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第36話:仁和寺にある法師

徒然草に「仁和寺にある法師」という有名な話があるが、これは石清水八幡宮への参拝を年来の夢としていたある法師が、ある時思い立って四里の道を一人で歩いて参拝に出掛けたという話である。

それ自体は別にたいしたことはないのであるが、この法師、実は八幡宮の位置も知らなかったために付属の社だけを拝み、肝腎の八幡宮は拝まずに帰って来てしまう。しかも帰って来て拝んだつもりの八幡宮の様子をあわれがって仲間に披露するといういかにも愚かな出来事が活写されていて面白い小文である。

八幡宮のある山の上にみんなが登って行くのに、それを何かの見物とでも思ったのか「神様にお参りすることが自分の目的」と自分一人で納得している法師に、さすがに兼好は「ちょっとしたことにも指導者がいて欲しいものだ」とその感慨を漏らすことになるわけだが、僧侶という知識階級に属する人間がこんなヘマをやってくれるからそれがまた愚かに見え、余計におかしみを誘ったりもするわけである。

でも、この法師の失敗談にはどこか責め切れない人間的な味わいがあり、憎めない感じがする。誰にでもありがちなことでもあり、真面目で世間知らずな法師の人間性が、語弊を恐れずに言えばカワイラシク感じられたりもするのである。

説話などにはよく知識階級の世間知らずが笑いの対象として書かれることも多いが、それは庶民の権威に対する揶揄であると同時に、人間味の発見であったのかもしれないと思ってみたりする。


学生の時のクラブの仲間に似たような奴がいて、甚だ面白かった。

合宿で先輩にミスジャヂをケチョンケチョンに怒られた日には寝言で一生懸命審判をしていたし、ヘタクソと言われれば合宿所を夜中に抜け出して素振りをし、どうしたものかラケットを振り損ねて額に大きなコブを作ったりもした。
部室建て替えのために部室を引っ越したことがあったが、荷物を一杯に積んだリヤカーを率先して引っ張ったはいいが、ぬかるみに足を取られて顔面から落ちコンクリートで前歯を折ったりもし、また練習の終わりに二人ずつ並んでダッシュをするのだが、つい止まるのを忘れてフェンスに突っ込み、これまた額を切ったりしていた。
フェンスがあれば本能的に止まろうとするのが普通の人間だと思うのだが、「隣の奴に負けたくなかった」というのが本人の言い分だった。

しかし注釈しておかなければならないのは、彼がいたって真面目にこれらの失敗をしているということである。これらの失敗のおかしさは作為しても決して生まれるものではなく、ましてやいい加減な人間に出来る失敗ではない。本人が真面目だからこそ生まれて来る味わいなのである。
彼は卒業後は、ある機構に属し、アジア各地の経済のために奔走する日々を送った。

推察するにこの法師もごく真面目な僧侶であったに違いない。仏道に忠実な専門バカであったのかもしれない。昨今、世間ではバカであることが否定され、ほどほどにワキマエを持っていることが良しとされるが、僕は必ずしもそうではないような気がしたりもしている。

何かに一途である人間のバカさ加減はそれはそれで尊いと思う。運動バカ、勉強バカ、音楽バカ、釣りバカ、いろんなバカがいるが、変に小利口なのが多い世の中、バカがいいではないか。
懸命で純粋でなければバカにはなれないのである。


学生時代にこんな話があった。

ある国語学の権威ある女性の教授の研究室に尋ねたところ、その教授に「アンマンを食べませんか」と聞かれ、甚だ恐縮しつつもお受けした。ところが、出されてきたアンマンは冷凍食品として売られているもので、それを電子レンジでチンすることもなく、「どうぞ」と目の前に置かれた。
どぎまぎしながらも何も言えず、そいつは教授と二人、ぼそぼそするアンマンを「おいしいです」と言って食べてきたそうである。

僕は、そのエピソードを、誰がどう言おうが、学問に一生をささげた人の美しい逸話として胸にしまっておきたいと思っている。

(土竜のひとりごと:第36話)

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