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「化生」と「受肉」。『あなたの推しVはどっち寄り? Vtuberの生りかたの違い。』/『バーチャル受肉の革命性』―主体と肉体に係るコントラスト

「――ねえ。Vtuberってさ、どんな風に生まれるんだろうね?」

「――肉体が、自分と世界の境界線ならさ、例えば肉体の形が変わったら、……世界の形って、変わっちゃったりするのかな?」

前回 に続き、ねむさんは、素敵な発端をくれるので考察が捗る。ありがたい。

さて、Vtuberなどのバーチャルアバターがるとき、「器」と「魂」、どちらが先にあるだろうか
例えばRPGADVなど、シナリオがしっかりめのゲームをプレイするとき、あなたは自分が操作するプレイヤーキャラクターを、

【A】自分とは別の、その世界に住むキャラクターとして、そのキャラクターの思考に寄り添って遊ぶ。

【B】自分自身のその世界での姿として遊ぶ。

あなたのプレイスタイルはどっち寄りだろうか。
それぞれのプレイスタイルを便宜的に【A】のタイプが「化生けしょう」プレイ【B】のタイプが「受肉じゅにく」プレイと扱うことにした。
これはそんなスタイルやスタンスの話。だから、善悪でもなければ優劣でもないよ!
「化生」「受肉」、あなたの推しVはどっち寄り?

1. 主体に係るコントラスト。「器」と「魂」、どちらに主体があるのかで、「化生けしょう」と「受肉じゅにく」を定義する

キャラクターは「器」と「魂」でできている。
さっきのゲームなら、「器」がキャラクター設定、「魂」はキャラクターを操作するプレイヤー。
Vtuberでは直感的に「器」は、ビジュアルや性格などの「設定」と機材を含む配信環境、対して「魂」は、その器に声や仕草、すなわち命を吹き込む「中の人」といったイメージ。

簡潔に、設定が主体なら「化生」中の人が主体なら「受肉」
「あー、そういうことね!」と納得した人は、以降はきっと蛇足。
「肉体に係るコントラスト」に興味が無いなら、推しを推しに、あなたの推しがどっち寄りであるかをその目で確かめに行こう。今すぐに!

 1-1. 静なる「器」と動なる「魂」、キャラクターに託された要素を分類する

それぞれがキャラクターのどの要素を指しているのか、ざっくりまとめてみる。

【器】 肉体、設定、セット、主に静的要素を構成
【魂】 精神、行為、キャスト、主に動的要素を構成

これで対照性が明らかになったんじゃないかな。
あくまで相対的な分類なので、器が全く変化しないということもなければ、魂が停止してしまうということもあり得る。

 1-2. 「化生」と「受肉」の違いを比較する

器と魂が担う要素がはっきりしたところで、化生と受肉の違いを比べてみる。

・先行するビジュアルや設定に寄り添って生じたのが「化生」。器のための魂
・自らの魂を投影して得るのが「受肉」。魂のための器
・架空のキャラクターに成るのが「化生」
・ありたい自分に成るのが「受肉」

受肉の魂と比べて、化生の魂(の人)は「演技をしている意識」が先行しそう。

・器が主体を発揮するために魂を得て生るのが「化生」。器が魂を得る
・魂が主体を発揮するために器を得て生るのが「受肉」。魂が器を得る
・魂が寄り添う「化生」
・魂が意を得る「受肉」

「主体」の所在が違いを明らかにしてくれる。
極端な話、トラブルが起きた場合に主体でない方は「交換が可能」であることが決定的な違い。
交換・交代しても機能・コンテンツが維持されるなら、それが主体でなかったことを示している。

 1-3. 揺らぐ主体と定着する魂

活動期間が長くなると、生った当初と比べてバランスが変わることも大いにあり得ると思う。一般的には概ね受肉に寄っていくんじゃないかな。
きっとどこかに、化生の魂が交換不能になる定着点みたいなのが存在する。

また、どちらとも言えないケースや、どちらとも言えるケース、両方を使い分けるケースなんかもあるかも知れない。
さあ、あなたの推しVはどっち寄り? 「化生」「受肉」それとも?

