短編小説「蒼桜」
※短編小説となります。
※桜が咲く田舎の駅舎を舞台にした、とある少年少女の出会いと別れの物語。曰くつきの桜にまつわる謎に触れていく、ちょっと不思議なヒューマンラブミステリー。
※人間ドラマ、いいお話、感動系、恋愛が絡んだ作品です。
※この作品は「小説家になろう」「カクヨム」でも掲載しています。
第1話 黄昏時のお茶会
「急がないと」
参考書が詰まった手提げ鞄を抱えながら、駅前広場を駆けていく。
空を見上げると、薄紫色の黄昏空に朧月おぼろづきが浮かんでいた。
俺が隣町にある学習塾へ通うようになったのは、高2の秋頃だった。
俺の地元は頭に『ド』が付くほどの田舎だ。
電車が来るのは2時間に1本。
夕飯までに自宅へ戻るには、夜6時の最終電車に飛び乗る必要があった。
「やっと着いた」
ほどなくして、おんぼろな駅舎が姿を現した。
赤いトタン屋根が特徴的な駅舎の入り口には、『さくらぎ』と駅名が書かれた看板が掲げられている。
駅舎の壁も柱も木製だ。白色のペンキが所々剥がれかけており、茶色い地肌を覗かせていた。
「あれ?」
駅前広場に差しかかったところで、俺はおかしな光景を見た。
広場の中心には、大きな桜の木が植えられていた。今はまだ蕾の状態だが、数日もすれば綺麗な桃色の花が広場の空を覆うことだろう。
そんな桜の前には、白いテーブルと白い椅子が二脚設置されていた。
テーブルの上には、白磁のティーポットとティーカップが置いてある。
カップの数はひとつ……いや、ふたつ?
「ん…………?」
急に視界がぼやける。まぶたを擦り、ティーカップに焦点を合わせると――
「え…………?」
ティーカップを手にした、女の子の姿が目の前に現れた。女の子は紺色のセーラー服に身を包み、艶のある黒い長髪を夜風に揺らしている。
「え? え? どうし、て……」
女の子はテーブルに腰かけて、驚いたように俺の顔を見つめている。
か細い声で疑問を口にしながら、手にしたカップを傾けて――
「きゃあっ!?」
カップの中身をテーブルにこぼしてしまった。
「大丈夫!?」
俺は慌てて駆け寄り、女の子にハンカチを差し出した。
「あ、ありがとうございます」
女の子はお礼を述べると、恭しくハンカチを受け取って――
「私の姿が見えるんですか!?」
女の子の動きが止まる。紅茶をこぼした時よりも、大きな声をあげて。
「そりゃあ見えるけど……」
「ああ、よかった……。本当に私の声が聞こえるんだ。お話ができるんだ……」
女の子は目に涙を浮かべた。泣きながら嬉しそうに微笑んだ。どうしてこの子は泣いているのだろう。どうして俺を見て微笑んでいるのだろう。
何もわからないけど、この子の顔を見ていると、どこか懐かしい感じがして。
「はい。そこまで」
俺と女の子が見つめ合っていると、駅舎の方から男物の礼装――燕尾服えんびふくに身を包んだ女性が現れた。女の人は背が高く、真っ黒な髪を頭の後ろで結い上げて馬の尻尾のように揺らしている。
怪しげな雰囲気の女性は、手にしたタオルを女の子に投げると、やれやれと肩をすくめた。
「積もる話はあとにして、まずはテーブルを拭きたまえ。誰の許可を得てここでお茶会を開いてると思ってるんだい?」
「あっ、ごめんなさいっ」
「俺も手伝うよ」
テーブルを綺麗に拭いたあと、お礼ということで俺もお茶会に誘われた。
ここで誘いに乗らないのも失礼だろう。俺は不思議とそう思い、女の子の向かいの席に座った。
「自己紹介がまだでしたね。私の名前は……サクラザキです。桜崎春子」
春子と名乗った女の子は、様子を窺うように上目遣いで俺の顔を見つめてきた。
「春子……」
「レディーに名乗らせておいて自分は名乗らないのかな?」
「あっ! ごめん」
給仕をしている燕尾服姿の女性に促され、俺は慌てて自分の名前を名乗った。
「俺は四葉ヨツバ。四葉徹トオルって言うんだ」
「トオル、くん……」
サクラザキさんは胸に手を当てて、俺の名前を小声で呟く。まるで大事な宝物を胸の奥にしまい込むかのように。
一方、燕尾服姿の女性は親しげにウインクを浮かべた。
