考え方|「音」と「目」
世はすっかり「夏」というものを迎えるんだそうです。皆様いかがお過ごしでしょうか。
先日なんと、道端ですっぽんと出会いました。亀さんではなく、あのすっぽんです。これには思わず形振り構わず打っ棄って、わあっと声をあげて駆け寄ってしまいました。
車どおりが多い道路脇という事も相まって、要らん心配性を兼ねそなえた不肖は、彼(彼女?)を避難させるべく持ち上げようとしたのですが…お、重い…! 重すぎてとてもひとりでは持ち上げられない…!
非力な不肖はなくなく生命保護から辞退する事を決めました。
炎天下にさらされているのはすっぽんと同条件ではありますが、いかんせん次の予定が差し迫っていたので、すまん、どうか無事でいてくれ、と深々頭を下げてその場をあとにしました。こころの中で「心置きなく天日干しが終えられますように」と願いながら。そしてどこかで「もしかしたらもう既にご存命でなかったのかもしれない」という、ちょっとこわい気持ちにもなりながら。
帰路につく中、その場からはすっぽんがいなくなっていました。彼(彼女)の生命力とやらに圧巻されつつ、お亡くなりになっていなくてよかったなんてちょっとした自己擁護のような安堵感を覚えつつ。(死骸に触れるという事例はどうって事はないのですが、もしかして、なんていう臭いがなんとも不気味でしたから。)
自然の中の野生は人間という害虫が要らん世話(破壊)をしてこようとも、なにくそと負けじの本能を持ち合わせているんだと。…途端に、今日も暑くて嫌になるな、なんて思っていた自分が恥ずかしくなりました。
今日はタイトル通り「見た目で人を判断するな」の個人的解釈と世間一般論をサンドウィッチした具材のお話、「音と目」についてお話したいと思います。
なるほど、そういう事だったのか、と勉強になったのは、つい先日の事でした。
皆様、覆面を被ったロックンロール・バンドをご存じでしょうか。そうです。あの狼さんたちの事です。
彼らと呼称すると語弊が生まれるかもしれませんが、一旦は「彼」というカテゴリに区分したという共通認識を置いたうえでお話したいと思います。何故そんな事をわざわざ言いたいかというと、化けの皮が剥がれた時に、いわゆるセックスがどちらでもどの幅でもあり得るから、という自分のイヤな考えかたが脳裏によぎる瞬間があるからです。
それはさておき。
在り難い事に、ネットワークを通して創作活動をしていると世界中の方に見ていただいたうえに、感想や質問をいただく機会が度々あるんです。
ご存じの通り、俺は外国語能力が皆無ですので、いただいたメッセージの内容(原文)のままでしか受け取れない不精なんですね。それが悔しいので、せめて得意な言語だけは表側だけではなく裏側を読み取る、読解力およびそれに対する相応の「それらしい文章」を編み出せるよう、触れて見て聴いて、日々勉強をしている訳ですが…俺だって人間ですから、限界と限度は避けて通れない壁でもあるなと痛感する日々でもあります。
そこでつい先日、その機会が訪れた訳です。
さて、限られた文字数の140字で、かつ文化に沿うべく端的で率直な意見というものを熟考せねば。するとやっぱり、「あれっ?」と首を傾げる瞬間があるんです。
そう、その瞬間と言うのはずばり、「言語の壁」というものにぶつかっている瞬間なんですよね。
上手下手はともかく、綺麗な文法であるかはさておき。今の自身が出来る事といえば、翻訳無しでその場で出会った初対面の外国人と世間話をして別れたり、メッセージのやり取りをしたり。そういった最低限のコミュニケーション能力は持ち合わせている…のかな? と怯えながら過ごしているわけです。ですがそのたびに「ああ、言語が違うだけで、こんなにも頭の働きが違ってくるのか」と痛感するんです。特段、ネイティブを目指している訳でもないんですが、たのしいコミュニケーションがしたいなと思って、毎度うんうんと頭を悩ませております。
どこかの作品で「翻訳は、翻訳家を通して著者の考えを得るものなので、翻訳家の解釈、表現、センスやニュアンスによって、読み手(受取)側の印象が異なる。対して原文は、著者本人が考えた事を思いついたままに書いているので、著者本人の思考そのものを純度百パーセントで得る事が出来る。」といったお話をしました。