「――ねえ。Vtuberってさ、どんな風に生まれるんだろうね?」

2. どうして「化生」と「受肉」なの? それぞれが「バーチャル」に至るまで

「化生」と「受肉」は、「人知を超えた存在の現出」を意味する言葉で、その生りかたを異にしている。
それに、「アバター」も「現出した人知を超えた存在」を意味する言葉。

主体に係るコントラストを明らかにしたところで、化生と受肉、生体に係るコントラストを浚ってみる。

 2-1. 「化生」と「受肉」は、「アバター」に見劣りしない言葉

バ美肉」を始め、バーチャルアバターの獲得は「受肉」として広く知られている。数多くの作品で何者かの「受肉」は、その成就あるいは阻止を巡って彩られた物語たちの成果もあるだろう。
意思ある魂が肉体を得ることをこれほど簡潔に表した言葉はないと思う。

対して、魂に主体がない場合、これを受肉とするには違和感がある。
そこで「受肉」と同等の言葉の力を持った、魂に主体なく生る存在を表す言葉として「化生」を選んだ。

「化生」も「受肉」も、元々はそれ自体が奇跡のような特別な概念。
そして、アバターもサンスクリットに起源を持つ、神話や仏典で「(神仏の)化身」を意味する言葉。化身の生る経緯として遜色ない表現だと考えた。

 2-2. 「化生」、忽然と生る人知を超えた存在のアバター

「化生」は、仏教では生物の出生分類のひとつで、業により何もないところから、別に拠りどころなしに忽然と生まれることで、天人や地獄の衆生の出生とある。
日本神話では、さまざまな物から神が生まれることとある。

また、出生(生ること)そのものを指す言葉であると同時に、出生した存在(生ったもの)を指す言葉でもある。
なので、神仏が権能を示すための化身(つまり神様のこの世界用アバター)や、妖怪変化も「化生」と呼ぶ。

ここから「化生」を、人知を超えた存在が忽然と生ること、生った存在とまとめてみる。
人知を超えた存在の、人知を超えた現出なんて、人知を超えすぎてて、もはやよく分からんけれど、とにかくそういうことなのだ。

人知を超えた存在とは、神仏、妖怪変化、つまり俄かに実在現存するとは思えなもの、それなら神話・伝説・歴史上の人物や架空のキャラクターであっても問題ないだろう

 2-3. 「バーチャル化生」、人の身のす真似事の精々せいぜい

人知を超えた存在ならば、虚空から忽然と生じることも造作もないかも知れないけれど、人間が化生を真似るなら、いささか準備が必要になる。
それは、つまりセットキャスト。違うまとめ方なら、機材と人材。

演劇は、様々な仕掛けを通じて舞台の上に役の化生を演出し、ひとつの世界を完結させる。ともすれば、世界そのものが化生しているとも言えるかも知れない。儀式染みたそれはさながら召喚魔術よう。
忽然と現れた舞台上のそれが、あたかもそこに生きているかのように観客に見えたなら、それは実質的に化生と見做して差し支えないだろう。

つまり、人知を超えた存在のすなるという化生になぞらえて、架空のキャラクターがそこに生きているかのように見えるなら、それがすなわち「バーチャル化生」。人の身の為す化生の真似事の精々。

舞台上の役者に役が化生する。役者はどこまでも役に寄り添って演じる。
アイドルやアーティスト、タレントは見せたい姿に化生する。舞台・・が広すぎて大変そう。
ただの着ぐるみにスーツアクターが入って、マスコットや怪獣、ヒーローなどに化生する。そこに中の人などいない。
複数の静止画像をコマ撮りして演技をつける。そこに声の演技やその他の音響を合わせてひとつの世界が化生する。アニメーションは生命のない動かないものに命を与えて動かすことを意味する。

多くの場合、これらは魂つまりキャストを交替・交代しても成立する。
ダブルキャスト、ガチャピン、ポプテピピック!

バーチャルアバターの動きは、技術の進歩で現在はトラッキング(精度はピンキリ?)で行われるようになっていたりもするけれど、構造的にはインタラクティブな人形劇に似た技術の熟練を感じる。アウトプットはアニメーションそのものなのに。

 2-4. 「受肉」、トリニティの子なる神のアバター

「受肉」は、キリスト教で三位一体のうち子なる神(神の言)が、ナザレのイエスという歴史的人間性を取ったことを指すとある。
人知を超えた存在の現出という点では化生と同じ。違いは胎生と実在性。

虚空から忽然と生るのではなく、母親から生まれたから胎生。
歴史上の人物である実在性。
子なる神が受肉したアバターは「イエス」と呼ばれた。

ここから、意思ある魂が肉体を得ることを「受肉」として、数多くの作品が積み重ねることで共通認識となった。

 2-5. 「バーチャル受肉」、人の身に拓かれた可能性

人知を超えた存在だから、受肉だって他愛ない。
けれど人の身でこれを行うには、やっぱりさすがに荷が重い。
普通の人間は、肉体を捨てて意思ある魂の状態になれないから。
幽体離脱して適当な母胎に受肉してみる? 確かめようがないけれど。

