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第7話:生と死について考えてみたこと

■我が家の猫

猫が陽の当たる居間で昼寝をしている。わが家の猫はサビ猫という種類で決して美しくはない。家の中で見るとそうでもないが、外で見るとコンクリート色の薄汚い貧相な猫に見える。
そう言うとカミさんは「かわいそうに」と猫をかばうのだが、そのカミさんの愛情によって結構いいキャットフードを食べているせいか、毛並みはいい。ふかふかつやつやしている。
それを撫でていると、「猫は毛物(ケモノ)なんだなあ」と思う。貧相な猫であってもぬくぬくと可愛い。 

サビ猫というのは性格がきつく、人にベタベタ甘えない。布団にも入ってこないし、膝に乗ってくることも稀である。まったり感はない代わりに運動神経はよく、家の周りの田んぼや畑を走り回っている。カラスとも戦う。
水も家の中ではほとんど飲まず横の小川で飲む。ネズミを確保したり、鳥を捕まえて来たり。
それが習性なのか、半分くらいになった死骸を「見て」と言わんばかりに窓の下に置いてある。一度ネズミを食べている姿を見たことがあるが、そういう時には「ああ猫は獣(ケモノ)なんだなあ」と思う。 

そんなことを言うと「まあ」と眉をひそめる方もおられようが、ペットとして「いい子、いい子」されている猫のそれが本来の野生の姿なのかもしれない。

人間社会に迎え入れられた時も、漁村や農村ではネズミ退治のために猫を飼っていたのだから、野生の利用であったことになる。自然の中に本能によって生きていたものを人間社会の中に迎え入れた途端に猫がペットフードで飽食して肥満気味の「のたーっ」としたペットになったわけではない。

だからネズミを食べている猫を見ておぞましさを感じるのは僕らの勝手な思いにすぎないのだろう。

例えば、焼肉屋でタン塩をレモン汁で食べようとしている時に、
「タンっておいしいけど、考えてみれば牛の舌なんだよな」と言うと、
そういうのやめてくれない」と女性に言われる。
でも、やっぱり牛の舌を食べていることに変わりはない。
変わっているのは、牛から舌を切り離して食べるか、焼肉屋できれいな皿の上に乗ったものを炭火で焼いておいしいと言っているかの違いだろう。

こんなことを言う人もいる。

食べものとは何か。この問いに答えることは、じつに難しい。
(中略)たとえば、ハンバーグ。切り分けるととろっと肉汁が出てくる。しかし、これは、屠殺した牛や豚の死肉を細かく刻んだ肉片に、バラバラに切り分けたタマネギの葉っぱの肥大した根元、鶏が産んだ無精卵の中身、そして、小麦の実の死骸を焼いて乾燥したのものを加え、捏ねて、熱で変質させたものである。(中略)
要するに、食べものとは、叩いたり刻んだり炙ったりした生きものの死骸の塊なのである。

藤原辰史『食べること考えること』

ただ、命ということを考えてみるとき、どうしても「そういうのやめてくれない」ということに触れなければいけないような気もする。

・・そんなことについてしばらく書いてみたい。


■ゴキブリに寄せて

こんなことがあった。家に帰って水を飲もうと台所の電気を付けると、流しのふちにゴキブリがいたので、持っていた新聞紙でバンとやっつけた。しかし割合とダメージが小さかったようで流しの中に落ちて、そのステンレスの壁を必死になってよじ登ろうとしている。

そこですかさず排水口の水きりを外して、ゴキブリに水をかけた。

すると、するするーっと排水口に向かって流されて行ったが、ぎりぎりのところで水流衰えゴキブリは態勢を整えて、またステンレスの壁めがけて突進して行く。自分が殺されようとしていることを本能的に悟っているのだろうか、必死の抵抗ぶりである。

もう一度同じことを繰り返すと、今度は、ゴキブリの黒い背中をすべってゆく水やら、もがいているその足や触覚の動きやらが、やけに生々しいものとして目に入って来て、その様子が異様なほど無気味に感じられはじめた。同時に自分が「殺す」という行為をしているということが実感として胸に湧き起こって来たりもした。