でも勿論、翻訳の良いところもたくさんありますよね。馴染みのある母国語で理解が出来るうえに、母国語を長く用いた翻訳家にしか書けない表現だとか、だからこそ用いられるユーモアやセンスがあるとか。数えきれないほどの弛まぬ努力が垣間見えますよね。
俺には、「この言語からこの言語に翻訳した時、現地人は一体どういった表現をするんだろう」という勉強をするために、翻訳本を読み漁るブームが訪れたりします。個人的には、長く触れてきた言語を用いた歌詞を歌う音楽を聴いて、そこから違う言語に翻訳された歌詞を読む、というものにハマっています。存外これがおもしろくて。歌手本人が堪能であれば一層、ああこの人はこういう事を伝えたかったんだな、と視野が広がって、より解像度が高まるんです。その作業の事を、「アーモンドチョコ」(一度で二度美味しい)と、自分の世界で呼んでいます。
…と、ある知人に話したところ、その知人の主張は「自分はチョコを食べたいのに、アーモンドがいるせいで、アーモンド分のチョコがなくなってるんだと思うと、心底アーモンドが憎くなる。全然二度美味しくないし、どちらかというと二度手間で、余計なお世話だ。アーモンドなんか要らない子。」との事です。…と、言いながらアーモンドチョコを買っている知人を見て、本当におもしろい人だなと思いました。いわく、アーモンドチョコにしか感じられないチョコがあるから敢えて買っているんだそうです。きっとそちら側に立っている人にしか感じられない、アーモンドチョコならではの「チョコの」良さがあるんでしょう。
話がそれました。失礼しました。トントン。
…さて、翻訳は本だけではなく、音楽など多岐にわたる活躍を見せて、我々に向けたメッセージとして、確実に届けてくれていますよね。
翻訳家さんというご職業を生業にされている方は、一体どんな教養を経てこられたんだろうと非常に尊敬しています。こんな表現が出来る人生観をお持ちだという事は、きっと平坦とはいえないこれまでを歩んでこられたのだなとか。そんな最中翻訳家を志した本心はどういったものなのだろうかとか。またまた要らん妄想が広がっては夢を見てしまう、不肖のイヤなクセが出て来ちゃったりだとか。なんだとか。
つまり何が言いたいかというと、声(音)を発しているモノというものは、「音と目」においてキャリーオーバーの情報量で倫理観をボコ殴りにしてくる「教科書」であるという事です。
たとえば。
あなたの目の前に、彫刻のようなブロンズの女性らしく美しい人が立っていたとします。目は青くて、鼻は高くて、唇の形も立派。おまけに身長も高くて、デニムブーツが似合いそうなおみ足をされている方です。
さて、あなたはこの情報量だけで今、この人に対してどういった印象を受けますか?
あなたはこの方とご挨拶をする時、開口一番のあいさつは一体どの国のものを用いるのでしょうか。
追加です。
その女性とご挨拶をする事になりました。すると、声は野太く、話し方もどこか凛々しい感じ。さらにその方は「わたし、ネイティブですから。そういうの結構です」と、あなたの母国語で返してきました。
すると突然、空に向かってコケコッコーと発しました。いわく、生まれた時からやっている事なので、自制心云々の話ではないのだと。
さて、あなたの中の「この人」という印象は、どういった変化を見せたのでしょうか。または、変わらないままでいたのでしょうか。
人を見た目で判断するな。それに対して、「人を見る時は靴を見るといい」ということわざもあります。
どうして人間という生き物は、同じ生き物(人間)という区分であるだけで印象付けたがる癖が抜けないのでしょうか。これは人間に限る話ではありません。つまり、「人間(あなた)が目にした万物」が全対象という、なんとも途方に暮れてしまうただっぴろさです。
人間とコミュニケーションをとるケースを例に挙げます。
確かに、接点を持つにあたり、その人に対する最低限のプロフィールは必要不可欠だと思います。趣味とかが共通していると、よりコミュニケーションが捗りますよね。好きな食べ物が分かっていたら、仲良くなれば「ああ、ちょっとお土産に下げていこうかな」なんていう、ちょっとしたサプライズだって生まれるはずです。
