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土佐日記

『土佐日記』
紀貫之
成立時期は未詳 934年後半〜935年頃

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「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年(承平四年)のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。」

(男の人が書くという日記というものを、女である私も書いてみようと思う…。)

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有名な書き出しで始まるこの日記の作者は、実は男性でした。書いたのは紀貫之。古今和歌集の編纂にもあたった、平安時代を代表する宮廷歌人の一人です。
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「かくあるうちに京にて生れたりし女子(子イ無)こゝにて俄にうせにしかば、この頃の出立いそぎを見れど何事もえいはず。京へ歸るに女子のなきのみぞ悲しび戀ふる。」

(人々は楽しそうに出発準備をしているが、何も言う気が起こらない。子どもを連れて帰れないことばかりを悲しんでいる。)

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「土佐日記」は、仮名で書かれたエッセイ。歌が織り込まれ、情景描写も優れているし、憂鬱を乗り越える心持ちも語られている。・・・突き詰めたら「自慢話」かもしれない。
ですが。
当時、男性が日記を書くときは「漢文」でした。悲しみを漢文で表そうとしても、「悲也」「涙如雨」・・・など二文字、三文字にしかならない。土佐で亡くなった子を思う場面には、深い親の悲しみが描かれています。
紀貫之は悲しみを表現したく「仮名」を使うことを。
その「仮名」を使う女性になりすますことを。
試みたのだ、と思うのです。

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