現状の人の身の受肉は、バーチャルの世界メタバースでの実現を見た。
自身の分身としてのバーチャルアバターの獲得。

これまでも2Dデフォルメキャラアバターを用いたSNSは存在していたし、アバターを用いたオンラインゲームも20年以上前からあった。
けれど、そこでアバターを操作するときに「受肉」の意識があっただろうか。

その実感は視聴覚訴求力、つまりHMDや顔を含めたトラッキングやボイスチェンジャーの寄与が大きいんじゃないかと思う。
この視聴覚訴求力が生み出した、これまでとは一線を画すアバターとの一体感。バーチャルの肉体と自身の魂との結合。
実質的に受肉と見做せる実感が、きっとそこにはある。すわなち「バーチャル受肉」。メタバースの発展と共に拡がる人の身に拓かれた可能性。

誰にでも開かれていて、生来の肉体を保ったままに、理想の容姿を創造できて、その交換はもちろん、複数の姿を切り替えることもできる。律儀に赤ちゃんからやり直さなくてもいい。
バーチャルの世界に限られてはいても、元の受肉を上回るポテンシャル。

3. 肉体に係るコントラスト。「バーチャル受肉」の革命性

社会と肉体が、当たり前に要請してきたバーチャル化生と、それからの解放の切望を受け止めるバーチャル受肉。
悲願のバーチャル受肉と必然のバーチャル化生、肉体に係るコントラストは、日常にあり触れた延長のバーチャルアバターの化生をコントラストの影へ覆い隠してしまったよう。

ところが、この切望への親しみこそが悲願に通じているために、バーチャル受肉の革命性もコントラストの光の彼方に隠れているようでもある。
ただ、語り尽くされてしまっただけなのかも知れないけれど。

 3-1. 遍在する化生、容姿と振る舞いが見せる幻影

忽然と生る「化生」と、演出で生さしめる「バーチャル化生」
化生する・させる側からは確かに区別は付くけれど、演出と気付かないくらいの巧妙さだったり、演出する意思も意図も全くないのにそう見えてしまった場合、見る側は、「化生」と「バーチャル化生」は区別が付かない
あからさまに演出と分からない場合は、区別が付かない。見る側からすれば、区別の意味があまりない。

例えば、目の前(別に画面の前でもいい)の少女の振る舞いが、あなたにとって圧倒的「天使」に見えたとすれば、あなたにはそれが実質的に「天使」の化生と見做せるはず。

それが「ママ」でも、「鬼」でも、「悪魔」でも、「小悪魔」でも、「淫魔」でも、「神」でも、「仏」でも同じで、そう見えた瞬間には、確かにそこにはそれが化生していた。
目の前の少女が、化生に寄り添う意思があったかは関係がなくて、どこまでもあなたの主観で完結している

それは彼女の意図かも知れないし、まったくの偶然かも知れない。
それに意図も演出もなければ、それは本来の意味の化生に近い。
それは別に少女でなくてもいい。老人でも猫でも木陰や雲でも構わない。
それらに亡くなった家族や恋人、友人やペットを見ることもあるだろう。

また、悪意の潜む巧妙なバーチャル化生は、「化かす」とか、「詐欺」とか、「どっきり」で身近。

ところで、伝承の化生、天女や山姥、雪女や河童などの妖怪変化、あるいはUMAのいくつかの事例も、実はバーチャル化生であったかも知れない。ネッシー!

こんな風に化生は芸能の世界に限られることなくわりとあり触れていて、日常に溢れている
受肉とはハードルが天地。

 3-2. 必然のバーチャル化生、前提として化生を期待する社会と肉体

現在の私たちの暮らしが、高度な専門技能の積み重ねの上に成り立っていることを疑う人はいないだろう。
今やこれらすべてを独りで賄うには、習熟環境も適性も寿命もとても追いつかない。
私たちは互いの得意分野を持ち寄ることで、高度に効率化された豊かな生活を実現している。

こうした社会には、自身の生存を他者に委ね合う勇気が認められる。
運命共同体としてのメリットが、迫る外敵(敵勢力や自然環境)からの脅威を上回っていたからに違いない。
太古は、物産や適性を生かした物々交換から始まり、それは分業・専業化して、やがて職能集団や家業となる。
こうなると、単純な適正だけに留まらず、秘伝・門外不出のような既得権益化が進む。それでも、餅を餅屋に任せて過不足ないなら問題ない。