「ボクの名前はアオ。気軽に『アオちゃん』と呼んでくれてかまわないよ」「わかりました。アオさん」
「あはは。トオルくんはお茶目さんだなぁ。気に入ったよ」
さん付けで呼んだら、アオさんは狐のような吊り目を細めて楽しそうに笑った。
「冷める前に紅茶をどうぞ」
「いただきます」
サクラザキさんに続いて、俺も紅茶をいただく。紅茶を口に含んだ瞬間、口の中に果実系のほのかな甘みが広がった。新緑のような爽やかな香りが鼻を抜けていく。肩の力が抜けていくようだ。
俺はスッキリとした気分でアオさんに感想を述べた。
「美味しいです、この紅茶。この香りは桜……ですか?」
「ご名答。ダージリンをべースに桜の花をフレーバーに使った特製の紅茶なんだ。ボクもお気に入りでね。よく春子ちゃんに……」
アオさんはそこまで言うと、慌てたように腕時計を見た。
「おっと! もう時間だ。今日の最終便がくる。トオルくんの帰る場所はここじゃないだろう? 乗り遅れないようにね」
「あっ! そうですね」
電車に乗り遅れそうだったから急いでいたんだ。呑気にお茶をしている余裕はない。
「紅茶ありがとうございました、アオさん。それじゃあ、えっと……」
俺は慌てて席から立ち上がりアオさんに礼を述べる。それからサクラザキさんに声をかけた。
「またね、サクラザキさん」
初対面の女の子にどう声を掛けていいかわからず、俺は曖昧な笑みを浮かべる。
「はい。また…………」
サクラザキさんは頬を緩めて、柔らかな笑みを返してくれた。
その笑顔を見て、俺の心は訳もわからず締めつけられる。それと同時に疑問も生まれる。
――サクラザキさん。
何もない所からいきなり現れたキミは、いったい何者なんだ?
第2話 お茶会を開く理由
翌日の夕暮れ時。俺は早めに塾を出て駅前広場へ向かった。
広場では今日も、サクラザキさんとアオさんがお茶会を開いていた。
「やはりまた来たか。さあ、席に座って」
促されるまま、サクラザキさんの向かい側に座る。席はひとつ。椅子は二つ。カップも二つ。アオさんは厄介そうに目を細めていたが、俺のために席を空けてくれていたようだ。
「サクラザキさんは、どうしてこの場所でお茶会を開いているの?」
先日の一件、冷静に考えるとおかしなことばかりだった。どうして、夕暮れ時の駅前広場でお茶会を開いているのか。アオさんが淹れてくれたホットミルクティーを飲みながら、単刀直入に訊いてみた。
「えっと……もうすぐ桜が咲きますからお花見しようかなと」
サクラザキさんはカップを手にしたまま右に左にと目を泳がせた。
「桜はまだ三分咲きだよ? お花見するならあと数日は待たないと」
それに時間帯が悪すぎる。日が落ちかけた黄昏時に花見をしても、桜の魅力は半減するだろう。夜桜としゃれ込むには灯りの数も少ない。この辺りにある唯一の光源は、駅の看板を照らし出すスポットライトだけだ。
「他に理由があるんでしょ」
「そ、それはその~」
「春子ちゃんを虐めるのはそれくらいにしてあげて」
サクラザキさんが冷や汗をかきながら困っていると、駅舎の方からアオさんが姿を現した。その手にはスコーンが乗せられた大皿を持っている。
「お茶請うけのスコーンだよ。日が経ってちょっとパサパサしてるけど、食べる分には問題ない。ありがたく頂戴しよう」
「いただきます」
クロさんに促され、俺とサクラザキさんは同時にスコーンに手を伸ばした。しっとりとした生地を噛んだ瞬間、歯の上で干しぶどうがプチリと潰れて、甘い匂いが口いっぱいに広がる。
「美味しいね、このスコーン」
乾燥してパサパサしているとアオさんは言っていたが、十分に美味しかった。アオさんの淹れる紅茶もお菓子も、俺はすっかり気に入ってしまった。
目を輝かせながらサクラザキさんに話を振ると、サクラザキさんは我が事のように喜び、はにかんだ笑顔を浮かべた。
「ふふっ。よかった。私もこれ好きなんです。気に入ると思ってお供えを……」
「お供え?」
「あっ! なんでもありませんっ」
サクラザキさんは誤魔化すようにカップに口を付ける。
嘘が下手な子だな。だけど、お供え物ってどういう意味だろう?
