第109話:ハナゲによる世界の可視化
ハナゲという痛さの単位
以前、車に乗りながらラジオを聞いていると、痛さの単位にハナゲを使ってはどうかというリスナーからのメールがあって何だかそれで盛り上がっていた。
しばらく前のことで具体的にはよく覚えていないが、いま、全くの想像でその話を補ってみると、ハナゲを一本抜く痛さを「1ハナゲ」とし、例えば、つねられた痛みは3ハナゲ、殴られたのは20ハナゲ、スネを何かの角にぶつけて55ハナゲといった具合に痛さを具体化していくわけである。そうすると財布を落とした時の落胆は80ハナゲ、失恋の痛みは98ハナゲとでもなるのだろう。
全く人間とはバカなことを考えるものだと思ったりもしたが、考えてみると、痛さという実体のないものを表現する手段としては、なかなかに便利なのかもしれないと思ってみたりもした。
ひょっとすると「ハナゲ」より「スネゲ」を抜く方が痛いであろうから、1スネゲ=10ハナゲなどセットしていくと、お金のように「痛さの価値」が規定されていくかもしれない。
くだらないとは思いつつ、いろんな感情に応用できそうだと考えてみた。
喜び:ヒルネ(昼寝)
寂しさ:カレハ(枯れ葉)
怒り:コブシ(拳)
女性の美しさ:サユリ(吉永小百合)
人の暖かさ:カイロ(懐炉)
努力:アセ(汗)------などなど。
くだらないと思いつつ、これらをドラえもんとのび太の会話で試してみた。
という具合に話は進行してゆく。
そのあとは書くのが面倒くさいので、勝手に想像していただきたい。
何でも数値化して、例えば人間の価値まで計ろうとする昨今の傾向には憤りを感じるが、人間は実体のない、見えないものを、何かに「置き換える」ことで可視化しようとしてきた。
その想像力は、人間というものの不可解を考え、自分の存在を把握しようとするとき、おもしろい努力だと思えたりするのである。
例えば「時間上の自分の存在」について
ひとつはある雑誌を読んでいたときのこと、地球誕生から現在にいたるまでの46億年を仮に1年間の時間上に置き換えてみるとどうなるかという記述があった。
この時間上で人間の一生はどのくらいの時間になるんだろうと計算してみたところ、100歳まで生きて0.7秒だった。70歳くらいで0・5秒だろうか。瞬きを2回くらいすると人生は終わってしまうというみみっちさだ。
もうひとつはまったく逆の話だが、永六輔の『夫と妻』に載っていた話。
前者では僕らは人間の小ささを知り、謙虚に生きることの大切さを思う。後者では自分の命が厖大な命につながるその重みを知り、自分をゆったりと見つめ直す事ができる。
全く逆の内容だが、共通して見えてくるのは「大事に生きようよ」ということである。
また、例えば「社会的な自分の存在」について
随分前のことになるが「世界がもし100人の村だったら」という本があった。この本は世界がもし100人の村だったらとして世界40億人の置かれている現状を示している。
世界がもし100人の村だったら、
ふーん、なるほどと引き込まれてゆく。
えっ、そうなんだ、そんなに少ないんだとびっくりする。さらに先を繰ると、
ホントかよ、と半ば愕然とする。
現在とは数字はかなり違うだろう。悪い方に傾いているかもしれない。
この本は世界40億人を100人の村人に「置き換える」ことによって「人類に存在する不平等」、その中で「自分がいかに恵まれているか」を明確に教えてくれ「愛」を訴えている。
見えないものを見ようとする、広がろうとする努力。
時は実体のないものであるのに流れると意識される。しかし本当は、時は流れているわけではない。でも、僕らが今の自分を起点に過去の自分を振り返り、未来の自分を夢見るとき、そこに流れが意識される。
僕らの変化が時を創る。35億年につながる、0.5秒の生。
共時的な社会や世界も広がりとして意識される。しかし本当は、社会は広がっているわけではない。でも、僕らが今の自分を起点に視野を広げ、足を運ぶことで、広がりとして意識される。
僕らの変化が社会や世界を作る。不平等の上に創られている社会、不平等に無知な自分。
ハナゲを抜く痛さが、不平等に耐える人たちの痛みを表し得るかは微妙。
でも「置き換える」ことで可視化しようする工夫は、見えないものを見ようとする僕らの努力である。
その努力の果てに、人は、あるいはひょっとしたら、大事なものはすぐそばにあることに気づくのかもしれない。
■土竜のひとりごと:第109話
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