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第176話:受験生への愚私信

老人のたわごとだと思って聞いてください。

日本には「住めば都」といういい言葉があります。物理的な「場所」もそうですが、どんな境遇でも、自分が身を置いた環境を受け入れて、そこを最善のものにしようという意志があれば「幸せ」が得られると読める言葉です。
逆に、どんな境遇にいても、不満しか感じられなければ、そこを「都」とすることはできません。「今」を受け入れて実直に豊かに生きる生き方が大事なのです。

唐突に思うかもしれませんが、「恋に似ているなあ」と思います。「この人じゃなきゃ、嫌」みたいな理想の人とむすばれることもありますが、そうではないケースもたくさんありますよね。
でもその時、例えば僕が「カミさんと知り合う前に堀北真希と知り合っていれば」と思っていては、夫婦生活は破綻してしまいます。縁あって出会ったカミさんと一緒に暮らしながら愛をはぐくむことが大事なのです。
でも、堀北真希はいいよね!

そう、恋は「求める」ものであって、愛は「つくる」ものなのです

ついでに言うと、結婚は「交通事故」みたいなものです。
ある日突然、ボコンとぶつかった人と生涯をともにする。いや、ある日突然、それまで何も思っていなかった身近な人の言葉や表情に輝きを見つけて「ああこの人と結婚するんじゃないか」というインスピレーションがビビッと頭を走る。

それは大体その通りになります。それはまるで事故なのです。美女とかイケメンとか、身長とか3サイズとか、そんなこと全く関係なく。言ってみれば神様のイタズラです。そんなふうに出会った二人が長い年月を重ねて家族や家庭を作っていく。

これが君たちのお父さんやお母さんです。いいことばかりではないけれど、縁あって知り合い、縁あって住み着いた土地で、頑張って、愛や生活を創ります。
その一つの大きな結果が君たちです

人は自分の足で人生を歩むのですが、一方で、人は偶然に支配されているものでもあります。人生を自分の設計図通りに歩める人はいないし、またそういう生き方も面白いの?と思ったりします。
「求める」ことも大事な意志だけれど「受け入れる」ことも大切な意志であるように僕には思えるのです。

何を言いたいのか話が見えないと思う人も多いかもしれませんが、これから君たちは、受験の合否という「結果」を「受け入れる」ことになります。でもそれは決して、人生を決定づけるような「結果」ではありません。
そこから先、次に自分が身を置くことになった場所で、どう生きるかが大切です。

これは決して、不合格だった時に気を落とすなという慰めの布石ではありません。今、受験の本番を目の前にしている君たちに言うべきことかどうか迷いもありますが、ひとつだけわかってほしいことがあります。
それは、「人生は勝ち負けや、優劣ではない」ということです。他人との比較でもないし、他人からどう見られるかということでもありません。自分に与えられた生命を精一杯生きることなのです。

人はともすれば、自分と他人とを比較して、自分を卑下してみたり、逆に人に対して優越感を抱いてみたりする生き物です。
でもその時比較の対象になっているのは、案外、容姿であるとか、あるいは出身の高校や大学の名前とかいう外面的に貼られたものであったりするものなのです。
人を、その人に貼り付けられたレッテルで見るのは寂しいことだし、自分をレッテルで飾ろうとするのも寂しいことです。

価値の基準は人によって与えられるものではなく、「内実」に根差して自分で持つべきものです。無意味に誰かが作った既成の「ものさし」に自分を測られてはいけません。

大事なのは「そこでどう生きようとしたか」ということです。
大学生活も同じです。「そこで何をしたか」、あるいは「何を得ようとしたか」ということだけが大事です。大学の「名前」が、君たちの本当の価値を担保してくれるような時代でもありません。

受験勉強もまた同じだと思います。恐らく恵まれた家庭に育った君たちにとって、受験はこれまでの人生の中で最初に経験する「大きな壁」であって、そこに意味があります。
その壁に向き合ったとき、「どうあろうとしたか」が大切なのだと僕は思います。「どこの大学に入ったか」という「結果」ではなく、どれだけ悩みながらどれだけ努力したかが、後の自分につながる揺るぎない自分の「内実」をつくっていきます。その意味で受験は必要悪だと思います。

そんなのはキレイゴトに過ぎない、と思うかもしれません。

でもそれなら結果がよければすべていいのか?
あるいは結果がダメなら、その人はダメなのか?
そう問うてみたとき、そうではなかろうと僕は思うのです。その人が払った努力や忍耐、その人が目指そうとしたこと、工夫して前に進もうとした意志を大切にしたい。それがその人の「価値」だと思います。

君たちは10年後、28歳。就職しているでしょう。社会では「結果」が求められ、悪戦苦闘しているかもしれません。
でも、そんなときに思い返してみて欲しいのは、どんなに「結果」が欲しくてもそれに縛られてしまうと、大事なことを見失う可能性があるということです。

大事なのは、「結果」とか「成果」とか「数値」といった他人の評価によって測られる自分なのではなく、変わろうとする、あるいは何かを問おうとする自分なのであって、そうした経験の中で「努力」とか「感謝」といったものを身体に染み込ませることだと思います。

「豊かな生き方」と考えてみた時、人生は「結果」でもないし「結果」にとらわれた「勝ち負け」や「優劣」などというものは「豊かさ」の対局にあるもののような気がします。
ぜひ、「上」とか「下」とかという価値観から自分を外してほしい
それが僕の願いです。

これから受験に向かう君たちへの「はなむけの言葉」としては、いささか妥当性を描いているかもしれませんが、縁あって知り合えた君たちにどうしても伝えたいことなので書いてみました。
いや、君たちが「対岸の火事」ではなく、まさしく自分の「利益」という差し迫った状況に置かれている今だからこそ、それを考えてみてもらいたいと思います。厳しい要求かもしれませんね。

「結果は神様のくれるもの。僕らにできることは努力することだけだ」と言った有名なラグビー選手がいましたが、「やるだけやる」ことが大切。あとは神様からいただいたものを「受け入れ」て、そこからまた「がんばる」ことが大切。

ひたむきに「今」を頑張れる人だけに見える美しい風景があるのだと僕は信じています。精一杯頑張ろう。健闘を祈っています。 


■土竜のひとりごと:第176話

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