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ワリエアとウクライナ

動揺し、既に泣きそうなワリエワを出迎えたトゥトベリゼ氏の第一声は、AFP通信によると「なぜ諦めたの? なぜ戦いをやめたの? 説明しなさい」だったという。得点発表の場で泣き崩れた瞬間こそワリエワの肩に手を回したが、ねぎらいの言葉がなかったことに、まるで選手を使い捨ての駒のように扱った言動に、そして違反について全てを知らないはずがない同コーチに批判が集まった。
国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長はこの日、今大会初の会見で騒動に言及。テレビ観戦して感じた思いとして「彼女を拒絶しているよう見えた。本当に不思議だ。自分たちの選手に、こんなにも冷たい態度を取れるのか」と苦言を呈した。

これはYahooニュースの中にあった日刊スポーツの記事の引用。混迷を極めたワリエワ選手の問題だが、コーチの言葉も問題に違いない。別の報道によると、銀メダルを取ったトゥルソワ選手が、このコーチの祝福のハグを身をよじるようにしてこれを拒否し「いらない、あなたは全部分かっていた」と言ったという。
その発言は後に本人によって「優勝できなかったので色々言ってしまった」と説明されている。ワリエア本人も「コーチを愛している」と後日語ったと報道されている。

真偽は分からない。だから憶測でしかないにしろ、コーチを初めとする大人の思惑が、15歳、17歳の選手の気持ちを翻弄している事実だけは間違いないだろう。
その背後には国家としての威信を得るためにオリンピックを政治利用し、報奨金や圧力によって「勝つ」ことを最優先させた結果だと言えるのだろう。選手は「道具」でしかない。日本で言えば、まだ中、高校生でしかない。

これらのことは、でも、僕らも自分の問題として考えなければいけないのだと思う。例えば、僕も一応指導者だが、スポーツを指導していると「勝つ」ということが最優先になりがちになる。勝負ということが明確なスポーツの世界では、勝敗が「結果」として判断されやすい。それは生徒を一つの目標に向かって技術や心の在り方を身につけさせるのに格好の条件となる。

選手が勝ちたいと思っている、と指導者はよく言い、僕もそう思っていた。しかし、ある時、僕は「勝ちたいのは自分ではないか」と思ってみた。すると、確かにそうだったことに気き、そう思ってみた時に愕然とそれまでの指導の在り方を考えたさせられた。生徒を「道具」に使っていたのかもしれないという痛烈な反省である。でも、そこから解放されてみると、純粋なコミュニケーションや親密な関係が生まれ、お互いに何故テニスをするのかという意味が見えて来た気がした。

考えてみると受験結果もそうであるかもしれない。有名大学に何人合格させるかのような発想は、それが生徒の希望であるものの、生徒を「道具」として見ている発想と同じなのしれない、と。競争による発展や数値目標のクリアという「掟」は、そういう発想を導きやすい。それは今の社会が求める効率や成果主義の弊害であるだろう。

ただ、僕は勝手に思うのだが、コーチの言葉として、その背景にあるドーピングとか、己の保身とか言ったものを捨象すれば、あの「なぜ、途中で放棄したのか」という言葉はスポーツをする人間としては納得できる。どんな場合にも「放棄」することはスポーツ選手として許されない。それが指導者の立場である。

むしろ、僕はバッハ会長の言葉に疑問を感じる。「自分たちの選手に、こんなにも冷たい態度を取れるのか」と言う言い方は、第三者的な論評に過ぎない。出場を認めたのはIOCなのに、その責任が見えない。むしろ、そのコーチに批判を向けさせることで、自分たちへの批判を回避しようとする「政治的」意図があるようにさえ感じてしまう。

言葉は「つながり」の上にあって初めて正しく理解されるものだと前話で書いたが、コーチも、バッハ会長も「つながり」を欠いている。政治や商業主義からスポーツが屹立できるのか、あるいは威信とか成果に囚われる考え方から抜け出すことができるのか、このドタバタ劇は、その難しさを語っている。

蛇足のようになるが、ロシアがウクライナへの侵攻した。ロシアやプーチンが人間を「道具」として扱い、自分に火の粉が降りかからないことを第一優先にするIOCのごとき国際社会がある。そんな同一の構図、構造がここに見えてしまうと言ったら酷な言い方になるだろうか。

世界大戦、核戦争への拡大を危惧しなければならない。ウクライナへの軍事的経済支援、ロシアに対する経済制裁も行われている。ただ戦火の中、命を脅かされている人たちがいる。直近を振り返っても、香港の時もミャンマーの時も、結局手をこまねいて、苦しむ人々に寄り添うことが出来ていない。踏みにじろうとする力に対して僕らの生きている社会はそんなに無力なのか、そう本当に素朴に思う。

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