見出し画像

趣味の思想化ー晶文社文化と西武文化

前回、小野二郎が「趣味の思想化」ということを主張していたことに触れた。

思想もなにもかもが趣味化=ブランド化する、言ってみれば「思想の趣味化」が進んで空洞化していく80年代を前にして、彼は、それとは真逆のことを言っていた。「趣味」という言葉が、「思想」が生き方の根源にかかわる重さや真剣さをともなうものであるのとは対照的に、軽く、挿話的で、生の余白を埋める出来事だというニュアンスを持っていることは、誰しもが感じることだろう。二義的と言い換えてもいいかもしれない。

(かつて、桑原武夫が俳句を「第二芸術」といって批判したことをちょっと思い出す。俳句は彼にとっては、いわば趣味的な余技のようなものであって、思想的重みを欠いていたのだった)。

その浮薄ともとられかねない「趣味」こそが思想の培地になりえると小野は主張した。もちろんモリスの思想に押されてのことだけれど、その含蓄は、デリダやドゥルーズと言った名がシャネルやグッチと変わらないブランド記号として流通するようになりつつあった、「思想の趣味化」の時代にあって、なかなか示唆に富むものだった。

いや、正確にいうと、事態は逆だったかもしれない。

70年代を通して晶文社や高山建築学校での活動を通じて、「趣味」の世界の多角的な展開可能性・掘削可能性を提案しつづけていたことが、そのまま「趣味の思想化」という言葉には結晶しているのであって、そのような方向性が、80年代に入って、西武文化的な記号消費の広がりで一挙に上書きされてしまったのだ。だから、晶文社的な文化と西武的な文化には、連続性も十分あるのだが、どこか本質的なズレもある。

それは、単純化の謗りを免れないかもしれないけれど、植草甚一の「勉強」が放っている探検家の感覚と、西武文化以降の「情報消費」につきまとう競争者の感覚の違いといってもいいかもしれない。あえて言ってみれば、前者は行先が未定であって、つねに行方不明の危険に晒されているのに対し、後者はあらかじめ設えられたレーストラックをいかに早く駆けるかばかりを競っているような感じだ。ややこしいのは、世間一般の「勉強」イメージは、むしろ後者に近いことだ。植草の「勉強」は、たとえば江戸時代に手探りで西洋の書物を和訳したりして摂取した蘭学者たちの系譜に連なると、これはちょっと大袈裟かもしれないけれど、感じる。キーワードは「手探り」だ。

小野の言う「趣味の思想化」は、植草の「勉強=手探り」と響き合うところがあって、趣味を追求すればするほど、自分が揺るがされる、違った世界の展望に近づいていく、無価値の中に価値を見出すことができる、つまりは与えられた記号的価値のネットワークに裂け目を見出して、違った価値のシステムの可能性を垣間見ることができる(永続的なものではなく、それは変化しつづけるから、仮のものでしかないのだけれど)、というような含みを持っていた。

植草の文章に、いかに多くの未知のものとの出会い、そしてそれに驚く自分の描写が出てくるか、想起してみるとよい。それに対して、80年代以降の、西武文化(とその周辺に組織された、たとえばマガジンハウス系の出版物)の世界では、すでに開拓された世界が、たとえマイナーであってもあちこちにあって、それをどれだけいち早くキャッチするかばかりが取り沙汰されていたので、情報発信する人たちは、いつも「先行者」や「水先案内人」としての自分の優位性をばかり匂わせているという感じが強くなってくる。

もちろん、これは大袈裟に話を単純化しているので、例外的な事例もたくさんあるのだが、全般的にはそんな印象で、それは今も私の中では変わっていない。

この植草の「勉強」感覚を小野以上に体現していたのは、晶文社の二人の編集者、津野海太郎と長田弘だと思うが、彼らの話はまたいつか稿をあらためて。

最後に、ここまでの話の流れを受けて触れておきたいのは、80年代を論じた宮沢章夫の『80年代地下文化論講義』だ。この中で宮沢は、西武文化とオタク文化を対照的な同時代文化の両極として描き出している。ハイカルチャーとサブカルチャー、明と暗、オシャレとダサいというような二項対立で、明らかに当時は、前者の方が文化のヒエラルキーの頂点を構成していて、後者は日陰者という扱いだったと。

それはそれで、当時の記憶に照らしてみると、まさにそうだったなと言う他ないのだけれど、一方で、この両者は合わせ鏡のような関係だったというふうにも感じる。両方ともが、あらかじめ与えられたフレームの中で情報の量と速度を競うような感覚を共有していたということだ。要は、両者ともに、新しいものとの出合いによってグラグラ、ゆらゆらするような「勉強=手探り」感というよりは、優劣がはっきりと決められる階層序列的な情報世界(ヴァーチャルなカタログ)を前提にして、それが保証してくれる限りでの対象に投資をするようになったというような感覚だ。情報資本という言い方があるけれど、まさにその感覚が、対照的な両者にともどもに共通することだったのではないかと、今更ながら思うのだ。古いものに目を向ける際にも、「クズ拾い」感覚というよりは「コレクター感覚」または「レトロ」感覚ばかりが前面化するという感じだ。だから、ある意味で、その後、西武文化的なものと秋葉原オタク文化的なものの境界が曖昧になって、すべてがフラットな情報蓄積と消費と投資の空間に取り込まれるようになったというのは、必然だったのかもしれない、というような感想を、もちろん後付けに過ぎないけれども、持つ。

今日はここまで。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?