第37話:服について
いつだったか2年生のクラスの担任をしていた時、修学旅行で四国へ行ったのだが、出掛ける2週間程前に何人かの女生徒が
「ブラウス(学校指定)をもう一枚欲しい」と言って来た。
「あるもんでいいだろう。わざわざ買わなくたって」と返事をすると
「2枚しかないから足りない」と言う。
着ているのを含めて3枚しかないと言うのである。
「それだけあれば充分じゃないか。身軽な方がいい。たった5日間だから一着は着て行って、他にもう一着あればいいだろう」と言い、
「まさか毎日着替えるつもりか」とつまらぬ念を押すと、
「着替えますよ。毎日」とバカにしないでってな顔で返事をする。
これは思わぬところで機嫌を損ねたと思ったが、
「本当か?そこまでしなくてもいいだろう。お嬢様じゃないんだから」とつい口にしてしまうと、
「えー、汚いじゃないですか。ひどい」と怒り出す。
「じゃ、今も毎日替えてるの」と聞くと
「当然ですよ」と言う。
全く女子高生っていうのは変なことに気を使うと思いながら、それ以上何と返答すれば良いのか答えに窮してしまったので、
「君はそのワイシャツは何日に一遍取り替えるんだ」と偶然近くを通り掛かった男子生徒に唐突に質問すると、
「毎日替えますが」と言う。
「お前はどうだ」ともう一人をつかまえて問うと、
「えっ、先生は毎日替えないの」などと逆に質問して来る。
思わず「オレか。オレはそーだな、一週間くらいは着てるな」と返事すると、さっきの女生徒が
「えっ、キタナーイ」と声をあげて、軽蔑したような一瞥をくれてそそくさと向こうに行ってしまった。この人に幾ら相談しても無駄だと判断したらしい。世の中はなかなかキビシイものである。
女性に「汚い」と言われるとそれなりに男は傷付くものだが、今の高校生はそんなに清潔というものに気を配っているのだろうかと、自分の高校時代と比べて思ってみたりもする。
自慢するわけではないが、僕の高校時代はそんなではなかった。親元にいたからそれなりに着替えはしただろうが、テニスのウエアなどは練習が終わると部室に干しておき何日か着た後でないと家に持って帰らなかった。夏などはよくカビが生えたが別段それを汚いと気にするでもなかった。ウエアを忘れた時は部室の隅に転がっている誰のものとも分からないゴミのような体操着を着たりもしたが、それは極めて普通のことだった。
大体がそんな調子だったからか、就職して教壇に立つようになっても、例えば袖口が汚れれば袖をまくりあげ、襟のほころびは頭髪で隠し、ボタンが取れれば安全ピンでとめて、平然とあるものを着こなしていた。
生徒にはそれをいちいち指摘されたりもしたが、「悔しかったらやってみろ」くらいにしか思っていなかった。たいして服の数も多くはなかったから当然同じものを着る頻度は高くなり、服の疲労も募るわけである。
いわゆる普通のワイシャツは汚れやシワが目立ち易く、この点不向きなのだが、いつだったかコーデュロイのシャツを購入したことがあって、これはなかなかに重宝した。カジュアルなものだからシワが寄ってもそれを非難されることはないし、汚れは目立たない。まるで僕のために世の中に存在しているようなものなのであって、ひと冬半、これを毎日欠かさず愛用したりした。
当時はパジャマも持っていなかったから、これは当然パジャマにも代用されたのであり、従ってこのシャツを肌から離すのは風呂に入る時だけ。朝起きるとジャージのズボンをスラックスにはき替えて学校に行くという日々だった。そうして延々と洗濯もせずに3、4カ月、着続けたわけである。
また“キタナーイ”などという悲鳴が聞こえて来そうな気もするが、のどかなことと思ってみればそれはそれでそう思えないこともない。
汚いと言えば、高校時代にある先生がこんなことを話してくれた。夏合宿の上がりの日に同じ合宿に入っていたある先生と飲みに行くことになり、
「それじゃ、家へ一度帰ってひと風呂浴びて出直すから」と言うと、
「いいよ。このまま行こう」と言う。
「だいぶ汗もかいたし、着替えも持ち合わせがない」と言うと、
「いいよ。そんなの。オレなんか一週間同じパンツだ」と言う。
「おいおい、汚いな」と言うと、
「いいよ。裏返すから大丈夫だ」と言ったのだそうである。
とても付き合い切れん、とその先生は言っていたが、これは僕も確かに汚いと思う。僕は下着だけはとにかく何があろうと毎日替える。嘘ではない。実は僕は非常に奇麗好きな人間なのである。
さて、図らずも汚い話に深入りしてしまったが、女生徒の話を聞いていて僕は自分が服に気を使うということをほとんど知らずに生きて来たことに今更ながらに気付かされたりした。しかも一度肌に付けると、なかなかそれを変更しようとしない。気慣れたものを着ていたいのである。