このように私たちの社会は、役割分担を前提にして成り立っている。
どんな社会単位・関係性であれ、それぞれがそれぞれの役割を果たすことで、私たちの社会・関係は維持されている。
私たちは、それぞれがそれぞれの役割を果たすことを期待している。家庭、友人、恋人、学校、職場、サークル、自治体、国家などなど。それぞれのコミュニティでそれぞれの役割を果たすことを期待している。それがそのコミュニティの存続に必要なことだと考えているから。

これは、多細胞生物なら一個体の細胞レベルでやっている。はたらく細胞。
だから、私たちの肉体も、役割分担を前提にして成り立っている。
私たちの肉体自体も、生物としての本懐を果たすことを期待している。
いじらしくも切実乱暴に身体的欲求を訴える。最期を迎えるその瞬間まで、不可逆の変化を諦めない。
それが、その種の存続に必要なことだと考えているから。

その期待に本人の意思が一番重要であることは、望ましくはあっても必須ではない。役割が果たされることこそが、その関係・機能の存続に必要だと考えているから。

「親」、「子」、「男」、「女」、「兄弟姉妹」、「祖父母」、「孫」、「親戚」、「大人」、「子供」、「老人」、「友達」、「恋人」、「先輩」、「後輩」、「同級生」、「教師」、「生徒」、「上司」、「部下」、「同僚」、「客」、「店員」、「市民」、「国民」、「使用者」、「労働者」、「身内」、「他人」、「敵」、「味方」、「人間」、「生物」、もう十分だよね。
そのとき、私たちは役割の化生となって、役を演じる。
そのとき、私たちは役割の化生を求め、役が分相応に果たされるのを望む。
その化生が「らしく」ないなら不満を持つ。
その役割が職責を負う役職ならば、逸脱した振る舞いは越権や怠慢と見做される。
また、その役割が他の誰にも務まらなくなり、掛け替えなくなると、それは代替不能な固有の化生となる。非代替性キャスト、non-fungible 魂、無形文化財の類。

求められているのは化生。それが私たちの暮らす社会。
そこには、務める自負もあれば、強いられる屈辱もあるだろう。
本人の心情がおざなりなのは、かえって温情にも見える。

私たちの社会は、わざわざRPGをしなくても、社会に、肉体に望まれたロール(役割)だらけ。まあゲームのように、そう簡単に別人になれもしなければ、望んだロールとも限らないけれど。

 3-3. 宿命のバーチャル化生、器に引き摺られる役割

目の前の人の振る舞いが、例えば「天使」や「小悪魔」のように感じられたなら、あなたの目の前には、それらの化生が現れたということ。

どうしてあなたは、目の前の人が、それらの化生であると感じたのだろうか。
試しに目を瞑ってみる。外見の情報がカットされた。
目の前の人が同じ振る舞いをしたときに、同じ化生が現れるだろうか。

加えて試しに、耳を塞いでみる。声や息遣いの情報がカットされた。
視聴覚が制限されては、超能力者でもないと、事態を把握することは困難だろう。視聴覚に関わる情報を除いた振る舞いをテレパシーで届けよう。
目の前の人が同じ振る舞いをしたときに、同じ化生が現れるだろうか。

バーチャル化生は器と魂、セットとキャストに演出されて生る。
魂が交換可能なのを考えると、器の占める割合の大きさが窺い知れる。
魂だけの化生は難しい。

日常のバーチャル化生は、劇場設備で演出されるわけではない。
そこにある人物とその振る舞いがすべてだろう。
どんな人がどんな姿でどんなことをしているのか。
役割を求める前提は、それがすべてになる。
大した面識もなければ、人柄、中身なんか分からないし、来歴や背景も分からない。ほとんど外見情報に頼るほかない。
ファッション、特に制服は分かりやすくバーチャル化生を演出する。
けれど、人は見掛けによらぬもの。きっとこの手の悲喜劇の多くは、この浅はかな偏見から生まれている。

求められる化生は、こうして器に引き摺られていく
器、外見情報、つまり容姿、身体的特徴。少し踏み込んで体質、声、物腰、仕草、癖、そして生まれ。様々な社会と関わって築かれる絆と柵、生き物としての業。そんな肉体を通した正と負の期待。それがバーチャル化生に要求される期待の正体。

私たちは、化生の物差しを措いて人を判断する術をどれだけ持ち合わせているだろう。
例えば、「大人なんだから」、「プロでしょ」、「男なら」「女だてら」、「年寄りが」、「子供なのに」、「金持ちだったら」、「ハゲのわりに」、「ブスのくせに」、「豚でも」、「童貞ごとき」、「オタク風情が」、「ギャルならでは」、「余所者の分際で」、「けだものだもの」。そんな前置きがそこら中に溢れている。
これらは、偏見を正当化するために用いられるべきじゃない。

