を美少女化することに力点を置いてきた」と書いたが、要するにこれは擬人化であり、アニミズムであり、原始宗教の思考法そのものである。本書の著者もそのことは意識していて、それに沿って島のくだりの完全な構想も用意していたらしい。読みたいところでもあるし、その前に私なりにその方向で書いてみたいところでもある。

私なりに書いてみたくもあるが、私が述べることを着想のきっかけとして、私以外の者によって小説や随筆や評論が書かれることも歓迎する。その場合はクレジットしていただければ嬉しい。私は永遠に生きるつもりではあるものの、一人では手の速さが世界の要求に追いつかない。


とはいえ、記紀は今ではもはやベタになった筋書きの集合に過ぎないため、それを現代版に焼き直して面白くするのは簡単ではない。盛り上がるのはヤマタノオロチか天孫降臨あたりだと思うが、自然の脅威を人が克服するという発想を保ったままヤマタノオロチを選ぶと『君の名は。』の二番煎じになりかねない。『君の名は。』の彗星はアメノカガセオと同一視されており、アメノカガセオは蛇神だからだ[5]。

天孫降臨を選ぶ場合、人間に仮想美少女が降臨する話や仮想美少女たちが新時代へと旅立つ話にはできそうだが、いずれにしても天津神と国津神の対立構造をどう処理するかが課題となる。天孫降臨に先行して地上にいた者たちの方が、むしろ多神教の世界観を体現していたのだから。

しかし、古事記の中で私が「情報の美少女擬人化」の観点から最も興味深く思っているのはイザナギの禊とアマテラス・スサノオの誓約だ。人→美少女の変容よりも、美少女から美少女が生まれること、美少女が別の美少女へと変容することを描く方が、より美少女現象の本質に迫れるだろうと思っている。

私はアニミズムや多神教の神を発生原理の上で美少女とほとんど同じ概念だと思っているため、イザナギもスサノオも美少女である。そして神が身に着けていた道具に過ぎないものから、新たに人格を持った神が生まれる。水で体を洗う行為にほとんど違いはなくとも、「水面付近で洗った時」「水の真ん中の方で洗った時」「水の底の方で洗った時」のように概念上区別できるなら、別々の神が生まれうる。スサノオに悪意がなかったことで女神が生まれたように、生まれた神は生まれた過程をも象徴している。神(美少女)は何らかの概念の擬人化であり、あらゆる概念は神(美少女)へと擬人化できる。

多神教

美少女が三人程度でも、やりようによっては多神教の世界観を蘇らせたと呼べるものができるだろう。森見登美彦がそれに長けていると思うのだが、面白くする鍵は「解決すべき問題を何にするか」ということではなかろうか。狸の敵役は人間ではなく、同じ狸や怪人の類であった。

美少女は最低三人は必要だろう。その理由は以下の通りだ。

多神教の世界観は二つに分けられる。二元論の世界か、三すくみの世界かだ。多くいる神々が二つのグループに分けられ、その間に厳しい対立があるなら、それは一つの一神教と一つの異端があるのと変わらない。一つの道徳的評価軸が二つのグループを分けており、その評価軸が絶対視され、同時に、その評価軸の最高の体現者である一柱の神が必ず発生するからだ。対して三すくみ以上の関係であるなら、たとえ対立があっても、他のグループを滅ぼすことは諦めなければならない。一つのグループを攻撃することに注力すると別のグループに横合いから攻撃されるからだ。こうして対立は本気の滅ぼし合いから競技めいた「天下の回り物」的な冗談関係へと落ち込む。我々が「多神教の寛容さ」のような言葉で想像するのはこちらの、三すくみ的な、互いに滅ぼすことができず持ちつ持たれつ回る構造ではなかろうか。

故に、神(美少女)は最低三人必要であり、その三人には共通の敵がないこと(あっても殲滅による永久解決を目標としないこと)が必要である。何と言っても、美少女の世界観では、破壊も死もまた美少女なのだから。

ソーシャルVR

ソーシャルVRを舞台とした小説は既に、カクヨムなどのアマチュア投稿サイトを中心としてちらほら見られる。私の印象では、それらは個人の物理人格とアバター人格との摩擦や、お砂糖や、小中規模コミュニティ内での奔走など、私的な事件を私的に解決する筋書きが目立つように思われる。この印象が統計的にも正しいのならば、そうなっている理由を私は次のように考える。

