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草を取るおばあちゃん

車を走らせていると、前の車に時々「いいもの」を発見する時がある。

「これは何?」と思って信号待ちで撮ってみたのが次の写真。幼稚園にでも置くのだろうか?形は郵便ポストに似ているが、ポストのリサイクル?なのだろうか。

次は鎌倉に行く遠足のバスの前を走っていた車。高足ガニの料理に携わっている人の車か?

ちなみに内容をかいつまんでメモすると、「俺が高足ガニを語る時」と題して、俺と高足ガニとの付き合いが描かれている。

親父は村一番の高足ガニ獲り名人。ガキの頃は憧れたが俺は船酔いで諦めた。俺は奴を憎んだ。
おふくろは毎日「奴」をゆで、それが終わるまで飯の支度ができなかったから俺はいつも腹をすかしていた。俺は奴を憎んだ。
でも、それが俺の人生を大きく変えた。奴と戦いながら俺は、料理をするために生まれてきたのかもしれない、神様が与えた運命だと思うようになった。終わりのない戦いだが、「あのカニ旨かったよ」という言葉を支えとして戦い続けている。

沼津ナンバーだった。Wikipediaによれば「巷説では、昭和35年に戸田村(現沼津市戸田地区) の地元旅館主人がタカアシガニ料理を始めたとされている」と書かれていた。
仕事に誇りを感じて生きている人なのだろう。
でも、誇りって何かと言えば、それは難しい気もする。


もう一枚、こんな写真。通勤途中の道でおばあさんが毎日のように草を取っている。

こんな雨の日も。

大きな道路の脇に造られた花壇だが、あまり管理もされていない。おばあちゃんは草を取っているのだが、もちろん、自分の「花壇」ではないし、一人で取っているのだから、町の自治会の活動でもないだろう。ただ一人で、毎日のように。


僕は「偉いなあ」と思い、つい、部活で「効率」を口にした生徒がいたときに練習終わりのミーティングで、このおばあちゃんの話をした。
「おばあちゃんは何故草を取っているんだ?」と。
生徒たちは黙って聞いていた。多分、それは僕の言葉に強要されるものを察知したからだろう。僕も、たぶん、自分のためではなく誰かのために草を取っているおばあちゃんの「非効率」の美しさを強要したかったのだと思う。

おばあちゃんが草を取っている理由は本当のところはわからない。でも、家に帰る車の中で、多分、それは僕が生徒に言いたかったようなことではないのだろうと、考えた。

おばあちゃんはそれを誰かのためにやっているわけでもなく、おばあちゃんのそれはおばあちゃんの生きてきた道筋の、ただその延長にあるだけなのかも知れないという気がした。語弊を恐れずに言えば、おばあちゃんはそういう生き方を身につけてしまったからそうしているのであるような気がしたのである。


仕事でも作業でもなく、プライドでもなく、つい、そうしてしまう曲げられない生き方。もしそうであるならば、僕にはそれこそが「美しく懐かしい」生き方のような気がした。

意味不明な雑感であるかも知れない。



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