何とも嫌な気持ちになり、排水口のふちに踏ん張っているゴキブリに鍋に汲んだ水を一気に浴びせ掛けると、ゴキブリは意外にあっけなくすっと排水口の中に落ちて行ってしまった。

普段はゴキブリの死骸がその辺りに転がっていても割合に平気で過ごしてしまうのに、何か後味の悪いものがつきまとうのは妙なことであると思う。

■オジイチャン

一寸の虫にも五分の魂と言うが、どんな小さな虫でも殺せる人と殺せない人がいるもので、僕はどちらかと言えば後者に属するが、オジイチャンは前者に属していた。

ゴキブリでも這っていようものなら、ヒョとつかまえてピッとひねってポイと捨ててしまう。ヒョ、ピッ、ポイの三拍子で、いかにも無造作に一つの命を消してしまうのである。

思い返してみると、オジイチャンはいろいろなものをいかにも平気で殺していた。ひと昔前の人はそれが普通であるのだろうが、カスミ網を仕掛けて雀をつかまえて来ては羽根をむしって串刺しにし、また食用蛙をつかまえて来ては皮を剥いで串に通した。それを、風呂を焚きながらあぶって食べるのである。

その場で食べてしまうならよいのだが、オジイチャンはそれをビンに入れて戸棚に入れておき、夕食になるとおもむろに、かつおいしそうに嘗め始めたので、オジイチャンの隣の席だった僕はたまらなかった。時々「食べるか」などと聞かれて、ぞっとしたことをよく覚えている。

そういう印象が強かったせいかオジイチャンの手になる料理というのは食べる気になれなかった。

家の前の小川にウナギがたくさん流れて来たことがあったが、僕らが遊び気分でそのウナギを捕って帰るとオジイチャンは早速まないたを持ち出して来て、ウナギな頭にキリを立て、すすっすーと切り開いて鮮やかな手捌きでカバ焼きを作ってくれるのだが、どうも食べようという気が起こらない。

目の前で生きていたものが殺されてゆく、その必死でもがいている様子をつぶさに見てしまうと、僕のような小心者は食欲を喪失してしまうのである。

中でも一番嫌だったのがニワトリの首をひねるときであった。実家では庭に小屋を立てそこで数羽のニワトリを飼っていたのだが、それが卵を産まなくなると殺して食べたのである。

「ひねる」といっても、オジイチャンのやり方は、首をつかまえて台の上に乗せ、いきなりナタで首を切り落とすのである。これも一回でスパッと切れてくれれば良いのだが、二回、時には三回振りおろさないとダメなこともある。

ニワトリは首をつかまれたときから声を振り絞ってもがいているのだが、一回目のナタが振りおろされた瞬間にはコケッココケッコと耳をつんざくような声で鳴き、首が切り落とされた状態で、あるいは首を胴にぶらさげた状態のまま、物凄い力でオジイチャンの手を逃れ、竹やぶの中を、その胴体が、暫くの間駆け回ったのである。

その生命力の凄さに驚いたのは勿論だが、言いようもなく後味の悪い思いに駆られ、悲しい気持ちになったこともまた事実である。今でも鶏肉を食べるとそうした光景が目に浮かんで来たりするのだが、それもまた僕が小心であるせいであろうか。

■子供時分

随分と田舎のことであり、それが当然のことであったが、どことなく僕はなじみきれなかった。

例えば家ではメシのオカズにどんな虫が入っていようが割りと平気で食べさせられ、夏などは砂糖に蟻が群れていてもそのまま料理された。

オカズを見ると黒く細かいものが点々と付いている。何かと思ってよく見ると触覚やら足やらが目に入って来る。そうでなくとも灯りの下には虫がよく集まり、食べようとするそばから虫が茶碗の中に飛び込んで来る。