現状のソーシャルVRでは機能分化した組織とそれによって担われる緊密な政治・経済システムが未発達であるため、VR内で完結する事件は深刻・大規模なものになりづらい。深刻で大規模な事件を物語で描くとすれば、それは物理現実からやってくる脅威(組織的クラッカーや法規制など)に対抗するような種類のものになるだろう。ところが、そのような脅威に対抗するためには対抗手段が物理現実の側になければならない。だとすれば、結局は物理現実で各人が持つ属性が物を言うことになる。一芸に秀でず物理現実での地位も持たないメタバース一般人は人海戦術にしか使えない。それは「各々が物理現実での属性に囚われず、なりたい自分になって自己実現する」という非ザッカーバーグ式メタバースの謳い文句に反する。従って、ソーシャルVRを好意的に見る立場からは、ソーシャルVR内で大規模な事件を派手に解決する物語は書かれづらい。

しかし、神話と繋げるなら、この問題を迂回して大規模な事件を描ける可能性がある。なぜなら神は経済や政治の影響を受けず、人の精神のみによって力を得たり失ったりし、その力で天変地異のような大規模な物理的事件(あるいは全ユーザーが一斉に解脱するような、コミュニティを超えた大規模VR事件)を直接起こせるように描いてよいからだ。

これはポストセカイ系の構造だと言えるだろう。社会の綻びが進んだ時代では、霊性が大きな秩序と個人の内面を直接結ぶように見える。人間がVRで美少女となって自分たちの精神を弄ることで、太古の神々がそれに感応して物理現実への影響力として現れ、精神弄りに失敗することで神々の三すくみのバランスが崩れるなどして大事件が起き、精神弄りが健全になることで世界も調和を取り戻す、という筋書きを考えることができる。精神における変化が神や悪魔を仲立ちにして物理現実における変化に照応しているという構図は魔術そのものである。

繰り返すが、万が一この私の構想が「当たり」で、将来『仮想美少女シンギュラリティ2 Homo Deus』のようなものが書かれる時に同様の展開になったとしても、私は筋書きを当てた者としての特権を一切要求しない。

セカイ系の自壊と世界認識の三相


ちなみに、神着島の祭祀形態である「円を囲む三角形、それに付随する三つの神の名」という構図は、魔術書『ソロモン王の小さな鍵』の儀式に際して描くマジック・トライアングルそのものだ[6]。円には黒い鏡や水盤を置き、悪魔をそこに呼び出し、かつ三つの神の名によってそこから外に出ないように封じ込める。三者が一者と拮抗するこの構図は人間の思考の元型の一つであり、思惟の働きによって非秩序の混沌を御する様子を表す時によく現れる。


私は美少女擬人化の構造を、場の量子論のアナロジーで定式化しようと試みている。現代の美少女場の量子論の枠組みでは、平定するべき異人も自然の脅威も全て美少女として解釈される。万物は生成消滅する美少女の粒子であり、伝播する物語の波である。それを技術によって加速し、衝突させ、解析し、やがて見出す。万物理論――Kawaii of Kawaiithing――を。

また、美少女×古代日本の金字塔といえばこれだ。太祝詞事の解釈には賛否もあろうが、初音ミクがこれを歌えるということ、人が初音ミクにこれを歌わせたということ、そしてキャプションの「歌姫神 初音未来媛命」の名から、私は多大なインスピレーションを得た。


美少女化の二類型

以下は『仮想美少女シンギュラリティ』の内容からは外れるが、テーマとしては重なる。

この対談に特に顕著に表れているが、美少女になるには二つの大きく異なるアプローチがある。一つは自分の中に元々あった美少女的要素を顕現させる「本当の私」パターンで、もう一つは全ての要素を人工的に作ってそこに自分を適合させていく「お前は誰だ?」パターンだ。

本当の私

前者、「本当の私」パターンは、美少女的要素をある程度自覚しながら物理日常を送ってきたために、よほど抑圧されていたのでない限り美少女要素が物理日常のアイデンティティと絡み合っていて完全には分離できない。時には、美少女要素を物理日常で小出しにすることで周囲に受け入れられてさえいる。

VRChatの利用者の過半数を占めるという20代以下男性、これは高校や大学時代に萌え型女装が流行った世代でもあり、美少女になりたいという願望が社会的に忌避されるという感覚が薄いはずだ。声や仕草の適性に差こそあれ、jumius氏のようなメンタリティの方が実は多数派でないかと私は推測している。しかし、物理現実の自分からの緩やかな分枝という形で美少女になる場合、最初のコミュニケーションのネタが物理現実での生活体験や知識に依存し、そこからコミュニティが形成されていくため、物理現実と美少女を切り離すことは難しい。

物理現実での成果をメタバースで披露したくなることもあるだろうし、物理現実での成果発表を美少女の姿でやってみようかと魔が差す人もいるだろう(いずれも、理系研究者という職業は特にそうなりやすい)。その際、「実名を出すことになるが、まあいいか」と思うかもしれない。これは分人主義を徹底できないことを意味する。

