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カメはウサギを起こすべきだったか?

ノアの箱舟・・

国公立入試の二次試験では面接、小論文を課す大学も多いが、医学部や看護学部、教育系の学部ではかなりの大学が面接を課し、それもただ通り一遍の面接ではなく、入試結果からみると、その人となりを相当見ているなあという感がある。学力だけではなく、人間性も求められる職業に直結する学部だからだろう。
個別指導ではそうした面接への対策も求められるが、中にはユニークな内容の面接もあって、例えばこんなプレゼンの試験があった。(問題自体はうろ覚えで正確ではない。ノアの箱舟をイメージしていただきたい。)

他の星に先陣として自分が宇宙船で移住することになったが、仲間として自分以外に3人しか連れてゆくことができないという前提。医者、建築家、理系技術者、女子大生、教師、農家など性別、身分、職種の違う12人が示され、その中から3人を選ばねばならない。どの3人を選ぶかを、その理由とともに答えよ。

という課題。これに15分考えたのち、それについて一人ずつがプレゼンし、その後、ディスカッション、最後に一連の流れを通して自分の考えたことを文章にまとめるというものだった。これは発想力とか、人前で臆せず話す態度とか、コミュニケーション力とか文章にまとめる力とか様々な要素を総合的に見ようしているのだろう。どこまで正確にその人物を測れるかは、どんなことをやっても微妙なところはあるが、単に学力だけではなく、発想力や人と関わる力にスポットを当てる考え方は、恐らく就職などにおいても増えているのだろうと思う。


プレゼン練習・・

昨年もその大学のその学部を受験する生徒が指導を受けたいと言ってやってきた。ただ、この種の試験は指導といっても、その場での臨機応変な考えや機転で処理していくものなので、短期間の指導は困難と言えば困難。一応、ディスカッションのやり取りで大切なことを押さえ、後は題を与えて、15分で考え、3分でプレゼンするという練習をひたすら行う。

手始めは、求められる内容とは違うが、志望動機いじめモンスターペアレンツ不登校学習障害など、養護教諭として必要な基本を考えさせるために、この種の題で15分考え、3分で話す形を繰り返す。15分・3分という形式と時間感覚に慣れさせると同時に学校が抱える問題と教員になるということの自覚を確認する。これが第一段階。

第二段階は少し趣を変えて、「あなたが大統領になったら何をしたいか」「女性専用列車についてどう考えるか」「AIや仮想通貨、キャッシュレス決済についてどう思うか」「原発をどう考えるか」「災害の被災地にあなたなら何を支援物資として送るか」など、やや社会的な問題を与えて大雑把に現代社会の問題の根っこにあるものを考えさせる。今の子供たちが生きている現状を確認しておくことは大事だろうから、クローバル化、情報化社会、格差社会、自由・平等ということなどについて押さえていく。


正解のない問題・・

それが終わって、第三段階。「正解のない問題」に入っていく。今年は、昔ばなしから適当に題を作ってみた。ふざけていると思わないでいただきたいが、例えば次のようなものである。

鶴の恩返しで男が約束を破って覗いてしまったことをどう考えるか?

あなたが桃太郎だとして、サルとキジとイヌの一匹だけしかお供に選べないとしたら何?

アリとキリギリスの話についてキリギリスを弁護しなさい。

最近では桃太郎のエンディングが鬼ヶ島で鬼たちと仲良く暮らしたとなっているそうだが、これについてどう思うか?

などなど。

昔ばなしの変化・・

雑感と言えば雑感だが、この桃太郎のエンディングのように、最近では僕らが知っている昔ばなしも時代に合わせて変化しているようで、いつだったかNHKで、桃太郎は実は江戸時代までは、川から流れてきた桃を食べて若返ったオジイサンとオバアサンが子供を作ったという話だったと解説されていた。それが明治時代になって学校教育に取り入れられた際に、それでは教育上よろしくないということで、桃から生まれたということにしたらしい。

そんなことも知らないでほとんどの人が桃太郎は桃から生まれたと信じ込んでいる状況はちょっと恐ろしかったりもするのだが、別の見方をすればおもしろいことであるような気もする。結末を「みんな仲良く」が今の風潮なら、昔の桃太郎は「勧善懲悪」を勧める時代の風潮の反映であるのだろう。

更に例えば、アリとキリギリスは、無論、勤勉を推奨し怠惰を戒めるものであろうが、永六輔氏が生前に「アリは暑い夏一生懸命働きキリギリスは怠けていました。しかし、アリは冬になって夏の過労がたたって死んでしまいました。キリギリスはアリの残した食料を食べて一冬を暖かく過ごしました」と、皮肉を込めてユーモラスにこの話を作り替えていた。「過労死」「働き方改革」などというキーワードが飛び交う現代を考える材料としては、キリギリスはそれでいいのかという議論とともに、とてもおもしろい「つくり話」ではないかと思う。


ウサギはカメを起こすべきだったか?

役に立つか立たないかそんなことを話しながら、受験に出発する前日、彼女に最後にこう質問した。

ウサギとカメの昔ばなしに関して『カメは寝ているウサギを起こしてやるべきではなかったか』という議論があるが、これをどう思うか?

という問である。15分考えて彼女が出した答えは「カメはウサギを起こすべきだった」というもの。その理由は

「競争というのは勝負を争うものであるから、ウサギの奢った油断は許されざるべきものであり、カメがウサギを起こす必要はないというのは紛れもない正論である。でも、そうでない考え方もある気がする。それはカメがウサギを起こさないのは道徳的に間違っているとかということとまたちょっと違う。前提にあるのはウサギがカメを馬鹿にしているという関係。例えば、ウサギがカメを起こさずそのままゴールして勝利すれば、ウサギとカメの間にある関係性が変化する可能性は、恐らく全くない。しかし、もしカメがウサギを起こしたとしたら、二人?の関係性に何らかの変化が生まれる可能性がある。だからカメはウサギを起こすべきだと考える。」

というものだった。

なるほど、と思った。単なる「道徳」や「仲良し理論」を越えて、「他者との関係性に目を向ける」、それが現代的な考え方なのかもしれないと思った。この子は合格するだろうと思ったら、やはり合格した。

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