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第144話:ウルトラマンとソープじいさん

3分間という時間は短いようで長く、また長いようでいて短い。

真剣になればかなりのことが出来そうな気もするが、改めて何かしようとするのにはまた、あまりに短い中途半端な時間でしかない。

「地球が滅亡するまであと3分だとしたらあなたは何をして過ごすか」
小学校の卒業文集なんかにはよくそんな問が全員の答とともに載せられたりしているが、あなたならどうするだろうか。
ちなみにカミさんに聞いてみたところ、彼女は「紅茶でも飲むかしら」と呑気なことを言っていた。きっとお湯を沸かして紅茶を入れた頃には3分が経過し、彼女は紅茶を飲めずに終わるに違いない。

そう言えばちょっと前に似たようなCMがあった。

ウルトラマンがカップラーメンを食べようとお湯を入れるが、できあがったときには彼はもはや地上にはいられず、それを食べることが出来ないのである。

ウルトラマンが何故地球上に3分しかいられないのか僕は知らないが、この3分間という微妙な時間設定を考えついた人は、恐らく滅茶に頭の良い人だったに違いない。カラータイマーが鳴りだしそれが段々速くなっていくと、純朴な少年だった僕の心臓はそれに呼応するように高鳴った。
実写のああいう形とか、特撮とか、人間が変身するとか、当時としてはいろいろ革命的に新しかったに違いないが、ウルトラマンの闘いにあれだけハラハラできたのは、この3分間という時間の制約のおかげではなかったかと最近思う。

恐るべき3分間である。

もし、ウルトラマンが何の制約もなく無限の強さを誇ってしまっていたら、それはそれでカッコ良かったのかもしれないが、それ以上の何ものでもなかったに違いない。
彼は時間の制約を与えられたことで、時代のヒーローになり得たのである。
無限の可能性や開放的で輝くような自由ばかりが謳歌されがちだし、それも確かに素晴らしいことだが本当のドラマや感動はそれらが制限されたところに生まれるものである。

制約がひとつの美を創造する。

こんなふうに言うと、ちょっと気障っぽかったりもするが確かにそういうことがあるのだと思う。
人であれ物であれ、制約のギリギリを必死で輝こうとすることが人を引きつけるからなのかもしれない。不完全な微妙なアンバランスの造形や、限られた命のドラマが時に僕らを魅了するように、制約された抑制の利いた美しさは、いつまでも僕らの好奇心を駆り立てて魅力を失わない。

女性の美しさにもそういうところがある。

多分顰蹙を買うに違いないが、例えば、OLの制服姿が美しく見えたり、喪服姿の女性が色っぽいなどと言われたりするのはそんな例の典型かもしれない。制服や喪服自体が持つ制約が美しさを作り出す。

女子高生は授業中に椅子の上でアグラをかいてみたりするが、制服を着ていながら、それは今の例の対極にある。寒くなるとスカートの下に長ズボンのジャージをはいたりするわけで、それは姿が似ているので「埴輪」と言うらしいが、およそ美的ではない。

スカートを超ミニにしているのに、その下にハーフパンツをはいていたりするのはオジサン的には幻滅に等しい。「まあ、いやらしい」と思われるかもしれないが、それは決して助平根性なのではなく、異性として女性に望む「奥行き」の問題としてそうなのである。

きちっと膝をつけてそろえられた脚は美しい。それは多分、羞恥というフォームを自らに課した内面の美しさであろうと思う。
その制約による奥行きが僕らに未知の魅惑的なものとして女性を意識させるのである。無論、勝手な男の妄想に過ぎない。
これ以上書くとカミさんが眉間にシワを寄せそうなので話を移そう。

短歌や俳句もそうかもしれない。

わずか31文字、17文字の短詩形が詩として成立し、しかも575(77)という形式までを背負っている。
それでいて僕らを引きつけてやまない魅力がある。それは枠の制約を受けてことばを選び抜き、削ぎ落とす徹底した作業の結果として生み出される無限の抒情だと言っていい。

また例えば、「茶道」や「禅」なども制約されたフォームそのものである。人間の自然に枠を課し、ひとつひとつの動きにまで制約を与える。しかしその所作は洗練された美しさに高められ、張りつめた静謐な空気を作り出す。

                 ○

人間の命もまた、永遠ではない。

僕らが輝こうとするのは、あるいは僕らに死という避けられない制約があるからなのかもしれない。人間の存在自体が限定されたものなのである。

昨今、平均寿命は急激に伸び、人生は80年と言われるようになってきた。人生50年と言われていた時代もそんなに昔のことではない。
それはいいことに違いない。

しかし、一方で「間延び」も避けられない。
現代は精神年齢を10歳割り引かなければいけないと言う人がいるが、死という枠が緩み死が差し迫った問題として意識されなくなり生き急ぐ必要もなくなったと言えるだろう。

生徒にちょっとこんなカマをかけてみる。
今、君たちは18歳。まだまだ6、70年は生きられるし、30歳とかまでは好きなことをしていればいいやとか思っているでしょ。
もし人生50年だとしたらもう1/3を生きてしまっていることになる。
ちなみに自分の年齢に5/8をかけてごらん。それが寿命50年に対する80年世代の精神年齢。そうすると18歳の君たちは11.25歳。小学生レベルの精神年齢でしかない、と。

人のことばかり言ってはいられない。ジジイである僕とても、あと20年生きられないでもない気がして呑気に暮らしているのだ。

ちなみに早世した作家の享年を挙げてみたい。

中島敦33歳、太宰治39歳、樋口一葉24歳、小林多喜二30歳、梶井基次郎31歳、宮沢賢治37歳、中原中也30歳、石川啄木36歳、正岡子規35歳・・

こんな偉人を比較の対象にすること自体が間違っているわけだが、短い生の中で、なぜあれほどの偉業を為しえたのか不思議に思う時がある。坂本龍馬、然りである。
その密度の濃い人生は、その命の短さや一回性の「制約」を意識する緊迫感の上に成り立っていたのではないかと思ってみたりするのである。

                 ○

ソープに通うおじいさん

こんなことを書こうと思ったきっかけはラジオで偶然聞いた次のような話だった。心臓の病で酸素マスクをはずすと40分で死んでしまうおじいさんがいる。
しかし、このおじいさんはソープが好きでソープ通いがやめられない。そこで酸素マスクをはずし40分以内で事を済ませて出てくるのだと言う。

臨終の時にも誰か呼んで欲しいかと聞かれ、ソープ嬢の○○チャンと答えたそうだ。全く見事というほかはない。考えてみればヨダレでもたらしていそうな、エロジジイの醜態でしかない話であるはずなのだが、そんな話が何だかとても美しい話のように聞こえてしまうのは、40分という制約を生きる彼の「気迫」が僕らを引きつけてしまうからであろう。

死を前にギリギリまで自分の生をかける、恐るべき「気迫」と言わなければならない。


■土竜のひとりごと:第144話


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