俺が首を傾げていると、アオさんが説明を始めた。
「先ほどの質問だけどね、広場でお茶会を開いていたのは駅とお別れをするためさ」
「お別れ、ですか?」
「トオルくんは掲示板を見ていないのかな。この駅は4日後に取り壊されるんだ」
「ええっ!? そんな急に! 何も知らなかったですよ!?」
「トオルくんはいつも急いでいたからね。張り紙が目に入らなかったのだろうよ」
アオさんはそう言って、駅舎の入り口脇に掛かっている掲示板を指差した。
近づいて確認してみると、4日後に解体業者が取り壊し工事を行うことが書かれた張り紙が貼られていた。嘘だと思いたかったが、いくら目を擦っても掲示板の張り紙は消えなくて。
「そんな……」
「トオルくん……」
サクラザキさんは狼狽する俺を心配してか、そっと近づいて声をかけてくる。肩を撫でようと手を伸ばすけれど、首を横に振って項垂れた。
「駅の取り壊しは決定事項みたいです。地元でも反対意見は少なくて……」
「この駅は利用者がまるでいないからね。人を呼べるような観光スポットもない。終電を使うのもトオルくんくらいなものだ」
「取り壊しが決まったことを知り、お別れをするために顔を出したんです。アオさんもこの駅には思い入れがあるから、一緒にお茶をしようと誘われて」
「そこに偶然、俺が現れたわけか」
「そういうことさ。偶然かどうかはさておきね」
俺の言葉を受けて、アオさんが意味深に片目を瞑る。
「一人寂しくお茶を飲むより、思い出を語る相手がいた方がいいだろう。だから二人を誘ったのさ」
アオさんは俺とサクラザキさんの間に入り、二人の肩を優しく叩いた。
「取り壊しまで日も短いが、他愛もない話でもしながら昔を偲しのんでくれたまえ。それでこの子も浮かばれるだろう」
「そうかもしれませんね」
俺だってこの駅の利用者だ。このお茶会が駅舎の別れを惜しむものであるなら、俺が参加することにも意味があるだろう。
第3話 満開の桜の下で
それから3日が経過して、いよいよ桜の花が満開となった。
不思議な出来事だって毎日のように経験すれば、それが”普通”になる。気がつけば、終電前に広場でお茶をするのが俺の日常になっていた。
「サクラザキさんはこっちの町に住んでるの?」
さくらぎ駅があるこの路線は単線で、上下線ともに1番ホームに電車が停車する。最終電車にもかかわらず、サクラザキさんはいつも俺を駅から見送っていた。地元に住んでいて、電車に乗る必要がないからだろう。
そう推理して話を振ってみると……。
「実は、一度もこの町から出たことがなくて」
サクラザキさんは苦笑を浮かべながら、こくりと頷いた。
「ウチの親は厳しくて。独り立ちできる年齢になるまで、町の外に出るなと言われてたんです」
「ウチと同じだね。卒業してもウチから大学に通えって言われてる。そんなの無視して一人暮らしするつもりだけどさ」
「トオルくんはお強いんですね。私にはそんな勇気ありません」
「別に強くないよ。親が怖くて秘密にしてるくらいだから」
サクラザキさんは目を輝かせながら、真摯に俺の話を聞いてくれる。だから、ついプライベートなことまで喋ってしまった。
サクラザキさんとは、いろいろなことを話した。駅に関する思い出話の他にも、進路や学校での悩みなどを打ち明けた。
これまで人に悩みを打ち明けたことはなかったのだけれど、サクラザキさんが相手だと不思議と口が軽くなった。まるで旧友を相手するみたいに。
けれど、ひとつだけどうしても訊けなかったことがある。
――サクラザキさん、キミの正体は?
