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ライターです。と名乗ること

肩があまりにも重いので、憑きものを取るくらいの気持ちで銭湯へ出掛けた。

サウナで汗をかいて、水風呂の冷たさにおびえながら浸かり、フー ハーと深呼吸してサッパリ。脳みそを丸洗いしたようなスッキリ感に満足し、湯で温まって銭湯を出た。

お風呂上りに牛乳を飲もうと畳でまごまごしていたら、番頭のお兄さんが「ここで飲んでいいよ」と声をかけてくれた。
湯上りで機嫌の良かった僕は、番頭さんに「釜ヶ崎の方ですか?」と話しかけた。そのまま談話になり、お兄さんが自分と同い年であることや、お風呂屋さんで働き始めて2ヶ月になることを知った。

銭湯の帰り道、お兄さんに「学生さんですか?」と聞かれたときに、「ライターをやっています」と答えたことをふと思い出していた。

お金を少しでも手に入れようとした6月。自分のやりたくないことをやろうとしてもできないんだなあ、と改めて感じた。
それでも生きていくためにはお金が必要で、お金のためには働かないといけない。仕事をしよう、と考えるとどうしても出てくる選択肢は文章を書くことだった。

ライターを始めて、生活のための仕事も始めて、辞めて、仕事自体ができなくなっていって。ちょっと休んでの今。
今はゲストハウスで滞在しつつ、ライターの仕事をしたり、日々の文章を書いたりして生きている。

去年1年の挫折を経て、ようやくわかったことが多々。

ライターと言っても仕事は様々、文章のカテゴリも多様。ライターは「文章を書く」という定義しかされていない。
1年はされど1年。同年代が新卒で働いている間に正規雇用されていない中で生きる焦り。それでも、ライターの仕事をしてよかった。無駄じゃなかったと感じたこと。
たかだか1年ライターの仕事をしているだけではまだまだクオリティが追いついていない。実力不足の歯がゆさ。
そもそも、文章を書く人でありたいと願いつつ、ライターと定義されたくないな、と思うモヤモヤ。

そういう諸々が一緒くたになって、自分を飲み込んでいく感覚を覚える。

今、本気で文章を仕事として生きていこうと決めたからこそ、考えてしまうことがあって。ワーッとなりながら、そういう時はとりあえず溜め込まず正直に文章を書くようにしている。

前まではやりたくないこともやって、文章を書く時間が減っていって、果たして自分を文章を書く人だと言っていいのかも自信がなくなっていて。あんまり健全とは言えない状態だったから。

とりあえず書こう、とは決めたもののそれはそれでモヤモヤ。

他人の文章が評価されることに嫉妬したり、誰かが表現に対して才能を見せたときも嫉妬するし、自分の文章能力が自分の期待しているレベルに届かなくて悔しいし。

文章は日常にあるものだ。必ず、日々の生活で誰しもが触れるものだと思う。
これを仕事にするということは、日常行為を仕事にすることだと僕はとらえている。
表現をする、創造する行為も全部ひっくるめて、そのものをやっている人間だと、僕は名乗りたい。

おそらく、自分の名乗りたい名称はライターではないことはわかっていて、もっと相応しい言葉を探している。
そもそも何かに縛られたり、囚われる自分が定義づけられることはあまり好まないのだけれど。唯一、それでも名乗りたい名前がどこかにあるのだと思う。
まだその名前は知らないが、今もこの先も胸を張って「文章を書いています」と言い切れる人間でありたい。



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