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第48話:認識

[ 子育ての記憶と記録:1歳9か月 ]

1歳と9カ月を迎えているウチのガキこと亮太は、ただ今イタズラ真っ盛りで家の中を我が世の春と言わんばかりに暴れ回っている。

無論それは今に始まったことではなく、9ケ月で歩き初めて以来、思慮もないのに身体の発育だけは人一倍立派なこの怪獣に悩まされながら、僕らは一年に近い日々を送って来たことになる。
「他人の子は早い」と俗に言うが、全くその通りで、自分の子の成長にかかる労力は日々の進行の遅さを実感させるに足るものである。倒しても倒しても次から次へと現れる怪獣と、来る日も来る日も格闘しなければならないウルトラマンの悲哀がよく分かるような、そんな一年であったと言って過言ではない。

ただこの子も最近になって漸く知性の芽生えを感じさせるようにもなって来た。腹が空くと「ゴアン」と言って、ジャーの前に連れて行き、自分は自分の小さな椅子を持ってお膳の前に座り、出されたゴハンを箸を持って突っつき回わしては口に運んで食べようとする。うまく口に入るとこっちを見てニーッと笑い、途中で落とすと「オッコッタッタ」と独り言を言いながら挑戦している。
物を畳に落としてしまうとそのままはいつくばって食べようとするが、それで畳が汚れると、さっと立ってティシュを取りに行き、汚れを拭いて「ポイ」と言いながらゴミ箱に捨ててまた戻って来る。
食べ終わると「ゴッタン」と言い、「カターチ片付け」と叫んで食器を流しに運んで行く。本人がどういうつもりでやっているのか分からないが、どことなく滑稽で見ていて飽きない。

無論、おもしろいでは済まないことはたくさんあり、このゴハンの一幕のために、いかに周辺が汚れ、ティシュが無駄になり、いくつものコップや食器が無残な末路をたどるかは皆さんに知っておいていただきたいところである。

悲惨なことは無限にある。例えば亮太は僕がトイレに入ると必ずドアを開けて侵入して来て、僕が小便をする様子を横に立って下から見上げている。
トイレの出来事など人には見せたくないものだが、ドアに鍵を掛けると、泣きわめきドアをなぐりまくり、果てはドアに頭突きなどくらわせるので仕方ない。
中に入れてやると僕の小便の様子を「チーチー」と言いながら観察し、小便が終わるとすかさず水洗のコックを「ジャー」と言いながらひねり、フタを「バタン」と言いながら閉める。それから外に出て「パッチンパッチン」と僕に向かって電気を消す指示をして、ドアを今度は自ら「バッタン」と言いながら閉める。

一例に過ぎないがウットオシサの半分くらいは分かっていただけるかと思う。車に乗っていると信号で止まるたびに「アカー」と言い、信号か変わると「アオー。パツ出発」と叫ぶ。言われなくとも分かっている。
仕事が終わって家に帰ると待ち構えていたように「コッコッ行こう行こう」と僕を遊びに誘いだし、夕食の間だけは遊びを一応忘れてくれるが、自分が食べ終わるとさっさと「カターチ」を始め、僕が箸を置くのを見計らって、また「コッコッ」を始める。

休日にたまに僕が家にいると、カミさんの手提げを持ち、反対の手で玄関を指さしては「コッコッ」を始め、自分はさっさと玄関に行って腰を下ろし、靴を履かせてもらう態勢を整えている。お出掛けしようというわけだ。
遊んでいないと気が済まないらしい。ウットオシイとは思うのだが、おかしくて文句も言えない。
愛憎相半ばするとはふさわしからざる言い方かもしれないが、ウチでは笑い声と怒鳴り声が飛び交っていて、亮太の寝るまでは息が付けない。しみじみと我に返る時間、ぼんやりと息をつく時間が、仕事で疲れた「トータン」としては欲しいと思っている次第なのであるが。

ただ、こんな最近の亮太を見ていて人間のすごさを思ってもみる。亮太はやっとしゃべり始め、ことばが人間の無と有を分けるという教科書通り、ものや行為を理解し始めた。
僕には既にそれまで亮太がいた「無」という状態がまるで分からず、亮太が今いる状態も全く分からないわけだが、とりあえず亮太は、大袈裟に言えば、人間と動物(あるいは無)とを区別する一線を越えようとしている地点に立っている。
ヘレンケラーではないが、ことばひとつを口にするにも、そのものとことばという記号を結び付ける何かが必要であり、ひとつの行為をするにも、その行為が意味する何かしらを知る必要があるわけである。

その「何か」を僕らは「認識」と呼ぶと言って誤りはないと思うのだが、ものや行為をそれなりの何かとして認識するというこのとてつもない作業を、ゼロの地点から2年に満たない日々でやってのけてしまう人間というのは、すごく偉大な存在なのだろうと思ったりする。
無論、亮太は単に僕ら親のまねをしているに過ぎないのであろうが、とりあえずそうして学習し得る人間というやつは可能性を無限に持っている何かではないかと感じさせてくれる。

大人になる過程で人は誤った認識を持つ場合があり、また故意に認識を誤ることで自分を傷付けようとしたりすることがあるが、小さな生命がこんなにも必死で開拓したものを、出来れば大切にして生きて行けたらいいなと思う。

自分を大切にする」というのは、決して保身や付け焼き刃の自己弁護ではなく、自分が築いて来た自分、自分がそうして紛うべくもない「自分」として生きていることへの敬意なのだと思う。

僕らは多分、一生かかっても「自分が何であるのか」を認識することができないのだろうが、そうであっても、その時僕らは自分への敬意を自分で踏みにじってはならないのだと思う。

そんなことを、今人間への入り口に立っている亮太を見て思ったりするである。

もっとも亮太殿の認識の現状は甚だ心もとない。犬の鳴き声を早くから覚えたのだが、ある店に入ったところタヌキのハクセイの前に座り込んでそれに「ワンワン」とほえかけていた。
またカミさんは「ジッチジュース」という単語を亮太に覚えられたことを失敗と思ったらしく、水を飲ませる時にも麦茶をやる時にも「ジッチ」と言っていたのだが、これもある店に入ったところ、金魚の泳いでいる水槽の水を指さして「ジッチ」と言ったりもした。
カミさんは同じように「バカ」という単語を亮太に覚えられることを異様に嫌い、僕に「バカ」と言いたい時に「このー、クマ。」と言って僕の頭をたたくのだが、愚かなことである。

ある日、亮太と一緒にアルバムを見ていたところ、僕の写真を見て「トータン」などと言って喜んでいたのだが、ある写真の僕の隣に写っている女の人(実は昔の僕の恋人である)を指して「カータン」とあっさり言ってのけたりした。

これは甚だ《危険》なことである。

(土竜のひとりごと:第48話)



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