ただし注意すべきは、匿名性イコール分人主義ではなく、むしろマインドセットとしての分人主義は匿名でない時にこそ求められるものだということだ。美少女を見る側に分人主義が十分に浸透していない状況では、匿名でなければ美少女側の人格が十分に発達できないことがある。穏やかな物腰でバーチャルキャラクターの研究を発表しているくらいならいいが、匿名性と美少女という好感度バフがなければ(たとえ主張に見るべき点があっても)中傷や身の危険を伴うような自己実現の在り方というものはありうる。

お前は誰だ

対するねむ氏の方は、美少女化の社会的・心理的なハードルを随所で口にする。それは企業勢以外にロールモデルがない状況でのVTuberという出自と無関係ではあるまいと思う。企業系Vtuberとはコンセプトを作り込んで現れるものだったし、ねむ氏の場合そのコンセプトは最初から匿名性を一つの柱としていた。最初から作為的にコンセプトを作り込んで現れたことが結果的に、ここまで活動が拡大しても仮名を貫くことを可能にしている。また、初期にJK17氏の件があったことも、「物理現実と紐付かないための美少女」というコンセプトをより強固にしただろう。

ただ、他の配信の動画も観ての印象からすると、元の性格としてもセックスポジティブかつジェンダーコンサバであるように私には見える。物理現実の自分のアイデンティティに強く根差していない(と私は思っているが)アバターに入ることの持つ違和感が、かの「お前は誰だ?」の衝撃をもたらし、人類美少女計画の原動力になっているのだと思う。自然に美少女になれた者にここまでの使命感が生じるとはやや考え難い。

ちなみに、「お前は誰だ?」が史実であったかどうかは私にとって重要ではない。これはフロイトにおけるエディプス王の物語と同じで、理論なり世界観なりを寓話の形で象徴的に表現したものと見るべきだと私は思っている。ねむ誕生の神話は美少女化という現象をゲシュタルト崩壊から説明しようとする。

連星合体

ともあれ、美少女になることのハードルが高い時代は確かにあり、男性が生活感を隠さないまま美少女になることのハードルが下がり始めるにはねこます氏の出現を待たねばならなかった。ねむ氏が「美少女になれる」ということを示したのだとすれば、ねこます氏は「美少女にならなくても美少女になれる」ということを示した。

「精神による芸術」の観点からすれば、先立つものがない状態から全く新しい人格の器を作って魂を入れることの方が、人の精神の拡張性を示しており面白い。しかし、そうして新しく、あるいは分枝として作られた人格が物理現実とガッチャンコする瞬間に魂に起こることも面白い研究テーマだ。そのため私は、jumius氏の「あなたの日常になりたい」という歌詞を、新規参入者から既存メタバース住民に向けた台詞であると共に、美少女から物理現実の人格へと向けた言葉としても読みたい。私もまた、美少女と物理現実との間の隔絶をあまり感じない者の一人だからだ。


連星をなす人格(Binary Bishoujo)は、互いの周りを回りながら徐々に近づいていき、やがて衝突する。衝突の直前に二つの人格の速度は急激に増大し、そして合体して一つの美少女となる。合体の瞬間に魂の質量の一部が重力波に変換され、光速で宇宙に放出される。

ブラックホール連星合体イベントGW150914によって放出された重力波の理論波形、連星間の距離、連星間の相対速度。LIGOはこれの観測によってノーベル賞を受賞した。[7]

美少女がブラックホールのように振る舞うなら、Bishojo No-Hair Theoremは成り立つか? 日本アニメ調のVRアバターが「ディテールを落とすことでコミュニケーションを円滑にする」と言われることがある以上、定理の名前の語感に反して成立するかもしれない。「髪は女(?)の命」であると同時に「美少女には毛がない」……

それはさておき、美少女の力を信じ、その力によって世界を変革しようとする者には幸あれ。


[1] アレイスター・クロウリー著、江口之隆訳『777の書』、国書刊行会、2013
[2] 大澤義孝『幽体離脱入門』、アールズ出版、2009
[3] 『日本書紀 巻第二 神代下』、「日本書紀 全文検索」、http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_02.html 、2023.02.20閲覧
[4] 山口佳紀、神野志隆光『新編 日本古典文学全集1・古事記』、小学館、1997
[5] 加納新太『君の名は。 Another Side:Earthbound』、KADOKAWA、2016
[6] 青狼団『魔導書 ソロモン王の鍵』、二見書房、2005
[7] The LIGO Scientific Collaboration and the Virgo Collaboration, Observation of Gravitational Waves from a Binary Black Hole Merger, Phys. Rev. Lett. 116, 061102 (2016)


〈以上〉

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