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ひま

 

高校時分、テスト監督をしている先生が羨ましくてならなかった。不勉強を悔いながら出来の悪い頭を必死に働かせて問題を解いているのに、いかにも暇そうに窓の外を眺めたり、椅子に腰掛けてぼんやりしていたり、中には野球の投球フォームをしてバランスを崩してひっくり返ったりする先生もいたが、いずれにしても、どの先生ものんびりと心地よく自由時間を楽しんでいるように見えた。
あんなご身分になってみたいと夢のように思ったりしてみた次第なのである。

ところが、どういう因果か僕は高校の教員となり、その夢がかくも簡単にかなってしまったのだが、いざその夢がかなってみると芥川の『芋粥』よろしく、これがどうしようもなくつまらない。

テスト監督などというものは退屈極まりなく、殆ど地獄のような苦痛でさえある。生徒の不正行為防止ということで、本も読めず、椅子に腰掛けてはならず、かといって不正行為などというのはそうざらにあるわけではないので、ギラギラと目を光らせていなければならないという緊張感もない。

生徒のテストをのぞき込みながら一周ゆっくり回って5分。
教卓に手をついてぼんやりとしても3分。
教室の後ろに行って掲示物を見たり、足が疲れるので屈伸運動したり、壁にもたれて考え事をしてもせいぜい7分。
陰に隠れて欠伸をしたり、恩師と同じようにピッチングの練習をしてもたかだか30秒。

たかが60分の時間でありながら、この「暇」を埋めるのにいらないストレスをためてしまう。
その立場には、なってみなければ分からないことはたくさんあるわけだが、だから、決して暇そうな教師が楽をしていると考えてはいけない。実は大変なのである。


暇なら暇でその暇を楽しめばよいのだが、百姓気質なのか、貧乏性なのか、何かしていないと落ち着かない。なんとなく申し訳ないような、後ろめたいような気分になってしまう。

仕方なく、余ったテスト問題を取り出して「どれ俺もやってみるか」と思ってみる。しかし英文を読み始めると既に一行目に意味不明の単語があって嫌になり、数学は数字を見るだけでげんなりしてしまう。生徒を見るとちゃんと答えてあったりするわけで、悔しくなってみたりもする。

数学の問題を解いているうちに途中で行き詰まり、机間巡視するふりをして生徒の答えを盗み見、「なるほど、そうか」などと頷いている自分を発見して「これではカンニングではないか」などと嫌悪感にさいなまれたりもする。


そこで、はたと思い付いた。
とんと忘れていたが、そう言えば僕は国語の教員だった。横文字や数字などというものに魂を奪われてはならない。
そうだ。文学をすればいいではないか、と。

しかし何をすればいいのだろう。
小説を書いて芥川賞でも取れば貧乏から脱出できるかもしれない。でも小説は残り30分じゃ書けない。残念だけど芥川賞は遠慮申し上げよう。

それじゃ詩でもつくろうか。でも詩は酒を飲まないとできない。勤務中に酒を飲むわけにはいかない。クビになっちゃう。クビになったらカミさんに怒られるだろうな。息子にもバカにされるに違いない。

そうだ短歌を作ろう。昨夜、月がきれいだったから、月の歌でも作ってみようか・・。
早速テスト用紙を裏にしてペンを握ってみる。 


おっと、できた。

ポケットにあふれるほどのビ-玉を詰めて子どもが月に出かける

子どもの寝顔はいい。月にでも遊びに行きそうな、天真爛漫でいかにも楽しそうだ。
ちょっと童画風に僕も月に行ってみよう。

僕の心の凹のへこみを埋めるためはしごをかけて月取りに行く

う~ん。僕は、寂しいんだね・・。

山の上のお空に月が出ています そんなにまあるく生きられないよ

雲みたいに生きたいけど泥みたいに生きてる気がするなあ。
いかん、落ち込みそうだ。明るく歌ってみよう。

月の澄む月夜の晩でありまして寂しさは「どんがらがりん」

「どんがらがりん?」か。いったい、どういう寂しさなんだろう?自分でもよくわかんなあ。

きのふ月から来た手紙に「るるるるる」と書いてあった

うわぁー、意味不明だ。オレ、壊れたかも?


自己嫌悪に陥っていると、やっとのことでチャイムが鳴ってくれる。
そそくさと答案を集め、ようやく呪縛から解き放たれたような疲れとともに教室を後にする。

かくして、暇とは疲労なのである。「バカじゃないの」と愚弄する声も聞こえて来そうだが、そのとおりかもしれない。

でも、かの石川啄木は仕事が忙しく時間のないときは喜びを感じたそうである。暇があると自分について考えずにはいられないからだとあったように記憶している。
自分の生活について、自分の在り方について考えることは苦痛だったに違いない。

雑事に紛れて自分を忘れている時はいいが、暇は自分と自分を否応無く向き合わせる。暇を素直に楽しめるという人もいようが、暇は人間に考える隙を与える。人は考えなければならない。それは大変なことである。

しかし、何故か人間はそうせざるを得ない動物である。言うなれば、僕らは自分という空間に向かって絶えず問を発している何かなのだ。

ばかでかい空洞をかかえ生きている何だか分からぬ僕であります

人間は考える「からっぽ」なのかもしれない。

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