僕自身はそれを特に困った現象としては感知していないのだが、カミさんは結婚当初、相当にヤキモキしたようである。最近はそうでもなくなったが、「お願いだからワイシャツ着替えて」とか「お願いだからこれ着て」などとよく言われた。
新婚旅行の時は、着替えようとしない僕に何とか自分が買った新しい服を着させようとし、それを僕が拒むと、
「私はお母さんに『あの子はちっとも頓着なくて服も自分では絶対買ったりしないから、あなたが選んで買ってやって下さい』と言われて来たの。旅行の写真をお母さんが見たときに全部同じ服だったら、私が困るでしょ。お願い!」
などと押し売りが泣き落としにかかるようなつまらない説得を始める。
その言葉を僕は適当にあしらってみるのだが、彼女は自分の説得が不成功に終わったと知るや否や、僕を押さえ付けて強引に服を脱がせ始めたりするから全くひどい。僕に何とか「着替え」という概念を植え付けようする魂胆(いや配慮)であるらしいが、残念ながら僕はそういう感覚に全く疎いのである。
カミさんはそれを不精と呼ぶのだがそれは非常に大きな誤解であって、僕は不精ではない。強いて言えば服に関するそういう習慣を身につけて来なかっただけなのである。田舎者だったからか、服に種類やセンスを求められる場も時もなかったからか、僕はほとんど私服(普段着)というものを持ったことはなかった。
小学生のころは学校に着て行くものが遊びの服だったし、家での生活の服だった。中学生になると制服なるものが登場し、学校にはそれを着て行くことになっていたから、学校から帰るとすぐパジャマになってしまい、私服が登場する幕がなくなっていた。高校時代も基本的には変わらず、6年間のほとんどは制服とパジャマに身を包んでいたことになる。日曜日も部活で遊ぶ暇はなかったから外出のための服は持ち合わせていなかった。
就職してからも状況は一緒で、家にいるときはほとんどがパジャマかジャージであって、カミさんは一生懸命買ってくれるのだが、いわゆる私服にはめったに袖を通さない。それを着る余暇もないとも言えるが、人生をかけてそんな人間に作られてしまったのである。
今でも僕はスーツというものを所持していない。社会人と言えないのかもしれない。
世間では一時期、TPOの有無ということがよく言われたが、こんな事情で「あなたには服に関するTPOが甚だ欠落している」というのがカミさんの僕に対する見立てであるが、僕はそうかもしれないと思いつつ、また別の意味でこのTPOというやつを理解していないやつもたくさんいるではないかと思ったりもする。
かつて、高校生が激しく制服の改造を試みる時代があったが、それはその典型だっただろう。
いわゆる長ランにはそれなりの魅力も感じたが、短ランにボンタンには何か許せぬ軽薄さを感じたりもした。ブレザーのズボンをボンタンにしていたりする高校生もいて、ちょっとダサイし、よく見るとかなりダサイ。ダサイことはしない方が良いと思うのだが、それを言うと「先生にはわからん」などと、なかなかの口をきいてくれた。
そこで僕はTPOを知らないこととTPOを敢えて無視しようとすることのどちらにより非があるのか考えてみたりもしたのだが、カミさんはそういう僕をつかまえて「TPOって何だかわかる?」と無礼にも笑い飛ばしてくれる。他人を責める資格はないとでも言いたいのだろう。
当たっているだけに痛い指摘ではあるが、一日働いて疲れて帰った亭主をモノグサ呼ばわりしない気遣いも、妻としての大切なTPOではないかと、僕は胸の奥ひそかに思うわけなのである。
そういう自分を棚上げして言うのだから気にしないでいただきたいが、TPOの根幹にあるのは「調和の精神」である。「他者の尊重」と言っても良いかもしれない。時と場をわきまえなければ、それは明らかに不快の対象となる。
葬式でヘラヘラ笑いなどすれば白い眼で見られるだろうし、放課後の教室で膝枕なんぞしてベタベタしている男女生徒がいたりして思わず石でもぶつけてやりたくなったりもする。
「どっか行っちまえ!」と思うわけで、「場」というものは、それ自体が、ある意味を持ち、その意味が「ある制約」を人間に要求しているのである。それを身につけることが大切なのは疑いもない。
ただ、いかにも中途半端な蛇足のようになるが、最近感じるのは、高校生がみんなTPOを弁えている「寂しさ」とでも言ったら理解してもらえるだろうか。清潔であり、素直であり、「場の空気」に敏感である。そういう時代を迎えてみると、何だかTPOという奴に反逆を試みたバンカラな高校生が懐かしかったりもしてくるから不思議だ。
「もっと、はみ出せ!」
などと、つい言いたくなってしまう。
老人の「無い物ねだり」でしかないが。
(土竜のひとりごと:第37話)
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