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第111話:みんなボッチ

息子が小学生だった頃、家族でボーリングによく出かけた。雨の日や寒くて外に出られない休日に、有り余る元気をもてあまして欲求不満状態になる息子の「元気の捨て場所」としてボーリングが選ばれ、我が家の遊びのひとつのパターンとして定着したのだった。

息子も僕もカミさんも、たいしてうまくはないのだが、段々にはまっていき、息子は子供会の大会で180を出し、カミさんは貯めたポイントでマイボールを持つようになった。

僕は上達はしなかったが、一回だけ職場の大会で、何の間違いか212のスコアを出し、ハイスコア賞に輝いたことがあった。賞品が灰色のペアのビキニのパンツで、今でも鮮明に覚えているが、女物の方には、お尻のところに小さなクマの絵が描いてあって、その可愛さに感動したりした。

ある日も、そんなわけで家族でボーリングに出かけたのだが、ちょっと面白い光景に出会った。

僕らの隣のレーンに、あとから5,6人の女子高生が制服姿でやって来て、ボーリングを始めた。最初はみんなでキャッキャッしていたのだが、そのうち静かになったので、どうしたことかと思って目をやると、みんなファッション雑誌みたいなものを膝に開いて見ている。

勿論ゲームは続いていて、そのうちの一人は投げているのだが、その子がガーターであろうがストライクを取ろうが全くそれには反応せず、それぞれがそれぞれの雑誌に目を落としている。投げた女子もすぐ自分の席に戻って、次に自分の番が来るまでは黙々と雑誌を読んでいる。他の友達の投球には無関心。

要するに、自分の番が来ると球を投げ、それ以外は雑誌を眺めているのである。

中に高校の制服は着ているが、明らかに東洋系の外国人と見える女の子も混じっていて、恐らく彼女たちはその留学生をもてなすためにボーリングに来たのではないかと思われるのだが、その子の投球にも無関心。

一度、その子がガーターを出し、振り返りざまに恥ずかしそうな、救いを求めるような笑顔を見せたが、みんな雑誌を見ていて彼女を見ていなかった。そのときの彼女の困惑したような表情が妙に印象に残ったわけだが、みんなでいたらみんなでわいわいするのが遊びの楽しさではなかろうかと、なんだか不思議な光景に思われた。

しかし、後にいろいろ見聞するに、かような現象はこの女子高生たちにとどまらず、若者の社会現象となっているらしい。

なんとなく何人かで集まってはいるものの、そこでみんなで何かするのではなく、めいめいがそれぞれ勝手に自分のことをしている、そんな状態。

例えば、子どもたちの遊び方が、3人で家に集まって遊んでいるが、一人はファミコンをし、一人はその横でゲームボーイをし、もう一人はその隣でマンガを読んでいるなんていう光景。
あるいはもっと簡単な例を挙げると、スマホはその典型かもしれない。
あるいはカラオケはどうだろう?

ラジオでたまたま聞いたのだが、ある大学教授がこういう状態を指して「みんなぼっち」と命名したのだそうである。
「一人ぼっち」は嫌だから何となく「みんな」で群れるが、かといって「みんな」で何かするのではなく、何となく「みんな」といながら、でも、「一人ぼっち」のようにそれぞれが別々のことをしているから「みんなぼっち」なのであるらしい。

なるほどうまいことを言うと僕は頷いてみたりした。無論、十把一からげで若者を論じようという気もないが、かつては(と書くのは歳を取った証拠だが)「みんな」という状態が確かにあり、「みんな」が集まれば、そこに話題なり、物なり、音楽なり、何か軸みたいなものがあって、そこを中心に「みんな」がわいわいと顔を寄せ合った。それが「みんな」でいる良さだった。

みんなぼっち」というあり方は、ゆるやかな新しい関係なのかもしれない。
でも、もう考え方が古いのかもしれないが、そこから何かが生まれてくる感じではない。楽しみ方が個別化する傾向にあるのは確かだが、だったら一人で楽しめば、と思ったりもする。

そういう意味では、かつては「みんな」もあったが「一人ぼっち」も確かにあった。一人で思索し、一人を憂い、一人を楽しむ。

一人ぼっち」があったから、「みんな」があった

と逆説的に言ってもいい。その両方に価値があったのである。

みんなぼっち」
「みんな」になれないことが大きな一つの問題であり、同時に
「一人ぼっち」になれないことが、もう一つ大きな問題であるかもしれない。

そう、久々にまじめにオジサンであるところの僕は思ってみた。


■土竜のひとり言:第111話

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