そういうものを僕は箸で取り除いて食べるのだが、その様子を見ていたオバアチャンなどは「この子は神経質だ。この先大丈夫だろうか」と真剣に心配してくれていたのである。

言いようによっては僕が一番「文明」に近かったと言うことも可能であると僕自身は思ったりするのだが、また逆に一つの逞しさに欠けていたのかもしれないと思ったりもする。どんなものであろうか。


幼馴染みの子どもたちも、小さな生き物の命に対して無頓着だった。

蝶をつかまえてその胴を糸で縛り池の蛙のエサにしたり、カエルを破裂させてみたり、また蟻の巣に水を入れたり、蜂の巣を朝まだうまく飛べないころを見計らって巣を焼きに行ったり・・。

小心な僕は馴染めないものを感じながら、それでも一緒にいたが、皆でワイワイとやっている時はまだしも、遊びが果てて残された死骸を見るときは決まって嫌な思いにとらわれた。

腹の裂けた蛙、ロウに固め込まれた蟻、尾の肉を取られ踏み潰されたアメリカザリガニ、その黄色い体液やまだ動いているヒゲ。

あの時々、僕の幼馴染み達はそうした光景をどのような気持ちで見ていたのだろうか。夢中になっていて目にとめなかったのだろうか。そんなことを最近、ふと思ったりする。無邪気なギャングエイジでの事ではあるが。

命を弄んではならない。今ならそう子どもたちは教えられ、そうした行為は厳しく禁じられるに違いない。

ただそうしたことに「悪意」はなかった。極めて自然にそれをしていたに過ぎない。言いようによってはそれだけ生命に囲まれていたということが出来ようし、生命の死ということにも馴れていたと言えるのかもしれない。

そう考えてみると、死は確かに僕らの周囲にゴロゴロとあった。

雨が降った翌日には田んぼの中を突っ切る舗装道路は足の踏み場に困るほど蛙が引き潰されていたし、土塀の倉に入って荷物を動かすとネズミやら虫やらの死骸と出くわしたし、便所では人の掌ほどの大きさのクモが足を揃えて死んでいたり。

そうしたことが自然であり、日常であった。

勿論、死の意味など考えることも、生命の大切さに思いを馳せるなどということもなかったが、生命は確かに身近に溢れ、死もまたそれだけ溢れていたのであり、死は、ある感情を伴って生命を見る目と結び付いていたのかもしれない。

最近、バッタやカマキリ、カブトムシにさえ触れない子供が増えた。デパートでカブト虫が売られ、ある少年はそのカブト虫が死んだのを見て「ゼンマイが切れた」と言ったとか、またある少年は部品のようにその身体をちぎって組み立てようとした、などという事件が起こっているとも聞く。

何が正しいのかよくわからないが、「死」を知らずに生命とかかわることは、またひどく恐ろしいことであると思われたりもする。

ある時、教育学部に進学したある教え子が、学生ボランティアとして子どもたちと関わりの中でブタの解剖を企画したが、保護者から反対された。

・・難しい問題かもしれない。

ただ、もう一方で、僕らは命をいただかなければ生きてはいけないのであり、人間に食べられるためにだけ、生まれ、育てられる命もある。

その命とは何だろう。

その命は、それが命であることを感じさせないように、切り取られ、ラッピングされ、オブラートに包まれた栄養剤のようにして僕らの前に並べられてスーパーに陳列される。そうした「命との断絶」も考えなければならない問題なのかもしれない。

■猫と蚕

生き物でも自分と深いつながりのあったものの死は強く胸のうちに残るもので僕にも猫と蚕にそういう思い出がある。

蚕は小学校低学年の頃、10匹ほどを小さな箱に入れて飼い、毎日学校帰りに桑の葉を採って来てはそれに食べさせていた。

白い小さな体をくねらせながら桑の葉を食べている様子はかわいらしかったし、少しずつ成長して行く様子を楽しみにしていた。

とうとうカイコがマユを作り出したのだが、ある日学校から帰ってみるとそのマユは細い竹にくくり付けられ、あたかもそこに白い花が咲いているかのように玄関先に飾られていた。マユを覗き込んでも動いている様子は感じられない。