私たちの社会は今でさえ、肉体に係る情報を外して関わることが難しい。
私たちが世界に関わるときは、必ず肉体を通して為されているから。
肉体は、私たちの心、精神、意思、あるいは魂と世界を仲介する現状唯一つのインターフェイスだから。
私たちは、それを自由に選べないことを十分に知っているはずなのに、その肉体で役割を決めてしまいがち。ときには望み通りに、ときには本心と関係なく、役不足でも、役者不足でも、はまり役でも、大役でも、嫌われ役でも、汚れ役でも、どこかで引き受けることがあるだろう。
そんな星の下に生まれることを宿命と云うのなら、命は確かに肉体に宿っていて、宿命は肉体に紐づいている。

 3-4. 儘ならない宿命、立ち向かうべき困難

望まれた役割を、それらしく演じておきさえすれば、世の中うまくいく。
多くの人がそう思ってはいても、誰もがそう振る舞えるわけじゃない。
けれど、関係性において相対的な役割を要求されることは、社会で生きていくための必然、これがきっと人間の宿命

宿命が立ち向かうべきものなら、たとえ向かない役であっても、演じることが苦痛でしかない役であっても、それが見るからに火中の栗拾いで理不尽に恨まれることが分かっていたとしても、従容と引き受けることはひとつの答えではある

そういう生き方に、どうにかこうにかでも折り合いが付くなら幸せだ。この社会で生きるのに向いている。それを信念や野心に焼べられるのなら重畳だ。
事実この社会は、多くの彼らが作り上げて来たものだから。生存に有利だった適者たちのお蔭で誰もがこの恩恵を享受している。

それが馴染まなかったとしても、役割に向き合い続けることだけが「宿命に立ち向かう」ことなのか。
宿命が立ち向かうべきものなら、宿命自体に立ち向かうこともまた、ひとつの答えであるはず。

望んだ役割が担えない。望まない役割を担わされる。望む望まず関わらず役割を全うできない。
宿命による問題は、「魂」と「世界」を繋ぐ「肉体」との関係性に生じている。
だからこれらのどれか、あるいはバランスにアプローチすることで改善が望めるはず。

魂は人間を象る内面。「信念」、「嗜好」、「価値観」、「感性」、「感情」、「理性」、「性格」、「心理的欲求」、「技能」とか。簡単にどうにかなるなら苦労いらない。

世界はアプローチ先が広い。果ては「宇宙の法則」から、「地球環境」、「世界情勢」、「社会制度」、「人間関係」、「目の前の相手」。アプローチには、それぞれ別々の技術と知識を要し、別々の困難がある。
自身の内面ですら手を焼くのに、他人のそれ、広げて集団、それを種の枠、生き物の枠まで超えてとか狂気の沙汰。

肉体は境界。「地縁」、「血縁」、「骨格」、「性別」、「体質」、「障碍」、「生理的欲求」、「生理現象」「容姿」、「身体的特徴」、「成長」、「老化」、「声質」、「持病」とか。何とか容姿と体質? あとはわりとどうにもならん気がする。

これだけどうにもならないものだらけの中で、何よりそれを実感できる自身から目を逸らせば、それは単純に自身並みに外のどうにもならなさを知らないだけなのだけれど、「世界なら比較的どうにかなるんじゃないか」って錯覚は、分からないではない。さり気なく主語を拡大して他人を扇動する詭弁なんかが見え透いたり。

 3-5. 悲願のバーチャル受肉、逆転する宿命

極論、これは人間の宿命だから、人間をやめたらいい。潔く。
社会との関わりを断てば、残るは人の業、生物としての要求と限界。それも堪らないと言うなら、生物の限界を克服する発明に頼ろう。医学か工学か、哲学か、あるいは宗教か。

人間やめたくないし、社会とも関わっていたいなら、世界をやめてみるという考えもある。今の世界を捨て、別世界、新世界、異世界を目指そう。創世、革命、世界征服、異世界転移。表現は様々ある。

それも叶わなければ、魂をやめてみる。アクロバティックだけれど、善行功徳を積み上げて来世に望みを託してみるのも一興か。もはや意味消失しているけれど。

私たちの人生は「一生・・」と云われる程度に今のところは一度・・きり。
数多の物語に描かれる転生者たちのように、生まれ変わってやり直しに臨んでみても、チート能力の付与はおろか記憶を引き継げる保証もない。普通の人は「記憶保持転生」に縁がない。

役割が肉体に期待されてしまう前提を覆すのは困難だ。それこそ宿命なのだという。
宿命は肉体に紐づいている。
馴染まない魂の切望は、肉体との乖離に起因している。
魂は、肉体を介して世界と繋がっている。

