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実体との乖離

やけに難しいタイトルをつけてみた。

つまらない話だが、例えば「お金」

キャッシュレス決済がスマホという「道具」を利用し、消費税の値上げをバネに一気に進もうとしている。あるいは、仮想通貨が国という単位を飛び越えて市場経済の中で主役に躍り出るかに見える。昔は例えば、給料は現金支給だった。

僕が30歳半ばくらいまでは。給料を袋に入れる事務は神経のいる大変な仕事だっただろうが、もらう方は嬉しかった。給料袋に入れられたお札の厚みを自分の「労働の意味(価値)」として感じられたし、家に持ち帰っても、別にそれで威張るわけでもないが、カミさんにそれを渡す時は感謝され、ちょっと、いや結構いい気分だった。

ところが、給料が銀行振り込みになった瞬間に、そうしたことは消えた。給料日はデータベースにアクセスして受領のクリックをするだけの日となり、カミさんから逆にお小遣いを「いただく」日になってしまった。「労働の実感」も「家族を支えている権威」も消えたのである。

みなさんは若いからどうかわからないが、子どものころは10円玉や100円玉がポケットに入っているだけでうれしかった。時々、それを触って「お金」を感じた。貯金箱にお金を貯めてその重さが心地よかったりもした。

建て前(上棟式)の時にはお餅と一緒にお金も撒かれたが、それを拾うのもお金など殆ど手にすることのない子供にとっては未知の冒険のようにわくわくした。

オジイチャンとオバアチャンは竹の筒に五円玉を貯めていて、「オレが死ぬときに撒いてもらうためだ」と言っていた。実際に二人が亡くなった時には墓地へ向かう時に、竹で編んだ籠を竹竿の先に括りつけて五円玉を入れ、葬列を組んでお寺に向かう所々で撒いた。これを撒き銭と言うらしいが、そうした施しをすることで、故人の功績が増すと考えられていたそうだ。しかし、そうした「お金」とのつながりも消えた。葬式もビジネスとなり、外注されるのが当然のようになり、「弔う」ことの意味も変質した
 

あるいは例えば「写真」。今はスマホやデジタルカメラで撮り、「写真」は「データ」となった

かつては、カメラで撮った画像は写真屋にフィルムを持って行き現像してもらった。現像ができて来るまで、どんな写真が取れたかわからない。現像された袋を開ける時はドキドキした(そう言えば昔は子供が生まれてくる子供が男か女かは教えないことが常態であって、男女の別は生まれて初めて分かった。みなさんは知りたい? 写真に話を戻そう)。

そうして受け取った写真はアルバムに貼り、メモなどを挟み込んで本棚に置かれ、何かふとした折に開いて楽しんだ。時には一人で、時には家族で。しかし、デジタルカメラを買ってから、それらの写真は現像することもしなくなり、パソコンやハードディスクの中で埋もれ、見返すことも少なくなった。それは恐らく、写真が「写真」でなく「データ」になってしまったからなのだろうと思う。


みなさんのような若い世代は、きっとそうは思わないのかもしれない。スマホが一般化してからは確かに写真や動画がすぐ見返される状態で「携帯」され、甚だ便利である。撮った写真も仲間で共有できるし、「データ」としての写真も指先で器用に手繰って「思い出」話に花を咲かせられる。僕が写真やアルバムの「重み」の話をしても「はぁ?」という感じなのかもしれない。

最初に書いたキャッシュレスについても、先進国では当たり前の話なのだろうし、それはまた甚だ便利だろうし、実施にsuikaとかnanacoとかedyとか、まったく日常に溶け込んでいる。しかし、そうでない「物」と「価値」が結びつき、その感覚に「依存」してきた僕らからすると、それは「ふわふわ」していて頼りない。「実感」がない。老人のたわごとに過ぎないが、僕らにあった「物」と「価値」が結びついた感覚が消滅していいのだろうかというのが疑問符なのである。

例えば、車。今はオートマ車が主流だが、僕らが免許を取ったころはマニュアル車しかなかった。アクセルとブレーキの微妙なペダルワークで半クラッチを作りながら車をゆっくり動かす感覚(この二つのペダルを足で操作しながらハンドルを回し、周囲の状況を目で確認する、そうした操作は初心者にとって難題だった)。

シフトチェンジさせてはアクセルを踏み込んで加速する感覚。車のメカニズムをさほど詳しく知っているわけではないが、それでも車を自分で動かしている感覚があった。それが、次第にオートマが主流になり、今ではマニュアル車は生産さえされなくなる傾向にある。

バイクもそうだが、もはやマシンではなく、電気製品だと整備士の方は言う。さらにはブレーキや車線走行維持が実用化されたと思ったら、自動運転がまもなく実用化されそうな勢いである。便利なのかもしれない。でもその時、主体としての「僕ら」はどこへ行ってしまうのだろうと思う。
 

挙げればきりがない。車で言えば、ナビやグーグルマップを使えば間違うことなく目的地へ案内してくれるが、道を覚えなくなった。何回、同じ所へ行ってもナビがないとたどり着けない。電話番号などもかつては、家や職場、友人などいくつかの大事な番号は記憶していたのだが、それもなくなった。下手をすると自分のケータイの番号すら覚えていない。

電子書籍と本だったら皆さんはどちらを選ぶだろう。恋愛も実際の異性に触れるのではなく、初音ミクとか二次元で済ますことになっていくのだろうか。教育にもICTとかいうのが導入されつつある。そうすると多分、素晴らしい資質を持った講師の授業を生徒はタブレットで見ながら勉強することになり、僕のような無能な教員は不要になるのだろう。

「AIに授業してもらったら?」と生徒に言ったら、「雑談が聞けない」と答えてくれたが、「古文の鍵は助詞の征服だ。女子の制服じゃないぞ。」みたいなセクハラ発言しかしない僕より良いに決まっている。でも、高校生がみんな同じ講師に教わったとしたら、同じ発想しかしない高校生ばかりになってしまうような気もする。

僕らは「物」に「依存」して生きてきたのではあるまいか。

形のない、目に見えないものが大切だという言い方とはまた別の次元で、形があり、目に見える「物」に「依存」しなければ僕らはあり得なかったとも言える。

母親のおっぱいの柔らかさ

父親のヒゲのざらざらした頬ずり

憧れた本に囲まれた書斎

部屋の模様替えは好きだった。

ボロボロに使い込んだ辞書

故郷の狭い路地や土間や囲炉裏のあった薄暗い家

初めて握った異性の手

高校入学のお祝いにもらった腕時計

バイクを倒してカーブを切る時の風になったような感覚

ラケットでボールをヒットする感触

マッチポイントを取られても必死でボールを追いかけた記憶

はじめて飲んだビールの苦み

海で拾った石ころ・・・。

「物(実体)」に触れることで「実感」される「経験」として「僕らがある」ような気がしてならない。


Web世界とか、ビッグデータとか、電脳世界とか、それはいったいどこにあるのだろう?これが目下のところ、とても大きくて素朴な疑問である。


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