そこでオフクロに聞いてみると、蒸して殺したと言う。「せっかく育てたんだから蛾にしてしまっては惜しい。マユを食い破らないうちに飾りにした方がいい」というのがその理由だった。

昔、家では養蚕もやっていて、オフクロにしてみればそれが当然であったようである。僕は、しかし悲しかった。無性に腹が立ち、ひょっとすると生き返るかもしれないなどという愚かな希望を抱いてしばらくマユの前に座っていた。

「死」とか「喪失」とかいう仕方のない状況を仕方のないこととして認められるようになるには、それ相応の時間と悲しみが必要だった。こんなささいな虫の死に対してもである。

一方、猫は随分長い間飼っていたので印象深いことも多い。

小学生の頃、家ではミケとブチを飼っていた。ミケは若く奇麗だったが、ブチはもう年できれいとは言い難く、あまり好かれてはいなかった。

それでブチを捨てようという相談が大人たちの間でまとまったらしく、そういう場合に必ず登場するオジイチャンが自転車に乗せてどこか遠くに捨てに行った。

兄弟三人はかわいそうだと言ったのだが、それは構わず実行された。

ところがその翌日、朝起きてコタツに足を突っ込んでみると足に触れる猫が一匹ではない。おかしいと思って覗き込んでみるとブチが帰って来ていた。猫は家に住み、家を覚えると言われるが、なるほどと皆で驚いた。

そこでオジイチャンは今度は更に遠くに捨てに行った。

ところが翌朝またブチはコタツの中にいた。僕は驚きを通り越して感動すら覚えたのであるが、オジイチャンはまたブチを自転車に乗っけて出発して行った。

二度あることは三度あるとも言うが、三度目の正直ということばもある。今度はブチは帰って来なかった。

また、残酷な話であるが、猫にに子供が生まれるとそれを紙袋に入れて近くを流れている川に流しに行った。それもオジイチャンの役割で、ニャーニャーという声のする紙袋を橋の上から落とすと、10数メートル程下にある水面に袋が吸い込まれて行き、最後にボチャンという音を立てる。袋は浮き上がって川の流れに乗り、見る間に小さくなってゆく・・のである。

親猫は、2、3日はニャーニャーと鳴いて子を探し、人が寄っても抱かれようとはしなかった。飼い猫に避妊させるなどという考えもなかった昔のことで、今で言えば、動物虐待と言われる行為かもしれないが、昔はそんなことが日常的に行われていた。・・それは「悪」であったのだろうか。

一度親が許してくれ一匹だけ子猫を飼ったことがあったのだが、その子猫は僕が椅子から立とうとして猫がそこにいることに気付かないまま踏んでしまい、死なせてしまった。

子猫は血を吐いた後、少し元気になって歩いたりもしたのだが、翌朝、死んでいた。その死んだ子猫の首筋をくわえて、親猫は一日中死骸をあっちに運びこっちに運びしていたが、それもまた言いようもなく悲しげな所作であった。

猫についてはこんな思い出もある。猫は押し入れに入ってお産をしていたのだが、普段は使わない布団を引き出してみると、そこには小さな猫の足とか頭とかがバラバラになって散乱しているのに出くわした。血の跡ではないかと思うが布団に大きくシミのついていることもあった。

親猫が(死んだ?)子どもを食べてしまったのだろうか、今でもよくは分からないが、そういう光景を目にして思わずギョッとしたことは今でもよく覚えている。動物というものの不思議さ、怖さを、哀しく、無残なものとして思ったりしたのだった。

生き物を飼うということは、そうした様々な思いに触れることでもある。それは「なまの命」と向き合うことなのだ、と思う。身近に存在する「死」が、少しずつ人の内部に「生」を形作って行く。