それを訊いてしまったら、この居心地のいい場所が永遠に失われるような気がして……。
「私、この駅が好きだったんです」
サクラザキさんは空のカップをテーブルに置くと、オンボロな駅舎を見上げながらぽつりと呟いた。
「誰もいない夕暮れ時、ホームにあるベンチに座ってよく本を読んでいました。昔から空想するのが好きで、数時間おきにやってくる電車にもう一人の自分を乗せて旅をさせるんです。それがこの土地に縛られている私の唯一の楽しみで……」
「サクラザキさん……」
「私だけの時間はもうすぐ終わりを迎えます。でも、最後にもう一度だけ逢いたくて。だから、アオさんに頼んでお茶会を開いてもらったんです」
「もう一度逢うって、誰に?」
「それは……」
サクラザキさんは正面から俺の目を見つめる。涼やかな風が吹き、俺達の頭上に咲く桜の木がザワザワとざわめき出した。
気がつけば空は薄紫色に染まり、太陽が落ちて月が顔を出していた。
逢魔が時。昼と夜の境界の時間。薄紅色の花を咲かせているはずの桜は、すべての花弁が蒼く染まっていた。
「うっ……!」
ズキリ、と頭に激痛が走る。痛みと共に、脈絡もなく目の前に浮かび上がるモノクロの景色。
――――人気のない駅のホーム。ベンチに腰掛けている誰かの姿。
その人影は、風に髪をなびかせながらこちらを振り向く。
どこか不安そうな、だけど嬉しそうな控えめな笑顔。
やがてホームに電車が入ってきて、その子は――――――
「トオルくん?」
春子ちゃんに声をかけられて我に返る。
「春子、ちゃん…………」
桜崎春子――そうだ。俺は前からこの子を知っていて。
「…………」
春子ちゃんは俺の顔をじっと見つめて。
「少し……付き合ってくれますか?」
第4話 モノクロの景色
春子ちゃんは俺を駅のホームに誘った。電車はまだ来ない。駅員の姿もない。無人のホームだ。
「貸し切りみたいですね」
春子ちゃんは両手を広げながら、ホームの白線沿いを歩く。
「そんなところを歩いたら危ないよ」
「平気ですよ。ここで過ごすのは慣れっこですから。……あっ」
春子ちゃんの短い悲鳴。ふと目を離した隙に、春子ちゃんの姿が消えた。
「春子ちゃんっ!?」
慌てて駆け寄り、ホームの下を覗き込む。
するとそこには笑顔で俺を見上げる春子ちゃんの姿があった。
「ほらね。大丈夫だったでしょ」
「はぁ……驚かせないでよ」
思わず溜息が漏れてしまう。ホームから”落ちる”なんて縁起でもない。
「トオルくんもこっちへ来てください」
「でも……」
春子ちゃんは線路の上に立ちながら、笑顔で手招きしてきた。
線路に下りるなんて危険すぎる。電車が来たらただ事では済まない。俺の中の常識が警鐘を鳴らす。
「大丈夫ですよ。もう電車は来ません」
春子ちゃんは笑顔のまま線路の上を歩き出す。
「どうなってもしらないからね」
放っておいたらどこまでも行ってしまいそうだ。俺はため息を吐いたあと、慌てたように線路へ下りた。
「トオルくんは知っていますか? 広場の桜にまつわる噂話を」
「桜の木の噂話?」
春子ちゃんは両手でバランスを取り、レールの上を器用に歩きながら続きを話す。
「駅が建っているこの場所には元々神社があったんです。今からおよそ140年前、鉄道工事の関係でお社は別の所に移されたんですけど、あの桜だけは残されました」
「その話なら聞いたことあるかも。そのまま駅のシンボルになったんだっけ」
「はい。さくらぎ、という駅名も桜の木が由来です」
「思い出した。桜にまつわる怪談話もあったよね。工事に反対した宮司の娘さんの死体が木の下に埋まってて、祟りを恐れて植え替えができなかったとか」
『桜が綺麗な花を咲かせるのは死体が埋まっているから』という、よくある噂話の派生だろう。
桜は開花から散るまでの期間が短く、その儚さから”死”の象徴とされている。桜の神様があの世とこの世の橋渡しをしてくれる、なんて噂もあって……。
「あれ……?」
おかしいな。そんな怪談話、いったい誰に教わったんだ? ついさっきまで桜に関する噂について、まるで覚えていなかったのに。
