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第38話:亮太の夏

[ 子育ての記憶と記録:1]  

8月、亮太が生後8カ月を迎えている。ようよう「タッチ」が出来るようになり、「偉い。すごい」と声をかけると、ニコニコ笑いながら立っている。「ハイハイ」も大分上達し、部屋から部屋への移動も可能になった。何も出来ず、仰向けのまま泣くしか能のなかった頃に比べると天と地ほどの違いを思わせる進歩である。

不覚なことながら子供を持つまでは気づかなかったのだが、子供というのは何も出来ずにこの世に生まれて来る。オッパイを求めて泣くことしか出来ない。2カ月を過ぎたころにガラガラを買ってやったのだが、それを口に運ぼうとするものの、額や鼻にぶつけて「ウギャ」と泣いたりしていた。両の手を合わせることすら出来なかった。笑い顔を作るのでさえ三カ月の日々が必要だったのである。

そうしたことは僕にとっては新鮮な一つの感動だったのだが、同時にそれまで出来なかったことがひとつひとつ出来るようになって行くその進歩の着実さにも驚かされた。
ものを口に運ぶことから、物を物として見ることへ。仰向けから俯せへ、俯せからオスワリ、タッチへ。表情の豊かさなども、その成長を殆ど日ごとに追えるようにも思われた。
ここのところは立つことに異常に執念を燃やし、物につかまっては手を離し、それで転んで頭を打ち「ギャー」と泣くものの、また起き上がり、再び、三度、四度・・それこそ延々と頭の毛を汗でぐっしょりにさせながら挑戦している。
今ではオスワリの状態から何にもつかまらずに立てるようになり、立ったまま物をいじったりする余裕を見せたりなどしている。誉めて拍手してやると、その真似をして両手で自分の腹をバンバンたたいたりもしている。間もなく歩き出すに違いない。
高校生諸君に見せてやりたいような旺盛な意欲と執念である。

ついでながら書いておくと、このところの亮太の興味は「食う」ということにあり、とにかく食う。ちなみに体重は半年経ったころに既に一才児くらいのそれがあり、腹は三段腹、ムチムチした太モモをしている。自分の手で食べたがり、スプーンにのせて口に入れてやろうとしても自分で口に入れたがって「ギャーギャー」と欲求不満の声を上げている。
何でもかんでもつかむから食卓中グチョグチョになってしまうが、彼はそんなことに一向に構わずやりたいようにやっている。スイカやモモなどはかわいそうなくらいメチャクチャに握り潰されてしまう。80㎝に満たないこの体の中の、どこにそんなエネルギーが潜んでいるのか全く不可思議で、カミさんと顔を見合わせている我が家のこのごろなのである。

そんなこんなで僕ら元気で健康な子に恵まれた幸福は確かに感じているのだが、彼は余りに元気すぎて我々を悩ませもしている。
自分の思い通りにならないと「キィー」と超音波のような声を出して怒る。扉や引き出しはどんどんいじる。ガスのスイッチや包丁など、触らせたくないものに異常な関心を持つ。食事時はとにかく食卓の上に並んでいる物に手を出したがり、僕らは迫って来る亮太を避けながら食卓を360度、茶碗や皿と一緒に移動しながら食べなければならない。

夜も12時頃までは素直に寝てくれず、朝はきっかり6時半に目覚めて活動を開始する。僕の眼鏡に異常に関心を持っていじくりまわすので、僕は視界が歪み頭痛を起こす。それを叱ると遊んでくれると思うらしく、ニコッと笑って「ウキャッ」と言ってみたりする。たまらない。
とりわけカミさんは大変で、何でもカミさんの分析によると、8カ月位になると自分と母親を違う存在として意識出来るようになり、それが一つの不安になって母親べったりに甘えるようになるらしいが、台所で洗いものをしていればそこに行って足にしがみつき、洗濯物を干していればその横に座り込んで「ダーダー」とつぶやいている。トイレや風呂に入ると戸口までハッて行き、居間に座っていると抱き着いて来る。

