燃え尽き症候群という言葉に感じる違和感

スポーツの世界でよく聞く「燃え尽き症候群」という言葉。

サッカーなんかをやっていて、一区切りつく高校が終わったくらいの段階で、競技から離れてしまい、

全くサッカーに関わらなくなるような状態を言うんだろうが、

この言葉に違和感を感じてしまう。

先に行われた高校サッカーでも、

「⚪⚪高校に入る事が目標だった」

「親元を離れ⚪⚪高校で頑張った3年間」

というような表現を何度か耳にし、

それぞれにストーリーがあるんだなとは思ったものの、

人生の目標がそこだった

みたいな表現にも聞こえてしまう。

表現の仕方が悪いというわけではないんだが、

競技をしている事が、人生の第一段階で、

全てを出しきった、燃え尽きるまでやり抜いた

みたいなストーリーが、輝かしく感じるように仕立てあげられるから、

「燃え尽き症候群」みたいな言葉が生まれたようにも感じてしまう。

そもそも「燃え尽き症候群」という言葉は、そんなもんで、没頭した競技から離れていく事を言うんだろうが、

それを燃え尽きるという表現にしてしまうのはおかしい。

だって、その競技には燃え尽きたとしても、人生自体は燃え尽きたわけではないから。

むしろ、そこまで、競技に没頭できたという事は、何らかのプラスの側面がそれぞれにあるはずで、

燃え尽きよりも、その後の人生をよりよくするための輝きだったはずだ。

だから、「尽きる」というどこか終わりを表現したような言葉に違和感を感じてしまうんだろう。

このように、何にでも区切りをつけたがり、それを美化しようとするような考え方は、けっこう溢れている気がする。

「やっとの思いで⚪⚪高校に入った」

みたいに。。。

目標としている場所に、一生懸命努力し行けるようになる事や、

しっかり自分の進路を決断できたという事は、

ある意味区切りで、頑張った分、美化されるんだろうが、

区切った先の将来はどうするのかが定まっている事が一番重要。

将来の選択のために、その区切りを選んだのか、ただそこを区切りとして選んだのかでは、

先のその場所での過ごし方が変わってしまう。

先を見越して選んだ選択であれば、もう一区切りできたところで、燃え尽きる事はないだろう。

先を見越した選択ができてなかったら、燃え尽きという表現は、もしかしたら適切なのかもしれない。

燃え尽き症候群」の原因は、厳しい指導だったり、やりきった満足感からくると言われているが、

自分は、未来を見据えていない選択に原因があるように思う。

それぞれ人生の目標が何となくあるはずだ。

だからこそ、何も考えてない選択はないはず。

大多数がそうであると思うから、燃え尽きという表現に違和感を感じるんだろう

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