見出し画像

第166話:仰げば尊し

仰げば尊しという歌があって、昔は卒業式では必ず歌われた曲であった。最近では歌われないことも多くなってきているようで、年々、この歌を知らない生徒が増えてきている。

確かに「仰げば尊し、我が師の恩」と言われるような師弟関係が現代では希薄になっていて、空疎な響きに感じられるのかもしれない。
ちなみに今、ワープロで「我が師」を変換したら「和菓子」となってしまった。「おなか減ったから、先生、何かお菓子ちょうだい」と女生徒に言われる昨今、「師」という重々しい尊敬を振りかざすのも「おかしい」という理由でこの歌は歌われなくなっているのかもしれない。

しかし、この歌はなかなかいい歌である。
ちなみに1番の歌詞をここで復唱してみよう。

仰げば尊し 我が師の恩 教えの庭にもはや幾年 思へば いととし 
この年月 いまこそ別れめ いざさらば

懐かしく卒業式を思い出した人もおられるのではないかと思うが、そのノスタルジックな感慨をちょっと横に置いて、この歌詞の意味を正確に理解しているか?と考えてみていただきたい。

高校生諸氏ではかなりの人が、「いととし」「今こそ別れめ」のあたりがあやしい。

いととし」の「とし」は形容詞「疾し」。
「疾風」ということばがあるように「はやい」という意味。「思い返すととても早くすぎてしまった年月であることです」くらいの意味になろう。

また、「今こそ別れめ」は意味を強めるために「こそ」が挿入され、文末が已然形で結ばれている。いわゆる「係り結びの法則」が使われているわけである。
「め」は意志を表す「む」という助動詞の已然形なのであって、仮に「係り結び」の強張を除いてしまえば、「いま別れむ」、すなわち「さあ、お別れしましょう」という意味だということが明瞭になる。

何だか古典の授業みたいになってしまって申し訳ない次第だが、実は、唱歌や古い歌は古典文法を教えるのに格好の教材なのである。

例えば、唱歌「ふるさと」の「うさぎおいし」を「うさぎを食べちゃうなんてかわいそう」と言い放った女子大生の例は有名だが、これは「うさぎ追ひし」であって、過去の「き」という助動詞を理解していれば分かることである。

同じ「おふ」でも「あかとんぼ」の「おはれて見たのは」は「負ふ」で「背中に負われて見た」ということである。

女子大生を笑う方は同じ「ふるさと」の2番、「いかにいます父母 つつがなしや友がき」の意味はどうだろうか。「父は母どのようにしていらっしゃるのだろうか。友も無事に暮らしているだろうか」という、離れている故郷に対する思いを歌っているが、「いかにいます」「つつがなしや」あたりは、今の高校生諸氏にはあやしいところである。「恙虫」など知る由もない。


また例えば「夏は来ぬ」という歌がある。

卯の花のにほふ垣根に ほととぎす はやも来鳴きて 忍び音もらす 
夏は来ぬ

これを中学生くらいだと「夏はこぬ」と読んで、「夏は来ていない」という意味に解釈してしまう。
「卯の花」の実感もなく、「ほととぎす」が夏の季語であることも知らないし、古典では、四月(卯月)が夏であることもおぼつかないわけだからやむを得ないが、「ぬ」が完了の助動詞であり、連用形に接続すると知っていれば、「夏は来ぬ」は「夏はきぬ」と読まれ、「夏が来た」と分かる。

古語に自然と触れられるという意味では、古語で書かれた歌を知っていることは日本人の感性として大きな武器である。
「仰げば尊し」が歌われなりつつあるように、この習慣がなくなっていくことは、したがって、至極、寂しいことのようにも思う。

歌だけではない。もはや明治期の作家の文章は古典化していると言われ、鷗外や漱石が現代語訳される時代となっている。確かに鷗外の『舞姫』の冒頭「石炭をばはやつみ果てつ」は高校生にとって既に古文でしかない。

しかし、ニーチェの『ツァストストラはかく語りき』が『ツァストストラはこう言った』という書名で売られているのを見るときの寂寞たる違和感はなかなかに大きなものである。

現代に生きる古語を、できるだけそのまま受け入れることが、僕らの文化を自然なかたちで継承していく豊かさにつながる。

諸人《もろびと》こぞりてつかえまつれ

讃美歌にはこれでもかというくらい古語がちりばめられている。
何年か前に甥の結婚式に出た際、讃美歌の「いつくしみ深き」に出会った。

いつくしみ深き友なるイエスは、罪、咎、憂いを取り去りたもう。
こころの嘆きをつつまず述べて、などかは下ろさぬ負える重荷を。
「心の嘆きを遠慮なく(隠さず)述べて、どうして背負っている重荷を下さないのですか、下ろしましょうよ」

「とが」「憂い」「つつむ」も大事な古語だが、「などかは」と聴いた時、「おお、反語じゃん!これは授業で使える」と感心してしまった。

そうすると、我々日本人が古語や古典を失おうとしている中、キリスト教を信ずる人が一番日本古典に近いという微妙な逆説が生じているとも言えそうである。

百人一首がいい例であるが、僕らが子どものころは何だか意味もわからないのによくいろいろなものを暗記させられたのであって、そういう古典的な詰め込み教育もあながち悪いものではないと思う次第なのである。

いかに無意識に、総量として文化を自分の内に持ちえているかは、「理解」以前の感覚として、僕らが肌に内包している種類のものなのである。

蛇足だが、「雪」という唱歌があって、「雪やこんこ 霰やこんこ」という歌詞であるが、これも、雪が降る様子を表現したオノマトペ(擬態語)のようにも思われるが、そうではないらしい。
諸説あるようだが、大野晋氏は『日本語をさかのぼる』の中で、「雪や来む来む」だとして、「雪よ、もっと降れ」の意だと説明している。

正しいことは分からないが、それゆえ、ことばは「こんとん」として奥深いものであると、恐らくそれがダジャレだと気づかれないだろうオヤジギャグをかましてペンをおくことにしたい。


■土竜のひとりごと:第166話

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?