最も悲惨なのは寝付かせるときで、カミさんは9時半ころから寝かせにかかるのだが、亮太は一向に寝ようとしない。そのうち疲れ切ったカミさんは寝てしまうのだが、亮太はその死人のように寝ているカさんに襲い掛かり、髪を引っ張り、ほっぺたをたたき、タッチしたままカミさんの腹に倒れ込んでみたり、耳に口を当てて中にヨダレを垂らしてみたり、しまいには頭突きをくらわせたりしている。
「アー」とか「ウッ」とか「モー」とかカミさんはそのたびに呻いているのだが、亮太はそれを喜びの声と勘違いしているらしく、更なる攻撃を加えている。

たまに僕の方にも赴いて来るのだが、向きをかえてカミさんの方に押し戻してやると、亮太は再び物体と化しているカミさんに挑みかかって行くのである。
僕がそうするのは、しかし僕がカミさんと同じような目にあいたくないという卑しい根性からではなく、赤ん坊にとって最も基本的な母子のコミュニケーションを大切に思うゆえなのであり、見ていてそれが非常にウルワシイ光景に思えるからなのである。

実際赤ん坊の笑顔とは育児の疲れを忘れさせる不思議な魅力をもっている。ものの本によるとそれは赤ん坊の無意識な作戦であるというのだが、「だまされてもまあいいや」と思わせるだけの力は確実にある。
だから彼女が疲れ果てたときには「この笑顔を見よ」と亮太のワキバラをくすぐりながらアドバイスをするのだが、彼女は「疲れは消えないけどショーガナイなって気にはなるわね」などと言う。
そうボヤきながら、それこそ一生懸命に子供の面倒を見るのだから、母親というものも不思議なものである。僕だったらオッポカしとくに違いない。とてもああは出来ない。

逆に僕はこいつが反抗期に入るころのカミさんの落胆が気になって「そんなに一生懸命やったって中高生になれば「メシ・カネ・ウルセー」くらいしか言わなくなるぞ」と予防線を張ったりもしてみるのだが、カミさんは「そんなふうには育てません」「それはあなたです」などと言ってくれる。
そういう言い方が反抗心をそそるんだと僕はヒネてみたりするのだが、果たしてこいつはどんな人間に成長して行くのかと、楽しみでもあり、また不安でもあるのが、親としての正直な気持ちというところであろうか。
いつのどの親でもこんなことを考えたのだろうな、などと思ってみたりする。親たるものは(なってみて初めて分かったのだが)とかく複雑なものなのである。 

さてそんな僕らの思いをよそに、亮太はスクスクと育っている。「こいつには悩みがない」と時々腹が立ったりもするが、怒ってみたところでニコニコされるだけである。全く取り留めがない。

その取り留めのなさを僕は今、非常におもしろく思って見ているのだが、亮太は恐らく今起こっていることを何も記憶にとどめない。
生まれて初めての夏、スイカをムシャムシャ食べたことも、タッチしたまま僕の真似をして手をたたいたり、バンザイなどしたことも。あるいはオムツをはずしているときにカミさんのひざでジャージャー、オシッコしたことも、鏡を見ながらニタニタしていたことも。カミさんの愛情や、僕のこうした気持ちも…。

人はいつから記憶というもの持ち始めるのだろう人生最初の記憶とはどうやって脳裏に焼き付けられるものなのだろう、亮太を見ていて僕は幾度もそう思うことがある。それは僕にとって、子育ての中で出会う諸々の不思議さの中で何よりも不思議なことであったりするのである。
ひょっとしたらそんな自分自身の人生の始まりに思いを馳せてみると、今日や明日を思い煩っている自分をどこかに解放出来るかもしれないなどと思う。生きることは何かから始まっているはずなのである。
果たして亮太の頭の中に焼き付けられる最初の風景とはどんなものであるのだろうか。楽しみなところである。

 
とりあえず「亮太のはじめての夏」は終わった。この夏は亮太の知らない、僕らだけの夏である。
カミさんは痩せたことを誇らしげに僕に告げ、僕はどこが痩せたのだか分からないカミさんの丸い顔を見ながら、同じくコブタのようによく肥えた亮太の行く末について何故か深い深い憂いを感じるのであった。

(土竜のひとりごと:第38話)

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