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第8話:はかないロマンス

かつて、フィリピンの青年グループと語り合う、という合宿に参加したことがあった。山中湖の湖畔にある宿舎だったが、参加者はフィリピン側、日本側、それぞれが30人ほどで行われた。

2泊3日の日程は、初日が歓迎のレセプション、2日目は日本とフィリピンの教育について講演があり、午後は小グループに分かれての討論会、夜は催しを含めたパーティー、3日目はレクリエーションで親睦を深めようという企画だった。

参加者の年令層は20代後半から30代前半で大体一致していたが、日本側はほとんど高校の教員であるのに対し、フィリピン側は大学の助教授が多く、つまりフィリピンでもかなりのエリートということになるが、高い倍率を選ばれて来た人達だったようである。
一体そんな会に教員のハシクレであるとはいえ僕ごときが出て行って良いものか迷ったし、交流はすべて英語で行われたのであって、日本側の参加者も英語教師か、海外での生活体験のある人ばかりだった。
そういうところに英会話の全く出来ない僕が紛れこんでしまったのは、明らかに何かの間違いには違いなかった。

合宿の最初から参加するつもりが用事が出来てしまい、2日目の夜のパーティー直前からの参加となった。
宿舎に着いたとき、日本側はパーティーの出し物「桃太郎」の練習をしているところだったが、お前さんも参加せよということで、及ばずながら一役もらい受けた。
と言っても何のことはない。「川」の役であって、クリスマスなどによく飾るキラキラとしたヒレのついている「ヒモ」の端を二人で持って揺らすのである。なるほどこれなら英語をしゃべらずに済むわけだ。

パーティーが始まり、双方の出し物も和やかな雰囲気の中で終了し、会話がはずむ。会が進行するにつれて益々雰囲気はくだけてゆき、いつか知らず会はディスコパーティーに移り変わって行った。
ほとんど熱狂的に皆は踊るのだが、さて困ったことにこの歳になるまで僕は一度もディスコというものに行ったことがない。いや、行ったことはあるのだが、大概は飲むだけで踊ったことはない。
つくづくとおのれの無能さを知らされたが、椅子に座っているとフィリピンの女性が手を取ってこの僕と踊ろうと言う。仕方がない、これも及ばずながらやってみようということで踊るには踊ったのだが、どうも手と足を交互に上げていたに過ぎないらしい。

後で鏡に向かって一人でやってみたが、滑稽と言う以外の何物でもなかった。冷や汗をかく思いである。

ともかくもこんな楽しい気分になれたのは久し振りのことだったが、そうこうしているうちに一人のフィリピン女性と親しくなった。
彼女は僕の不完全な言葉の意味を見事に汲んでくれ、明るく応対してくれた。美人というのではないが、表情が豊かでかわいらしい人だった。
皆で歌を歌おうと輪になったときも僕の隣に来てくれ、フィリピンの歌を指で歌詞をたどりながら一生懸命教えてくれる。僕の方も日本の歌を、これも訳の分からぬ英語に直したりして教えてあげたりした。

これは良い雰囲気だ、思わぬこんなところでロマンスが生まれるかもしれない、と思い、その夜はパーティーの果てた後、何か幸福な気持ちを胸に抱いて床に就いたのであった。

さて、翌日はリクリェーションの日だったが、バスケかボーリング、あるいはサイクリングか、ボートに乗るか、各自で好きなものをやろうという主催者からの説明があった。
昨日の気分が何となく残っている僕は彼女が何をするのか気になったが、彼女の方がサバサバと僕が何をするのか尋ねて来た。ほとんど人がボーリングをするというので「ボーリングをしよう」と言うと「そうしよう」と彼女も言う。
「荷物を整理したいので後で」と言ってその場は別れたのだが、僕がボーリング場に行ってみると彼女はそこに来てはいなかった。
いや、いるはずだ、と思ってもう一度捜してみたのだが、やはり彼女の姿は見えない。おかしい、嘘など言うはずもないし、何か都合が悪くなったのかなどと思いつつ平静を繕っていたが、何とはなしに落ち着かない。

昼食のときに彼女に「何をしていたの」と聞くと、彼女は「湖でボートに乗っていた」と言う。僕との約束は云々、と聞こうかと思ったが、悲しいことにそれを相手を不快にさせないで表現するだけの語学力が僕にはない。
結局よく分からないまま何と無く気まずい思いだけが残り、僕は午後から用事があったので、さよならだけを簡単に言い、宿舎を後にすることになる。

これがこの女性とのはかない恋の一部始終である。


この話を英語の同僚に聞いてみたところ、この誤解は bowling boating の発音ミスによって起こったものではないかと言うことだった。僕の拙い bowling の発音を、彼女は boating と受け取ったのだ。
こんなささいなミスが僕のロマンスの芽を摘み取ってしまったのである。高校生諸君も、だから英語をしっかり勉強しよう。人生にはこんな誤解がどこに転がっているか分からないものである。

ついでにもう一つ忠告しておきたいのだが、これはあくまでカミさんに内緒の話である。その点、ヨロシク。

(土竜のひとりごと:第8話)


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