俺が自分自身に対して疑問を抱いていると、春子ちゃんはどこか悲しげに目を伏せて微笑んだ。
――モノクロの景色の中、あの子が浮かべていたのと同じ表情を。
「人の口に渡るたびに噂はその内容を変化させます。根も葉もついて綺麗な花が咲く頃には、桜に祈ることで遠くに離れてしまった想い人と再会できる……なんて話がまことしやかに囁かれるようになりました」
「遠くに離れてしまった想い人……」
「奇跡が起こるのは桜が蕾をつけ、散っていくまでの短い間だけ。その人との思い出を捧げることで、神様は願いを叶えてくれるのだとか」
「待って。キミはもしかして……」
ズキリ、と頭が痛み出す。
記憶から消していたモノクロの光景。
ホームで誰かを待っていた女の子。忘れてしまった、あの子の名前。
「短い間でしたけど、お喋りができて嬉しかったです。アナタとお茶をするのが私のささやかな夢でした」
レールの上を歩いていた春子ちゃんの姿が霞んで見える。
春子ちゃんの背後から、ヘッドライトをつけた電車が迫っていた。
「春子ちゃん!」
俺は駆け出して、春子ちゃんに手を伸ばす。
けれど――
「さようなら、トオルくん。アナタのことが好きでした」
春子ちゃんは泣き笑いの表情を浮かべ、光の中に消えた……。
第5話 別れの日
「お目覚めかい?」
「ここは……」
まぶたの裏に陽光を感じて、ゆっくりと目を覚ます。いつの間にか俺は、ホームのベンチで横になっていた。
身を起こして周囲を確認すると、アオさんが両手にティーカップを持って佇んでいた。アオさんの背後、ホームの東端からは目映いばかりの朝陽が差し込んでいる。
「目覚めの一杯をどうぞ。今日はローズヒップティーだ」
「ありがとうございます」
カップを受け取って紅茶を一口。身も心も暖まる。
「いよいよ今日だね。お別れは済ませたかい?」
「そうですね……」
ティーカップを片手にアオさんが訊ねてくる。俺はベンチに深く腰掛けて、ゆっくりと息を吸った。
こうして目を瞑れば、すべての出来事を思い出すことができる。
春子ちゃんとの出逢い。そして別れを――
春子ちゃんと出逢ったのは高校2年の秋、塾に通い始めてまもなくの頃だった。
彼女はホームのベンチに腰掛け、いつも一人で本を読んでいた。電車が来ても乗らずに、寂しそうな顔で見送る。そんな不思議少女のことが少しだけ気になっていた。
初めて春子ちゃんと話をしたのは、木枯らしが吹く頃。
本に挟んでいた栞が風にさらわれて、慌てて追いかける春子ちゃん。俺が栞を拾って返すと、何度も何度も頭を下げてお礼を言っていた。そのことがきっかけになって、彼女と話をする機会が増えた。
それから他愛もない話題で盛り上がり、くだらない冗談で笑いあった。本を貸し合い、栞に互いの想いを綴ったりして密かな逢瀬を楽しんだ。
彼女とはいつも駅のホームで別れを告げた。
春子ちゃんの家はしつけが厳しく、町の外に出ることを禁止されていた。駅のホームに通い詰めていたのは、彼女なりの抵抗だったのだろう。
当然、男と会うのも禁止されていた。だから、俺達の関係はみんなに内緒だった。いつか一緒に都会に出て、今時の若者が通うようなお洒落なカフェでお茶したいね、なんて夢を語り合ったりもした。
いつまでも続くかと思われた二人きりの時間は、ある日終わりを告げる。彼女にとっては突然に。俺にとっては必然に。
――あれは今からおよそ60年前。1960年代のことだ。
春子ちゃんは女学校を卒業後、地元有力者の家に嫁入りが決まっていた。
狭い田舎だ。噂が広まるのも早い。”間男”との密会がバレた春子ちゃんは家に閉じ込められ、冬が終わり春が来ても、夏が過ぎて秋になっても、駅に顔を出さなかった。
季節が一巡して、俺は受験を終えた。
戦後の復興を成すのはおまえだ。日本国の礎になれ……と軍人気質が抜けない親に厳しく教育され、死に物狂いで勉強した。
苦労の甲斐もあって、俺は東京の大学への進学が決まった。大学卒業後、親の言いつけ通り馬車馬のように働いた。高度成長期の波に乗り、それなりの賃金を貰い、幸せと呼べる家庭も築いた。
それから何十年か経ち、子供達も結婚して孫も生まれた。老い先短い人生。唯一の心残りがあるとしたら――