以前に勤めていた学校で、正門の脇に猫が車に跳ね飛ばされて死んでいたことがあった。

放課後、その死骸はある先生と数名の生徒の手で浜辺に埋められることになるが、ある休み時間、一人の生徒が雨の降る中、そこにかがみこんで自分は半分濡れながら、猫の死骸に傘をさしかけていた。

僕にとってそれは非常に印象深い光景だったが、その生徒にとってもその小さな生命の死は心や体に強く刻み込まれたに違いない。

それが何かはよくわからない。死の意味だろうか、おのれの小ささ、脆さだろうか、あるいは優しさだろうか。曖昧で捉え所のない生というものに対して、死が紛れもない一つの具体であるゆえに、死は衝撃であり、そこに生における何かへの糸口があるようにも思われた。

たぶん、死とはそういう何かなのである。


■祖父母の死

そういう意味で人間の死は、また特別に複雑な思いに僕らをさせる。

身近には祖父母の死があった。祖母は70代の後半、祖父は90代の前半だった。訃報は二人とも学校にいる時に受け取ったが、祖母の時は呼び返されて帰る雨の道を兄貴と相前後しながら黙って歩いていたのを覚えている。

祖母は風邪がもとで体力を失い、祖父はほとんど老衰だった。死に際は二人とも静かな眠るようなものであったらしい。

僕ら兄弟三人のことを臨終まで気遣っていたということも二人に共通していた。祖母は僕らの名前を代わる代わる呼びながら「○○は学校に行ったか」と言っていたと言う。「三人が仲良くこの土地で暮らせるように」というのが祖父の遺言であったと聞く。

墓に参るということの実感をそれなりに持つことが出来るようになったのは、祖父母が亡くなってからであった。

共に老いの静かな死で、そうした死は風習上喜ばれるべきものとして賑やかに行われたが、その不在感は小さいものではなかった。死を僕らに何かを伝えることが自分の役目であったかのように。

そんな祖父母の死を通して死というものに初めて触れたころ、死別の悲しさとは別に僕が死に触れて思ったのは「死体の不思議さ」であった。

そこに横たわっている人間の昨日まで確かに動いていた身体が今はもう動かず、口もきかず、呼び掛けられても呼び掛けられたことすら分からない、揺り動かせば今にも目を開けそうなその顔がもう表情を表すこともない、そんな思いである。

死というもの自体が何であるのかはなかなか説明が出来ないものだが、死体というものはひどく具体的である。奇異であり、不可思議でもある。

死は停止であって、そこに横たわっているのは一つの物体以外の何物でもない。捉えどころのない空しい感覚であった。

そして死体はやがて焼かれる。焼き場の釜の蓋が閉まる瞬間には、いよいよという一種異様な感じとらわれ、焼かれて出て来た骨を拾うときにはまた更に異様な思いにとらわれる。

祖母のときにはそれは殆ど灰のようになっており、家族が小さな骨をある程度拾うと係員がサッと掃いてそれをかき集め骨壷に納めた。

祖父のときには太い骨が確かに人間の骨格を示しながらそこに残っており、係員は骨壷に納まりきれない分の骨を棒のようなものを突っ込んで砕いていた。ギリギリという音がしていた。

妙に生々しいものとしてそうしたことが僕の記憶に残っているのである。悲しい思いにもとらわれたが、自分もやがては感情も思考もない一つの「もの」となり焼かれて行く日が来るという思いも強く湧いた。

死とは何だろうか。またやがて来る死の前にある数十年の生とは一体何であるのだろうか。僕らは何をしなければならないのだろうか。所詮は死んで行くものとして僕らは生きているのである。

そういう前提に立って、僕は、例えば「愛」だとか「青春」だとかいう風化し、死語になりつつあることばをもう一度捉え直してみなければならないのだと思う。

真実は幾つもあると言われているが、そんなに数多く存在しはしないのだと思う。話を続けたい。


■友人の死

同世代の友人の死の衝撃は大きい。何人かの友人が病気で、あるいは事故で死んでしまったが、最初に出会った友人の死は高校時代のことであった。

部活の仲間だったが、風呂の中で持病の発作を起こしたということだった。通夜で見た友人のその表情には、湯の中で倒れ苦しんだ様子がつぶさに表れていた。

翌日の葬儀のときにはその相はやわらいでいたが、僕はそのとき悲しみという感情が湧いてこなかった。涙を流して悲しんでいる彼の両親や兄弟に何か申し訳のない気持ちを感じながらも、まるで別のことを感じていた。