それなら、新しい肉体を手に入れたらいい。来世に期待せずとも、それで宿命は覆せるはず。「新たな肉体を得る」という発想自体は間違っていない。ただ、この発想に期待される、BMI、機械化人に全身義体、サイボーグにはまだ遠い。

けれど幸い、バーチャルに限っては、私たちは「一生」のうちに「同時多生」に縁がある。
宿命は肉体に紐づいている。つまり、肉体が変われば宿命が変わる。
バーチャルの星の下、まったく異なる星図の瞬く世界。そんな世界に、望んだ肉体で生を受ける。それは、自らの宿命を望むように描き、選び取るに等しい。宿命は逆転する。
悲願への光明。肉体を一新するバーチャル受肉は、宿命を刷新する。
バーチャル受肉は、宿命そのものの意味や概念を根本からひっくり返してしまう。

バーチャル受肉の実感は、人間を生来の容姿から解き放つ。
これまでの肉体に纏わる地縁や血縁、絆も柵も業も。バーチャル受肉は、これらすべてから解き放つ。
そんなバーチャルの世界メタバースへの期待こそが肉体に係るコントラストの正体。

 3-6. 宿命を着替える、肉体に係る役割の選択

私たちは、目的に合わせてファッション(服装、化粧、髪型など)を、態度や言葉遣いと同じように選択し、身に着け、あるいは一糸纏わぬ姿で過ごす。
場合によっては、肉体そのものに手を入れることもあり、それは整形手術やタトゥー、肉体改造、歯列矯正などで知られている。
なら、肉体そのものを着替えることのできるバーチャルの世界においては、どうだろうか。

このほど、VRSNSを嗜むユーザーを対象にした大規模アンケートの分析レポートが発表された。HTC公式VIVEアンバサダー・VTuber「バーチャル美少女ねむ」とスイスの人類学者「ミラ (Liudmila Bredikhina)」の研究ユニット「Nem × Mila」によるもの。本当にお疲れ様でした。

人との交流が前提のSNSで選択されるアバターには、どのような役割が期待されているのだろうか。VR国勢調査に手掛かりを探ってみる。
これについては、ねむさんが関連するデータを抜粋して「男も女も美少女になりたい!」から始まる一連のtweetにまとめてくれている。

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図1. ユーザーの生物学的性別とアバターの外見上の性別の比較

図1によれば、「生物学的に男性」のユーザーの76%が、「生物学的に女性」のユーザーの79%が「外見が女性」のアバターを使用している。生物学的男女ともに、「外見が女性」のアバター使用者が多い。

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図2. 生物学的性別と異なる外見上性別のアバターを使用する理由

また、図2によれば、「生物学的に男性」のユーザーが「外見が女性」のアバターを使う理由として、61%が「単にアバターの外見が好み」、続く27%が「より自分を表現しやすい、またはコミュニケーションしやすいから」を挙げている

人との交流が前提となるSNSにおいて、「自身の好みの発信」、「円滑なコミュニケーション」は欠かせない要素。
これを目的に「外見が女性」のアバターを使っているのなら、VRSNSの交流において、「女性」に優位性ありとユーザーが判断している理由があるはず

VRSNSで支配的な数を誇る「外見が女性」のアバターは、中でも「熟女」や「老女」ではなく、とりわけ「少女」が多いそう。
これについても、ねむさんが分析している。

「美少女アバター優位論」、要約するとこんな感じかな。

①感情表現ツールとしての「美少女」
幅広い感情表現をしても、威圧感を与えずらい。

②ガチ恋距離コミュニケーションインターフェースとしての「美少女」
接近しても、恐怖心を与えずらい。

③魂の器としての「美少女」

生来の容姿に囚われない自己表現。

コミュニケーションを円滑にするためには、「威圧感」、「恐怖心」、「違和感」、「警戒心」、「嫌悪感」など悪印象を抑えることは外せない。
コミュニケーションは互いの許容。許し許されることで深まっていく。
その役割を最も果たせると期待されるのが「美少女」なのだろう。

「嫌悪感」を生じさせない「しさ」。
接近に「警戒心」を、自由な振る舞いに「違和感」を抱かせない「幼性」。
豊かな感情表現に「威圧」や「恐怖」を感じさせない「性」。
また、豊かな感情表現の要求は、テクノロジーを中継することで零れてしまう微細なニュアンスを補完するためにもあるのかも知れない。

これを他人に、纏った自分自身に作用させるアバターが期待されていて、その高い許容値に堪える、自分も許せて相手からも許される「最も許された存在」、「双方向の親しみやすさ」のイデアが「美少女」に託されているのだろう。端的に「かわいいが正義」。かわいいは正義なんだ。