個人的には、その時が一番すてきな時間だなと思っています。何故なら、お土産やプレゼントを選んでいる間は、その人の事だけを考えていて、悩んだり迷ったりして、じゃあこれにしようっていう「選ぶ側ならではのときめき」が生まれているという事で。その場に居ても居なくても、ふたりきりの時間が生まれている。そんな時がなによりも一番すてきだな、と思います。さらに言うと、相手を想うひたむきな「気持ち」がなによりのプレゼントだな、と。
そして、プレゼントをしてもらった相手も「もらった側ならではのときめき」が生まれるかもしれないから、渡す相手に会えるまでドキドキする日常が訪れる…まるでデートを待ちわびるようで、胸がきゅんきゅんしますね。
また話がそれた。失礼しました。トントントン…。
それたついでに、文頭の「覆面をかぶったバンドマン」の元に戻る事にします。
つまり自分がなにを言いたいかというと、あのバンドマンからは「見た目に左右されず、かつ言語にも左右されない。無所属のままに、自分たちの熱情を音楽という芸術で世間にぶつけていきたい。」というメッセージを受け取った。という、回りくどいうえに結論それだけかい! っていう。
なんてことのないお話でした。
人間だれしも得意不得意というものがあるので、ゲッとなって避けるものはあって当たり前だと思います。だからこの言葉が苦手だとか、このアーティストは微妙だとか、この絵は苦手とか。この漫画はおもしろくないとか、野菜嫌いとか。そういう面があるからこそ、「好き」という側面に陽があたると、人は一層華やぐものなのだと思っています。
かくいう俺も数字が苦手です。綺麗に配列して順序だてようと努力をするんですが、すればするたびに余計こんがらがって、時間と精神だけが削れて行き……………あぁああぁ―――・・・・・・。
ただ確実に言える事は、嫌いでも苦手でも、否認は自由だけど、否定だけは前提と根本が違うなという事です。たとえ食わず嫌いでも何でも構わないから、否定だけはタブーなんじゃあないかと。でもだからといって、だまされたと思って、なんて言って無理矢理押し付けるなんて野暮も、少し違うかなと。
視界に入ったとしたら、こちらから黙って寄り添って、時には退く。それが一番の自己防衛で、そしてそれがなによりの「自分らしさ」が形成される第一歩なんじゃないかなぁと思っています。
それでこそ、否定ばかりしていると対話が成り立たないのかなと。
自論を気軽に持ち出せる世の中になったからこそ、一度自分なりに「翻訳」をしてみるのがいいのかなと。それから「議論」が始まれば、失うばかりだけではなく、得られるものもあるんじゃあないかって。
現代は、考えや解釈が衝突してこその社会です。そんな中を生きざるを得ない社会性生物(人間)だから、いつかは事故が起きてしまいますよね。
その時に散らばったものの中で、いかついハイエースから飛び出たであろう、使い古された可愛らしいうさぎの人形が投げ出されていたら。向こうが荒かったから起きて当たり前だったと思っていた車から、いたい、たすけて、という声が聞こえてきたら。――その時俺は、一体なにを思って、どうするんだろう。
そんな想定をしながら日々、「見た目で人を判断するな」と自戒しています。
そういった意味で、ヒットの起点は、存外一点に集約されているのかもしれませんね。でも、町を流れる大河だって、たどればひとつの小さな湧き水なのですから、それが当たり前で、そうあるべきだと思います。
余談ですが、某バンドマンのマスクの毛並みが良くなった時には、もしかしたら彼(彼女)らも、おいしいもものをたらふく食べられる生活が訪れたのかもしれない…! とうれしくなり、フアンたちと喜び合いました。
これもまた一種の「マスク社会」の醍醐味なのかもしれません。
全然よろしくないおあとになりましたが、今回はこれまでにしたいと思います。
そうでもしないとこのお喋りロボットは、あなたが読んでくれる限りずっと話し続けてしまいますから、プロローグ通り「互いに気負わず」をモットーに。
次回は「飛行機から見下ろした景色」について、お話したいと思います。
本日はこれにて失礼いたします。