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「ま、いっか」の先生 [機能性ディスペプシア闘病記-2]

前回、それなりに暗い感じで少年時代を綴ってしまったけれど、僕としてはあの環境が普通であった為、体感としてはそこまで苦痛ではなかった。

まだ他の家と比べて我が家が変わっている、ということも認識していなかったからかもしれない。

小学1〜3年くらいはそれでも引っ込み思案で、おとなしい子だった。
勉強の成績もあまり良くなく、パッとしない印象だったろう。

小2の頃、仲の良かった同級生が、成績不振を理由に担任から怒られていた。
「もっと頭のいい子を見習いなさいよ!ほら、頭のいい子、誰がいる!?」
女性教諭が訊いた。彼は
「そらの空き地くん」
と答えた。先生は
「何言ってんのよ!あの子なんかただのバカじゃないの!!
とバカにしたように笑った。

完全な巻き込み事故じゃねーか!!!!
その通りなんだけどさあ!!!!

悔しかったけれど、その言葉をきっかけに勉強に励むようになった。

小3の頃に、小児麻痺の少女がいじめに遭っていた。
僕はその雰囲気が嫌だったので、クラス中の子が彼女に暴言を吐いても、絶対に加担しないと決めていた。

けれど1度だけ、男子が彼女の悪口を言っている場面で、話を広げて乗っかってしまった
その時の、喉が詰まるような罪悪感はいまだに忘れていない。

彼女へのいじめが表沙汰になって、クラス会議が開かれた。
担任が、悪口を言ってない子はいないのか、彼女に問いただした。
「そらの空き地くんは言わなかったです」
と彼女は言っていたけれど、僕は例の一件が露呈しないか、不安でたまらなかった。
その場にあの男子もいたからだ。
結局、僕の悪行をバラされることはなかったけれど、今日から絶対に陰口は言わないと心に決めた。

不登校の男子と仲良くして学校に連れてきたり、チック症でいじめられてた男子と仲良くなって症状の軽減に寄与したりと、教師に感謝され始めたのがこの時期だ。
本人としてはただ彼らと遊びたかっただけで、特に良いことをしたとも思っていなかった

ちょうどスーパーファミコンからプレステへとゲームの技術革新が著しい時期で、周囲は夢中になっていた。
僕はあまりゲームに関心を示さず、公園でどんぐりを投げて木にぶつけて遊んだり、プールでいきなり2km泳ぎ出したり、マイペースに遊んでいた。

ボケットビスケッツ」なんて名前のエアバンドを結成して、アスレチックでギャーギャー替え歌を歌ったりした。
当時流行の「ポケットビスケッツ」のパロディである。

家では漫画を描くのに熱中していた。
手塚治虫藤子不二雄が大好きで、「ブラックジャック」のパロディで「ブラックダック」なるものを描いた。
代表作である。
無免許医のアヒルが、気合いだけで患者を治療する物語である。
アニマル浜口に近いキャラだった。

反戦、文明批判、環境問題など、わりと大人っぽい作品も描いた覚えがあるけれど、全て捨ててしまってもう読めない。

どちらかというとストーリーを作る方が好きで、絵を描く作業の数十倍の速さで物語が脳内展開されるので、追いつかなくなっていつしか辞めてしまった。

小5〜6にかけての担任が、僕をとても買ってくださり、卒業式の指揮者など目立つステージに積極的に立たせてくれた。
確か、学級委員や生き物係、栽培係など、不人気な役割をいつも買って出ていた姿勢を評価くださったように思う。
自分としては、さっさと話し合いの時間を終えたかっただけなのだけれど。

この担任は、僕らの卒業に際して、文集に「ま、いっか」と大きな字で書いた。
みんな、先生がふざけてるのかと大笑いしたけれど、先生は妙に神妙な顔つきで
「今はおもしろがっているかもしれないけれど、いつかこの言葉が必要になる時が来るから、覚えておいてほしい」
とおっしゃった。

時々、思い悩んだときに、先生の横顔とあの言葉を思い出す。


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