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”甘え”と”恥ずかしさ”

1歳のころに死に別れた祖父。都市伝説的に、親戚からは、祖父はあなたを溺愛していたと今でも話に出てくる。

私が産まれるまで、孫はみんな男の子だった。そこに出てきた女の子。まさに目に入れても痛くない存在だったようだ。

里帰り出産後、しばらく実家で過ごした母親。
私にとっての祖父である父親が、ずっと私を抱いていたという。
家に戻ろうかなんて話をすると、不機嫌になり大変だったという。

父親が迎えに来てようやくあきらめがつく祖父。そんな祖父との記憶が私にはない。当たり前だけど。

旦那も祖父にとてもかわいがってもらった様子。
彼が中学生のころまでご存命だったという。そのため、彼は存分に祖父に甘えた記憶がある。

この「甘え」というワードが私にはとても重要なのだなと、noteを始めてみてわかってきた。

身内に甘えられる環境は子供のころに与えられているはずなのに、それをうまく活用できなかった私。両親で考えれば、母親よりも父親の方がまだ娘として存在できる、甘えられる人である。

この「甘え」が小さいころにうまくいっていないと、人に甘えるのが下手な上に、人から甘えられた時にも問題は生じる。

男女問わず、人が好意を持って寄ってきているのに、私はいつもうまくそれに対応できず、相手はそれ以上踏み込んだ関係を作ろうとしてこない。
同級生はまだ関係が作れても、先輩、後輩となるとできていない。

私を見てくれてうれしい、と思っている。承認してくれたことが少ないだけに、有頂天になっている。しかし、それを表現することが恥ずかしく、そして下手くそでいい関係を築けない。すぐに引き返してしまう人もいる。

甘えた経験が少ないと、この「恥ずかしさ」との闘いも多い。人との関係を築くときとても障害となる。

特に身内ともなると、大切だ、とは思っているが、それを当たり前のように表現できない。

幼稚園の年長さんのころ。園で飼っていた小鳥が亡くなってしまった。仲のいい友達数人という限定されたメンバーで、先生と一緒にお墓を作って埋めることとなる。

私はこの時、この小鳥にどうやって寄り添っていいのかわからなかったし、亡くなってしまったものへの尊厳ある対応方法がわからなかった。
友達や先生がそっと小鳥を埋めていく。その空気に私は入れなかった記憶がある。

この空気に入れない戸惑いも記憶にあれば、同時に、選抜メンバーが先生から呼ばれて、みんなとは違う特別なことをしている、という優越感の方が勝ってしまっていた。

大人になってもこの時のことはよく思い出す。亡くなった小鳥へ思いを寄せることに集中できなかった私がいたこと。さらに子供を持つようになり、こんな子にはなってほしくなくと思い続けている。

優越感と小鳥に心を寄せる恥ずかしさ、これが当時あった気持ち。

「恥ずかしさ」とは、私には、私の行動に対して相手が純粋に受け止めてくれず、ちょっと茶化したような反応をするのではないか、というところからくるものだった。

記憶にはあまりないけれど、母親は子供に対してあまり子供目線で話しをしないし、父親はさほど育児に積極的じゃなかったから、子供の反応にクールに対応しすぎたのではないかなと思っている。それが、私の「恥ずかしさ」に繋がっているのかもしれない。

「大好き」「かわいそう」「悲しい」「寂しい」「離れたくない」などの気持ちを伝えると、そんなこと言って、お姉ちゃんなのに恥ずかしい・・・こんな言葉が返ってくることをいつも想像していた。

祖母が亡くなった時。とても遠方に住んでおり、お正月の時にしか会わない人だった。
近年は私の親が実家に行かないこともあり、疎遠だった。

母親からお葬式は子供だけでするから、孫までは来なくていいと言われ、参列しなかった。
これに対して、特別違和感はなかったし、それならいいや程度であった。

しかし、一番上の従兄のお兄ちゃんは違った。
家を出るまで、祖母の家の近くに家があり、面倒を見てもらうことも多く、また自らも祖母の家に行くことがあった。
おばあちゃん、としての関係性ができていたのだろう。同じく、葬儀には参加しなくていいと言われたが、不満を漏らし、納骨には行くと言っていたらしい。

それを母親から聞く私は、不思議そうに、「へー」というと、「そりゃ、たくさんお世話になったしね」と言う。

関係性のある人を大切にし切る、それをだれにでも伝えることが私にはとてもエネルギーがいる。
従兄は子供のころ、両親に加え、祖父母という甘えられる場所があり、それをきちんと感じて育ってきたのであろう。

いつも仮にと思う。1歳で別れてしまったこの溺愛してくれた祖父が、私の記憶のある限り生きていてくれたら、私は他人と関係を持つことに対して、もっと素直に行動できるようになっていたのかな、と思う。

そして、人に溺愛されるってどんな感じなんだろうと、想像できない思いをいつも抱く。

自分の子供には、私のような思いをしてほしくないから、子供のころを思い出して、本人が表現してきたことについては、子供の目線で受け止めようと、ここだ!!と、頭で変換させてから行動している。
100%はできていないけれど。そう、まだ反射的に、自然にはできない。

頭の中で、抱きしめてあげるんだ、好きって言ってあげるんだと、切り替えをしてからじゃないとできない。

しかし、ぼちぼちはやっていられない。子供はどんどん成長している。

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