「現状のVRSNSで、こうした役割を担えるアバターとして美少女を選択するのが最も理に適っているから」と、美少女アバター優位論は説明できるかも知れない。あと、魅力的な男性アバターの供給が少ないという事情もあるそう。(ねむさんのVR国勢調査報告会 25:00~)

【LIVE】VR国勢調査報告会 メタバースでのアバター・声・そして恋愛
ねむちゃんねる【人類美少女計画】

また、目的に合わせて宿命を着替えることができるというのは、「着替えない」選択肢を当然排除していない

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図3. 使用している名前の比較

図3によれば、ほとんどのユーザーがキャラクターネームを使用する中、少数ながら実名で活動するユーザーも存在する

彼らが生来のビジュアルに則したアバターを使用しているかどうかはここからは分からないけれど、既に知られている名前やビジュアルを用いることが、彼らの目的に適っているということだろう。

このように、肉体そのものを着替えることのできるバーチャルの世界は、私たちはファッションと変わらずに肉体を着替えたり、あるいは生来のビジュアルに近い姿で活動することができる。それは、日常生活でシーンに応じて道具を使い分けているのと何一つ変わらない。
それはつまり、肉体に紐づいている宿命を、目的に合わせて着替え、自ら求める役割を引き寄せることができるということ。

好きだけど似合わない。好きと似合うは違う。ファッションやメイクで顕著で、好きと似合うは必ずしも一致しない
それは体型が、骨格が、性別が、髪質が、肌の色が違うから。
バーチャル受肉はその宿命を覆す。好きで似合うが実現する

思う存分走り回ってみたい、自由自在に泳いでみたい、流れる雲と旅してみたい、銀河を巡る星々を渡ってみたい、知らない景色を見てみたい。
あの人に触れたい、手を繋ぎたい、撫でたい、抱きしめたい。ガラス越しじゃなくて、義手でもなくて、麻痺で言うこと聞かない腕でもなくて。
バーチャル受肉はその宿命を打ち破る。肉体に係るあらゆる制限、バリアを飛び越えるんだ。そうでなくては意味がないマザーズ・ロザリオ

目的に合わせて宿命を着替える、肉体に係る役割を選択する。
バーチャル受肉は誰かとコミュニケーションをするためにある。
そのためにどんな容姿を求めているのかを問い掛ける。
バーチャルの鏡に映ったアバターの姿に。その鏡に映らない生来の肉体に。その鏡には映らない自身の魂に。
それは同時に自身の魂とのコミュニケーションでもある。
生きやすい世界を選ぶために。優しい世界を選ぶために。

 3-7. 「奠生てんせい」、一生のうちに多生を得る空前

「一生」とは、どうやら一つの肉体の生滅を云う。
肉体から離れた「魂なるもの」を観測し、同定する術がないから。

「転生」とは、ある一生の涯て、生まれ変わって新たな一生を始めるべく肉体を得ること。なんと中国はこれに政府の許可を要する。

何らかの事情で新たな戸籍を手に入れたなら、それは「法的転生」と言えるかも知れない。また、「人柄の改まり」の形容して「生まれ変わったよう」と転生を転じて用いることもある。これらは実質的に転生と見做している「バーチャル転生」。

一方でバーチャルの世界でも、これまでのキャラクターのセット(名義やアバター)での活動を終えて、別の新たなキャラクターで活動を始めることは、同じく「転生」と呼ばれている。バーチャル世界での肉体の乗り換え、生まれ変わりだから、これも構造的には「バーチャル転生」
これは「強くてニューゲーム」の感覚に近いかな。
また、最近の物語に多い転生者たちの場合は、さらに強くしてもらってるから「チートしてニューゲーム」不思議なデータディスクの感覚に近い。

さて、バーチャル受肉は同時多生を実現する。
メタバースの浸透を待つまでも無く、バーチャルアバターの獲得は、ある一生を送りながら、新たな一生も始めるべく肉体を得るに等しい

これを「転生」とするには難がある。転生がそれまでの肉体との決別を前提にした「一方通行な不可逆の生」なのに対して、バーチャル受肉が意味する生は、バーチャルがゆえにそれまでの肉体を維持したままで、複数の肉体に同時に受肉することも制限しない「双方向な可逆の生」だから。
なおかつ、この生はバーチャルに至り、新たな肉体の宿命のコントロールも可能にしている

