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第140話:カミさんについての近況

ウチのカミさんはトンチンカンなのであるが、そのトンチンカンは、ここのところもとどまるところを知らない盛況ぶりである。

ついこの間も、写真の現像をしてもらいに行ったはいいが、カメラの「きたむら」でもらった割引券をカメラの「きむら」で出してしまい、店員に「申し訳ありませんが、これは当店のものではございません」と言われたとしょげて帰ってきた。

「きむら・きたむら」は確かに紛らわしいので、これは同情に値するかもしれないが、続いて静岡銀行の通帳を農協のカウンターで出し、「これは他行の通帳です」と言われても来たらしい。
ついでにその静岡銀行に寄って届出印を変えてきたのだそうだが、帰ってきてよく見ると、僕の印鑑を押すべきところを息子の印鑑と気づかぬまま手続きをしてきてしまったようである。
「可哀想な私・・」とカミさんは悲嘆にくれていたが、なんだかおもしろすぎて、僕は全く同情する気になれない。

相変わらず、言い間違えも多い。雨が何日か降り続いた時、洗濯物がたまって困るのはよく分かるが、「全く雨乞いしたくなるわ」などと言うわけで、思わず額に手を当ててみたくもなる。

ここのところは、例えば「お風呂のあそこがあれなんだけど」と「あれ」を連発していて、それがよく分からない。いきなり「あれがあれなんだけど」と切り出されても、「あれ」が何であるかは本人しか分からない。
息子にそのことを指摘されて、「お母さんは《あれ》なんて言わない」と否定するのだが、そう言っているそばから野菜を食べようとしない息子に、「テレビでやってたけど、野球選手が肉を食べるときは野菜を取るとあれなんだってよ」とおっしゃるわけで、事態を一層混迷に導くのである。


カミさんについて最近変わったことと言えば、何を思ったか、心理学とかカウンセリングの勉強をはじめたようであり、河合隼雄の本をよく読んでいる。
しかし、僕は彼女はカウンセリングに向いていないと思うし、むしろカウンセリングから最も遠いところにいる人のように思われてならない。

例えば僕には「本の読める喫茶店」を経営するというこの歳にして実に遠大な夢があるのだが、それを言っても全く耳を貸そうとしない。「早く教員やめて喫茶店やろう」と言うのだが、「フン」と笑って取り合わない。

「カウンセリングの最も大事な基本は【聞く】ことなんだよ。相手の言うことを、うん、うんってじっくり聞くことから始まるんだぜ」と言うと、
「他人だったらいいのよ。あなたはダメ。だってあなた、うん、うんって聞いちゃったら絶対本気にしちゃうじゃない」と言う。

「小遣いが苦しい」と訴えても、全く耳を貸そうとしないし、聞こえない振りをしている時すらある。
聞こうとしない、これはカウンセリングの基本から全く逸脱した行為なのである。

もう一つ言えば、カウンセリングにおいて大切な原則は【否定をしない】ということだろう。相手の言葉を反復しながら基本的に同調していく、そこに生まれる「この人は解ってくれる」「認めてくれる」という「感じ」を大切にしなければならない。それがカミさんにはない。

調子が悪くなって病院に行くと、医者は「大変ですよね。仕事はどんどんまわってくる年齢だし、責任も重くなってくる。僕も疲れたときには安定剤を飲んで休みますよ。お互い頑張りましょう」などと言ってくれる。
ほのぼのとした気分になって家に帰ってくると、カミさんに「あなたは不摂生なの」と言われる。「煙草やめたら?」と決まり文句のように言うのだが、煙草をやめろと言わず、「あなたも大変なのよね。煙草ぐらい吸わないとやりきれないわよね」などと言ってくれたら、「そ、そうなんだよ。でも、心配してくれる君のために煙草はやめよう」と禁煙を決意するかもしれないではないか。

ほめる、認めると心はどんどん溶けていく。遅く帰れば、「パチンコ行ってたんじゃないの?」と言われ、「ここに置いてあった500円玉がなくなっちゃったんだけど、あなた取ったでしょう?」と疑われる。
たとえそれが真実であったとしても言ってはいけないことなのである。

言うなれば【言いたいことをあえて言わない】配慮と忍耐強さが求められるのである。ところがカミさんは黙して見ていることができない。

最近僕は料理に目覚め、土日には台所に立ってご飯を作ることが多い。やり始めるとなかなか面白く、ハマってしまう奥深さがあって、結構楽しんでいるのだが、これを邪魔するのがカミさんで、作っている横に来ては、「そのフライパンはそれで洗っちゃダメ」だの「切り方はこうじゃない」だの「水が多い」だの、やたらとクレームを付けるのである。

鬱陶しいので追いやるのだが、僕に追いやられたカミさんは、よせばいいのに息子の所にチョッカイを出しに行き、邪険に追い払われてまた舞い戻ってくる。
横に来ては「その砂糖の入れ方はおおざっぱすぎるんじゃないの?」とまた始まるので相手にしないでいると、僕の視界に顔を入れてきて、
「ねーねー、わたし、うるさい?」と聞くので、
「ああ、うるさいよ」と言って視界にある顔を手でどけると、再び僕の視界に顔を入れてきて
「ねーねー、鬱陶しい?」と聞くので
「ああ、鬱陶しい」と言うと、
「誰もわたしを相手にしてくれない」と口をとがらせてあっちへ行くのだが、しばらくするとまた戻ってきて、
「このお芋、アク抜きしたの?」とか言ってくる。
「したよ。コンニャクもやった」と言うと、
「そう、エライ。でもこのコンニャクはいいのよ。袋にアク抜き不要って書いてあったでしょ」と人の努力をせせら笑うようなことを言うので、思わず体落としをかけ押さえ込みにはいることになるわけである(注:DVではありません)。


本当に言いたいことは言わない。

これは斉藤環氏がひきこもりについて書いた本の中にあったことばだが、ひきこもりの子に対して親はどんなに「学校に行って欲しい」「仕事をして欲しい」と思っても、それを口に出さない方が良いと言う。

なぜなら、子供は自分がどうしなければいけないかということも親がどんな思いでいるかも知っているからであり、わかっていてもできないでいるからである。
わかっていてできないことを言われるのは非常に苦しいことに違いない。むしろ、本人の中にわだかまっている「わかっていること」をゆっくりと紡ぎ出し、自分でハードルを越えていくためのことばを探していく配慮が真のカウンセリングマインドと言えようか。

僕はこの、「本当に言いたいことは決して言わない」ということばを、何も買ってあげなかったカミさんへの誕生日のプレゼントとして、カミさんに贈ってあげることにしたい。
グーダラ亭主をグーダラでなくす方法は、そのグーダラを限りなく愛してあげることだろう。甘えさせたら余計グーダラになると考えるのは目先にとらわれた凡人の考えでしかない。グーダラを愛せばグーダラはいつか治るだろうと考えるのが、修行を積んだ達人の至る境地なのである。

今後のカミさんの成長に期待をし、カミさんが僕のグーダラを真に理解してくれるまで、もう少しグーダラを決め込んでいようとひそかに考えているこの頃の僕なのである。


■土竜のひとりごと:第140話

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