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第146話:45歳の新米図書館司書

40代の後半、4年間、図書館に勤務していたことがあった。

会う人ごとに教師クビになったの?何かしたの?下着でも盗んだ?と怪訝な顔をされたが、悪さをして教員をクビになたわけではなく、初任からいわゆる普通高校で16年過ごした頃、学校や教師というものがよくわからなくなり、違った世界を見てみたくなったのであった。
希望するままに、特別支援学校に3年、定時制高校に3年、行かせてもらい。その後4年間を図書館で勤務した。

司書の資格を持ってはいたが、若い頃に取った上に現場での実務経験はないので、基本的に仕事は0からの出発といってよかった。
まさに転職して新しい職に就いたと言ってもいい45歳の新米であった。

属したのは調査課という部署で、乱暴に言えば二つの仕事をしていた。
ひとつは県に関係する資料を網羅的に収集し、利用者が使えるように本や冊子のデータをシステムに登録する仕事。
もうひとつは調査課員として利用者の質問に答えるサービス。これをレファレンスサービスと言い、手紙やメール、電話で寄せられる質問、また閲覧室のカウンターに座って利用者から直接受ける質問に回答するのである。

しかし、ひと言で言えばそうなのだが、あらゆる分野のあらゆる質問に対応しなければならない。

・日本永代蔵が書かれた頃のお金は今のいくらぐらいかという一般的なもの。
・清水エスパルスの最新の貸借対照表を見たい、電子ピアノの市場規模を調べたいという経済的なもの。
・ばね製図のJISの英訳版を入手したいといった工業関係
・消防施設強化促進法の制定時の全文、公園遊具についての判例とここ3年ほどの事故例を知りたいといった法律関係
・尾張藩作事方工匠、伊藤平左衛門の11代目について知りたいといった歴史関係
・かつて官報の英語版に載った日本国憲法の英訳を見たいといった書誌関係静岡県の人が海外を訪れる人数を国別に知りたいといった統計関係
・勅撰集21代集の中で富士を詠んだ歌を全部知りたいといった文学関係

など多岐にわたる。

即答可能な質問もあるが、一週間かけても回答できない質問もあるし、夕方5時までに回答せよというケースもある。
メールで花の写真が貼付され名前を調べてほしいという依頼もある。
「このケースで退職金が払われない法的根拠を知りたい」と言われても「それは弁護士に相談してほしい」と思ってしまう。
マッタの絵が見たい」と言われても、ちょっと待った、という感じ。

図書館資料を根拠に回答しなければならないのがルールなので、回答を作るためにひたすら書庫に潜って資料を調べる毎日。経済や法律、地域の歴史などに全く詳しくなく、調査方法にも慣れていない僕には五里霧中の世界だった。


それでも回答に時間が掛けられる質問は何とかなったが、厳しかったのはカウンターに座って質問を受け、その質問に即座に答えなければならないことだった。
それは自分の無能さが露呈する恐怖の時間だった。

中には新米と見ると力を試しに来るオジサンもいて、
「古い辞書を出せ」
と言うから古い辞書を持っていくと
「もっと古いのだ」
と怒られ、もっと古いのを持っていくと
「このことばが一番古いのが載っているやつだ」
とまた怒られ、そのことばが載っているものを持っていくと
「もっと古いのだって言っているだろう」
と怒鳴られ、最終的に平安時代の古辞書の影印本を必死で探し当てて持っていくと、
「それだよ。やればできるじゃないか」
とやっと許してもらえたこともあった。

またある時は、人物の写真が載っている本を示されて、
「これじゃないこいつの写真を持ってこい」
と言われる。
これじゃないものと言われても、これが何なのか新米の僕には見当がつかず、タイトルや本をめくりながら、これが何であるのか考えていると、
「眺めてたってしょうがねえだろう。早く持ってこい」
と怒鳴られる。
わけがわからず、怒鳴られているより他にない。

かくて毎日が失意のうちに暮れていくのであって「ああ俺は何をやっているんだろう」と思う。
覚えることは無限にあって、検索やデータ登録のシステムの使い方、著作権の知識、6つある書庫のどこに何があるということ、マイクロフィルムの使い方、データベースの利用方法、あるいは電話の取り方まで・・脳が破裂しそうだった。

一方で利用者は図書館職員であれば何でも知っていると思っているから、そのギャップは大きい。大概の利用者は感じよく接してくれるのだが、答えられずに冷や汗を掻いたり、間違えたことを言って後で後悔したりと、タジタジ、オロオロ、小さくなって毎日を暮らしていたのである。


その頃、ある日の帰り道にコンビニに立ち寄って煙草を買った。

レジの女の子は明らかに新米アルバイトで僕はそのとき煙草を4つ買ったのだが、
「こちらはそのままでもよろしいですか」と聞く。
それはごく自然な応対なのだが、僕が「いいですよ」と答えると、丁寧にその4つの煙草のひとつひとつにオレンジのテープを貼ってくれた。

コンビニでは万引き防止のために袋に入れない商品にはテープを貼るのだが、多分、煙草はカウンターでのやりとりなので個々にテープを貼る必要はないのである。
僕はそれを見ながら、「そう、そう。そういう細かいところがいちいち分からないんだよね」と心の中で大きく頷いたのであり、何だかその女の子に限りない共感と抱きしめてあげたいようないとおしさを感じたのであった。

それから4日間、煙草を吸おうと胸のポケットから箱を取り出すたびに、そのオレンジのテープを見ながら

ガンバレ、新米!

と自分につぶやいてみたのである。


■土竜のひとりごと:第146話


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