転生が意図した範疇を超えた分人主義的な同時多生のこの生を、奠都てんと(ある地に都を定めること。都は複数あってもいい)に倣って、それまでの生涯を閉じるかに拘わらずに一生を定める意味で「奠生てんせいと呼んで区別したい。この意味なら、名義だけなら役者の芸名や作家のペンネームなどにも通じていて、それほど新しい概念ではないのだけれど。襲名したら、もうそれは化生だし。

とりあえず、「てんせい」とルビを振ってはみたけれど、「転生」は元々は「てんしょう」なので、各々の読みに準じてもらっていいです。英訳するなら高次とか、超越的な出生で「metabirth」とかでいいんじゃないかな。メタバースに新たに生まれる生まれ方だし。

バーチャル受肉が示す空前の可能性、同時多生の「奠生」は、人間の生き方を拡張する。

 3-8. メタバースが拓く、「バーチャル受肉」の革命性

人類が役割社会で築き上げた繁栄は、ときに私たちに歪で不本意な要求を迫る。望む役割を望めないこと、望まぬ役割を望まれること。
それは、魂と世界の境界である肉体を通した正と負の期待。
それは、地縁と血縁、絆と柵、身体的特徴と生き物としての業。

そんな宿命のバーチャル化生に抗うべく、これまでも多くの試みが為されてきた。
魂に世界に肉体に、科学技術に哲学に宗教に根差した多くの発明は、人類の役割社会を崩壊させない程度には、今も私たちに宿命に対抗し続ける力を与えてくれている。
反面、これらの私たちの発明は、新たな理不尽な歪みを作り出す原因にもなっている。

VR技術が体現する身体性は、ついにバーチャルアバターへの受肉の実感にまで到達した。
バーチャル受肉という発明は、VRSNSが描き出すメタバースで奠生という新しい生き方の可能性を示唆している。
それは、これまでは屈するしかなかった宿命のいくつかを覆す力を備えている。

バーチャル受肉は生来の肉体から魂を解放し、随意に肉体を構築することを可能にする。それは、望むように宿命を書き換え、理想の役割を引き寄せる
目的に合わせて宿命を着替え、肉体に係る役割を選択する。
好きで似合うが実現し、生来の肉体に係るあらゆる制限・バリアを飛び越えゆく。
同時多生の数と時間だけ生来の宿命を希釈して、自身の在り方を追求できる。
本来、受肉するのは神話級の特別な人だけなのに、生来の肉体を保ったままで、赤ちゃんからやり直すこともなしに、これが誰もに開かれている。それは誰もの宿命を改められる。
だからバーチャル受肉には、「天命が革まる」じゃなくて、「天命を革めてしまう」ほどの革命性が秘められている。

宿命のバーチャル化生と悲願のバーチャル受肉、肉体に係るコントラストの黒と白。その白は、いずれ世界の形にさえも。

「――肉体が、自分と世界の境界線ならさ、例えば肉体の形が変わったら、……世界の形って、変わっちゃったりするのかな?」

4. もうすぐそこのメタバーサルライフに

遠くない未来、メタバースを活用した新たな生活様式、差し詰めメタライフみたいなのが提案されるようになるんだと思う。もっと豊かに、もっと楽しく、もっと便利に、もっと創造的に。そんないかにももっともらしい文句が頭を過るんだ。

世界が多様性を謳うなら、メタバースはなおさらそれを率先して尊重されるべきなのだろう。アバターひとつ、ワールドひとつ取ってみても明らかなように、そこはより自由度の高い、多様な在り方が実現する世界なのだから。
きっとメタバースは世界に自分達が掲げる多様性のあるべき本当の在り方を問うのだろう。
それぞれが掲げる多様性の真価が試されるんだ。

人は鏡越しに自身を問う。
魂を生来の容姿から解き放ち、肉体を一新するバーチャル受肉は、自身の剥き出しの魂との直接対話を余儀なくする。
どんなアバターに受肉するのか、つまり自身が何者であるのか。
バーチャル受肉は自身の在り方を深く魂に問う。
世界と自分を隔てる境界線である肉体を、これまで以上に極端自由に引き直せるということは、そうしてこれまで以上に極端自由に引き直された境界線に、自身の魂が引き摺られていくことを意味している。

色んな動機で引き直された境界線が精神にどう影響していくのかがとても興味深い。これがSFじゃないという。
自分が、引き直された自分の境界線に引き摺られてゆく。
自分が望んで引き直した境界線に引き摺られてゆく。
果たしてその先に望んた自分があるのかは分からない。
そう思うなら、境界線は幾らでも好きに引き直せる。
命の形が革まりすぎ時代、それがもうすぐそこまでやって来ている。

この技術が、多くの人の心の救いになることを期待せずにはいられない。

いい暇つぶしになれていたなら光栄です☆