たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする

映画「ソラニン」を観た。

私とそこそこ長い付き合いのある人なら、私の中での「ソラニン」の位置付けは、なんとなく想像が付くんじゃないだろうか。だからこそ、ここで改めて言葉にするのは無粋な気もするが、自分用の備忘録ということで勘弁を。

この「ソラニン」は、浅野いにおさんの漫画でも、それを原作とした宮崎あおいさん主演の映画でもなく、その主題歌となっているASIAN KUNG-FU GENERATION の楽曲だ。

高校生活の半分ぐらいの短い期間だったけれど、その間に何回人前で弾いて歌ったか分からない。覚えているだけでも4回あるから、多分もう数回ある。

これだけ弾いていれば、どこかのタイミングで映画を観ていてもおかしくないのだが、あれから6年以上経つ今に至るまで、私は一度も触れてこなかった。

(私以外のメンバーは、当然観ていたと思う。観ていたからこそ弾くする流れになったんだと思うし、後追いだったとしても、あれだけ弾いた曲の元ネタに触れなかった私の方が、むしろおかしい)

当時観ていなかった理由に、特別なものはない。元々映画鑑賞を億劫なタイプであることに加えて、(練習の参考にするためとはいえ)ラストのライブシーンを下手に観てしまっていたので、ネタバレを喰らった状態で観るほどモチベーションがなかった、というぐらい。長々と書いたが、要するに面倒だった、それだけだ。

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この考えは、大学に入ったからと言って特段変わることもなく、むしろ、映画で曲の記憶が置き換わることを嫌って、意図的に避けるようになった。

元々映画のテーマに沿って書き下ろされた楽曲なのに、その映画に曲のイメージが塗り替えられるのを怖がっていたのも変な気もする。とはいえ、曲が本来持つ意味を離れて、自分一人の世界の中で一人歩きすることはよくあることなんじゃないかと。ソラニンに限った話でもない。

似たような話は前にもした

https://note.com/soratobu_zousan/n/n9f0e1e1fa797?magazine_key=ma7c3fc88a27e


じゃあなぜ今更観たのか。答えは「昼寝に出てきたから」だ。

私が寝ているときに見た夢を覚えていることは、年に数えるほどしかないので。初夢が3月なんてことがザラにある、そのぐらいレア。夢でのお告げを信じてみてもいいんじゃないかと思った。ただそれだけ。

こう書くと投稿があまりにもあっけなく終わってしまいそうで締まりが悪いので、もう少し続けたい。

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「たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする」。

昼寝から覚めて久しぶりに口遊んだこの歌詞、幾度となく繰り返してきた一節だったはずなのに、これまでにないぐらいはっきりと浮かび上がってきて、自分でも驚いた。

当時は、ソラニンの歌詞は抽象的すぎて、感情移入するには掴みどころがないと思いながら歌っていた(正確に言うと「ハモっていた」)。あやふやさこそが曲の魅力だと思っていたのだ。高校生にありがちな思考と言えばそれまでだが。

でも今改めて歌詞を読むと、16,17歳だった当時の自分には分かりたくても分からなかっただけなんんじゃないか、と思う。歌詞に対する解像度が上がったことを喜ぶ反面、見えなくてもいいものまでが見えるようになってしまうレンズを手に入れてしまったことには、どう反応したらいいんだろう。

でも、奇しくも種田や芽衣子と同じ年齢になり、肩書や立場の映え方は違えど、社会から外れているという意味では同じような状況にいる今、初めてこの映画を観ることができてよかったと、心の底から思っている。過去の自分、観ないでいてくれて本当にありがとう。ここ数日は、映画の内容を踏まえて、歌詞を咀嚼しています。

ここらへんで。おわり。


P.S. 就活終わりました。遊んでください。



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