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田舎者

僕は田舎に育ち、全くの田舎者であった。田舎にいるときは自分が田舎者であるという自覚はなかったのだが、東京に出たとき「ああ俺は田舎者であった」と思い知らされたのである。だいたいそういう場合、まず「ことば」が壁として立ちはだかるのだが、僕の場合もやはり例外ではなく、友達との会話で至って自然に「そうだら」と伊豆弁を丸出しにして、その「だら」を延々とバカにされ続けた。

それだけではない。思えば大学に入るまで映画というものを映画館で観たことのなかった僕は、映画館で(今でこそ日本御吹き替え版の映画が上映されているが)外国映画が字幕であることに驚いたし、18年間生きてきてナイフとフォークで食事をする機会もなかった。
新入生勧誘の時期、クラブの先輩が結構いろんなところに連れて行ってくれた中に、軽いディナーを出すレストランがあって、そこで僕は初めてナイフとフォークで食事をしたのであった。そこで出合ったのはフォークの裏にナイフでご飯をのせて食べるという芸当で、これをみんなが実に器用にやってのけていた。今だったらそんな食べ方をする必要はないと自信を持って言い切れるのだが、当時そんな余裕はなく、どうやってボロを出さずに食べ終えることができるか、タジタジと周りの様子をうかがいながら食べていたのを覚えている。田舎者であることを意識するが故に、僕は全くの田舎者だったわけである。

平たく言えば、都会に対する田舎者のコンプレックスであるわけだが、言葉にしろ服装にしろ、あるいは文化であっても、なんでも都会のものの方がよく見えてしまう。

確かに東京にいてたまに帰省したとき、「おみゃあらバカじゃにゃあか」なんて言葉を聞くと、「ああなんて田舎臭いんだ」と思ったし、「木綿のハンカチーフ」ではないが、ハイヒールや絹のブラウスの女性に洗練された憧れを感じたりしたこともあったわけである。
また確かに東京にでてみれば、さすがに日本の中心だけあって、遊びから教養に至るまで、何でもが手に取ろうと思えばすぐ身近にあった。田舎だけにいれば自分が田舎者であることを意識しなかったわけであり、違う世界に出たことは、自分の住んでいる世界を顧みるいい機会だったかもしれない。

ただ、いつくらいからだったろうか、段々とそういうことがどうでもよいことのように思えて来るようになった。今のわが家は、と言っても借家であるが、御殿場の片田舎、田んぼの中にある小さな集落の端っこに位置していて、東側は田んぼ、その向こうにはこんもりとした木立があり、南には芝畑が青々と開けている。家の脇を50cmほどの小川が流れているのだが、沢蟹もいるし、5月の下旬には蛍も飛び交う。北側の窓を開ければ富士山が大きく見え、夏は爽やかな高原の風が吹き抜ける。春には桜の大木が花をつけ、お彼岸には川の土手を曼珠沙華が一面に赤く染める。周りの人も温かい。
無論、すべていいことばかりではないわけだが、窓を開ければ隣の家の壁があるような環境にはもう住む気がしないし、まして都会で暮らしたいなどという気持も全く起こらない。何がなくてもここでいいじゃないかと思うわけである。

当然のことだが、都会と違って田舎にあるのは圧倒的な「自然」である。「自然」は「形」のある「物」ではなく、また何かを知っているという「教養」や「知識」でもない。ただそこにあって僕らを包んでいてくれるものである。だから人に対して明示できるはっきりとした形を持たない。

同じように「形」をなさないことは「ことば」にならない在り方なのだと言ってもいい。「自然」は何も言わないし、また、空気のように無意識にそこにあるものを「ことば」で改めて表現する必要もない。だから田舎者は無口で朴訥になりがちになる。田舎者が都会に対して抱く劣等感は、明確な「形」や上手な「ことば」を自分たちが持っていないという「引け目」であるのかもしれない。

しかし、「自然」を内に持つというのはとても大切なことであって、例えば花の美しさを感じられる心があれば、花の名前は知らなくてもいいし、またその美しさがどう美しいか敢えて表現しなくていい。「形」や「ことば」を突き詰めていけばそれは洗練されたひとつの文化になるだろうが、そのとき「自然」を忘れてしまえば、そうした文化はどんどんやせ細ってしまうに違いない。

何も言わないもの、どんなことばにも出来ないものをほとんど無意識に持っていることが本当は大切なのである。それは学ぼうとして得られるものではなく、例えば、「恵み」「感謝」などということばの本当の「感じ」は自然からしかもらうことができないものであるような気がする。何がなくともそれがあることが豊かに生きるためには大切なのであろう。


かくして田舎者である僕は深く静かに生きている。あまりに深く静かに生きているので、いるかいないか分からないような存在の状態である。最近はとみに喋るのが面倒になったために、誰からも顧みられず、透明人間に近づきつつある。このまま消えてなくなってしまうかもしれない。

もし透明人間になりきってしまったら、・・「ウフフ・・」と考えている、心の「豊かな」このごろの僕なのである。

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