「春子ちゃんに別れを告げていないことだ」
だから、俺はこの駅に戻ってきた。
学習塾で勉強して、駅のホームへ向かい、春子ちゃんと話をする。少年の姿に戻り、眩しかった青春の1ページを繰り返し続けていた。
「遠く離れた想い人、か……」
この土地に縛られていたのは春子ちゃんではない。俺の方だった。
俺はしわがれた自分の手を見つめたあと、枯れた声でアオさんに訊ねる。
「アオさんの正体は桜の木の神様……ですか?」
「好きに想像するといいさ」
アオさんはいつものように目を細めて微笑む。
「ボクはこの場所で出会いと別れを見守り続けてきた。けれど、たまに道に迷う子が現れるからね。そんなとき、そっと背中を押してやるのがボクの役目さ」
アオさんはどこからともなく駅員の制帽を取り出して頭に被った。それから腕時計を確認する。
「そろそろ出発の時間だ。今度こそ乗り遅れないようにね」
「はい」
ホームの先、線路の向こうから光が迫ってくる。
車体は確認できないが、それが”最終”であることは理解できた。
心残りがあったが故に、この駅で彷徨さまよい続けた。けれど、これでやっと旅立てる。
「さようなら、春子ちゃん――」
第6話 桜舞う青空
正午過ぎ。私が到着した頃には、すでに駅の解体作業が始まっていた。
工事用のフェンスの向こう側から、建物を壊す重機の駆動音が聞こえてくる。せめて最後に駅舎の中を見て回ろう、なんて淡い期待は露となって消えた。
「けれど……ええ。これでよかったのかもしれないですね」
私は広場に咲く満開の桜を見上げて、そっと微笑む。
すでにお別れは済ませた。なら、立ち止まることはない。あの人との思い出は、今もこの胸の中にある。
トオルくんが東京の大学に進学した頃、私は地元で式を挙げた。それ以降、『サクラザキ』という姓を名乗ることはなかった。
夫は優しい人で、子供も二人生まれた。何不自由のない暮らしが続いたけれど、心の何処かで引っかかりを感じていた。
さくらぎ駅は、今も昔も私を優しく迎え入れてくれる。
子育てが終わって自由を得た私は、ポットに入れた紅茶と自家製のスコーンを持って駅に通った。電車に乗るわけでもなくお茶をして、日が暮れるまで本を読む。いつかのようにホームで待っていたら、あの人が帰ってくるのではないか。そう思って。
そんな私の空想は、ひょんなことから実現してしまう。
――遠くに離れてしまった想い人と再会できる。
駅舎の取り壊しが決まったこともあり、一縷いちるの望みを賭けて桜の木に願った。すると、どこからともなくアオさんが現れてこう言ったのだ。
『紅茶とスコーンを恵んでくれるかな? それでキミの願いを叶えよう』と。
それから始まった奇跡の数日間。
再会を果たしたあの人は、出逢った当時の姿のままだった。彼の目には、私はどう映っていたのだろう。
「ありがとうございました。そろそろ行きますね」
桜の木にお礼を述べて広場から離れる。
風が吹き、桜の枝葉がサワサワと揺れた。ふわり、と目の前にハンカチが飛んでくる。
「これって……」
見覚えがある。トオルくんと再会した日、紅茶をこぼした私に彼が差し出してくれたハンカチだ。
ハンカチを拾い上げる。ハンカチは半分に折りたたまれていた。広げてみると――
「栞……それにこの字は」
古びた栞に綴つづられていたのは、互いに向けた愛の言葉。今となっては恥ずかしさを覚える、少女時代の思い出。あの人が投げかけてくれた言葉は、今も私の胸に深く刻まれている。
けれど、栞には記憶にはない新しい言葉が綴られていた。見覚えのある、あの人の字で。
――さようなら。いい夢を、ありがとう。
桜舞う青空を見上げて微笑む。ひらひら舞い散る淡い桃色の花弁がとても綺麗だ。
駅の跡地には、本格的な紅茶を出す喫茶店が出来るらしい。店長はおそらく礼服が似合う長身の女性に違いない。
オープンしたら、茶飲み友達を連れて遊びに来ようと思う。昔好きだった、あの人の話でもしながら―――
了
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