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第85話:採点

教員になったばかりのころ、テストの採点は先生というものになった証のようにも思え、ちょっとばかりウキウキした。
思えば長きに渡ってテストというものに苦しめられて来たのであって、自分が逆の立場になったことを自覚し、我ながら意地汚い「うれしさ」を感じていたのかもしれない。

ところが回を追うごとに、億劫になり、年を追うごとに重荷となり、今や完全な苦痛となるに至っている。
年10回の大きなテスト、その他、小テストの採点や問題作成や課題のチェックなど、ほとんど鉛を背負って山道を登らされているような感覚に陥る。

さらに、国語という教科の採点は、頭がウニのようにグチャグチャになる。

まず単純に、字が汚い、薄い、小さい。細かい字で人の倍も書いてあるのに全く間違っているものだったり、中には「続きは裏に書きました」とあるのもある。解答欄の大きさが求めている解答の分量だ。そんなに書くな!と思う。
うろ覚えな漢字をわざとぼかして書いてみたり、とか・・。

80字とか100字とか記述形式の問題を出すと、生徒は模範解答どおりには決して書いてはくれない。

300枚の答案を束にして机に置き、まず全部を読みながら完全○と完全×をつけて行く。そうしながら部分点の与え方を考え、もう一度見直して行くのだが、微妙にずれるもの、別の観点から鋭く切り込んで来るもの、イレギュラーは後を絶たない。
新たな基準を設けると、また別の形の答案が出て来る。頭が痛い。これはどうしようと迷うと、さっきまでの基準とこんがらがって、頭が混乱状態になる。
まるで宇宙人と戦っているようだ。
国公立大学の先生方は大量の記述答案をどうやって採点しているのだろうと考えてみたりする。

最近はセンター試験の影響で選択肢を選ばせる問題も増えたが、論述の解答が空欄で何も書かれていないと、不謹慎とは思うが、思わず嬉しかったりする。記述一題で300枚の答案を採点するのに、概ね6時間。4問出せば24時間。
秘書が欲しい、小人さんがいて朝起きたらすべて採点が終わっているってないかな、と思う。生徒にそんな話をすると、「先生、お互いに不幸になるんだから、テストを廃止しましょう」と言うのだが、まったく賛同したい。

問題の作り方が悪いから採点で苦労するのだろうと反省はするが、共通テストで記述問題が導入されるという話があったときに聴いた話では、例えば3つのキーワードが設定された場合、それがいくつ入っているかでまず仕分けをするという話を聞いた。
自分のポンコツぶりを棚に上げて言えば、それは「国語」ではあるまいと思う。しかもほとんど一社独占で、しかもアルバイトを使って・・文部科学省というところは何と愚かな役所なのだろうと思う。

そんなことをブチブチ考えながら、採点する。

採点に倦み疲れると、赤ペンを投げ出して床に転がり、
中国語でさよなら再見(サイチェン)だが、これはサイテンと似ている。
そう言えばサボテンだって似ているぞ
などと思う。
天災をひっくり返すとサイテンになる。
とすると、採点は天災の反対で人災かもしれない。
サイが10頭でサイテンだ。おお、これはクイズになる
などと無意味な空想に耽ったりもする。

どうも脈略のない話になってしまい申し訳ない。

以上、採点に関するエトセトラである。

(土竜のひとりごと:第85話)

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