死相の険しさにあった死への恐ろしさだったのか、あるいは自分がすべきことも分からずにただそこに座っていることの所在無さだったのか、少なくとも悲しむことが出来ない自分への疑問がそのときは深く胸に起こっていた。泣き、悲しむことが出来る人が羨ましくも思われた。

大学時代のテニスの仲間も、卒業して2、3年経ったころ、ある冬に立て続けに二人の友人が自殺してしまった。

一人は自分の部屋で首をくくった。
葬儀のときにそのお母さんは泣いて取り乱しながらも遺書を僕に見せてくれ、「こんなにしっかりした字で書いてあるんですよ。やっぱり男の子なんですね」と息子を誉めながら大粒の涙をボロボロとこぼしていた。
遺書には「この世は地獄だ」と書かれていた。

いま一人は自殺とは必ずしも言い切れないが、自暴自棄の果てに真冬の野原の中に倒れて死んでいるのを通り掛かった人に見付けられた。死んで二日が経過していたと聞く。
陽気な気のいい奴だったが、最後は「太陽が二つある」などと妙なことを口走っていたと別の友人が話してくれた。まるで小説にでもありそうな死だったが、そんな死に方をして欲しくはなかった。

殴り書きのような歌だが、当時、こんな歌を作った。

・首筋を白き晒におほわれて生き終へたるといふは寂しき
・やや開きてもはや開かぬくちびるが死して意志するごとく乾けり
・同棲のをみなもあるといふ友の二十七なる若き晩年
・魂の激しき渇き 同棲も酒も自虐も文学も死も
・厳冬の野の月影にさらされて君の骸の青くうち臥す
・若く硬き夢転がりて転がりていつか転がり終へし坂道
・ざらつける命の渇き 生きるとは満たされぬしかも過剰な何か
・腐りたる蜜柑をひとつ手にとりて握りつぶせしわがこころかも
・ゆるされてあるべきものかさんさんと陽の降る春にわれ生きてゐる

自らの命を断つということにどれだけの深い悩みがあり、どれだけの勇気が必要なのか、僕は知る由もないが、自らの命を断つということは自らの判断を停止し、「もの」になることを選択したことでもある。自分が自分であることすら分からなくなってしまおうとすることに、どういう価値があるのだろうか。
自殺した友人に対する非難ではなく、死の問題として二人が何をどのように考えたのか、僕は知ってみたい気がする。

■おわりに

ほとんど脈絡のないまま僕の経験の中にある死について書き綴って来たが、あるいは不快な思いにとらわれた方もいらっしゃるかもしれない。しかし自分の経験の中にある死について少し整理してみたかった。

死は僕らに生の偶然性を教える。
と同時に、その短い生の輝きも教える。

今はもっと多くの死に触れて来た。親、親友、同年配の友人、教え子まで。少し死に馴れて来たのかもしれない。もう老齢と言われる時期に入って、死はそうでなくとも意識されるが、まだ先のことだという意識も一方ではある。残された時間の中で、何かをしたい。そう思いつつ、何をすればいいのか、まだ見えない自分もいる。

毛物であり、獣である猫を撫でながら、お前も俺もそう遠くない将来に命は尽きるだろうと思いつつ、お前も俺も、でも今、確かに生きているぜと思ってみたりする。

人間は死を抱きつつ生を生きる宿命を感じて生きる存在である。だからこそ生は輝くものであると思いたい。

■追記

長らく重苦しい駄文にお付き合い下さり、ありがとうございました。これで終わりにします。
親友と教え子の死についての記事を付して置かせてください。



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