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【小説】Lento con gran espressione(3)

 お客さんが頼んだぶんだけコーヒー豆を挽く。アルコールランプに火をつけてフラスコに入った水を加熱する。サイフォン式の入れ方で、気圧の変化で上部のロート部分に下で沸かしたお湯を移動させるやり方だ。この入れ方はレインドロップの名物だった。カウンターにいるお客さんはその作業を眺めながら、会話を楽しんだりぼけっとしたりすることが多い。わたしたち店員もよく遠くから眺めている。
 夜の十時になった。わたしと春菜ちゃんはテーブル席担当で今はお客さんがいない。接客することはなかったから二人で壁に寄りかかってカウンターを見ていた。いつも火曜日に来るお客さんが一人いる。来るようになって半年が経つだろうか。
「やっぱミュージシャン?」
 と春菜ちゃんがわたしに訊いてきた。
「さあ?」
 とわたし。
「声、かけちゃえばいいのに」
「できるわけないでしょ」
 わたしたちが、ひそひそ話をしていると、カウンターにいる益子くんがわたしにウィンクした。「こっちにおいで」という意味だ。 思いっきり腕を使って「いいです!」と叫ぶ。すると益子くんががっくりした表情を作った。
 年の功は二十二,三。プラチナブロンドに染めたくせっ毛で、小さい顔に切れ長で大きな瞳。しっかりした鼻。童顔だけど太くて黒い眉毛が男らしい。そのアンバランスさが魅力的な人だった。今日は、だぶだぶんな紺のセーターを着ている。首元には女物のネックスレスを複数。耳にはイヤーカフ。そして手元にまっさらな五線紙を置いて、一生懸命な様子で空いているところに鉛筆でおたまじゃくしを書いている。たぶん作曲みたいなことをしているのだ。時々頭をかいて困った顔をする。四苦八苦しているのだろうか。手首を動かすたびにブレスレットのちゃらりっという音がした。
 毎週火曜日のイケメン君⋯⋯。十時から来て閉店の十一時まで座っている。何時もそうだった。
 春菜ちゃんとわたしは、ぽっとした顔をした。
「はかどります?」
 突然、益子くんが彼に話しかけた。わたしと春菜ちゃんはびっくりだ。
 でも彼は驚く様子もなく、にっこりした。
「うん、ここ静かで凄く落ち着くから」
 見た目のイメージと違い、低くて落ち着いた声だった。
「そうでしょう? それが売りです」
 益子くんが、彼のカラになったコップにお水を追加しながら営業スマイルした。
「あ、すいません」
 彼もまたにこりと軽く会釈した。屈託の無いというか、愛想のいい笑顔が、とてもかわいかった。
「おやおやおや、これは大チャンスかもですよ? 今までにない展開⋯⋯」
 春菜ちゃんが小さな声で楽しそうに言ってきた。
「な、なんのこと?」
「益子さんが親しくなれば、ですよ」
 わたしは本当に叫びそうになった。春菜ちゃんが言った。
「ワンチャンあるかも」
 春菜ちゃんが頬を紅潮させた。

 あっという間に十一時になった。残ったお客さんがみんな帰る時間だ。菅野くんがレジから声をかけた。
「芙蓉さん、ちょっと手伝って」
 わたしは慌てて皿洗いの手を止め、レジに向かった。そこにはなんと『火曜日のイケメンくん』が立っていた。菅野くんがにやりと笑った。わたしは真っ赤になるのを感じる。慌てておつりを数えるふりをした。すると彼が
「綺麗ですね、この薔薇」
 と話しかけてきた。それはレジの横に置いてあった洋子さんお手製のブーケのことだった。
「ありがとうございます。オーナーの趣味なんです」
 菅野くんがハキハキと答える。彼はにこにこしながら脇にスポーツバッグをかかえ、お金を払った。わたしはといえば、そのまま帰っていく後ろ姿を見るだけだった。ちりんと扉の鈴が鳴った。
 最後のお客さんが帰ったあと、わたしと春菜ちゃんは顔を合わせて裏手に出た。
「なにあれ?」
「一瞬、綺麗って、なんのことかと思っちゃった」
「お花に興味があるのね」
「もしかして芙蓉さんに話しかけたんじゃない? ナンパ?」
「そんなわけないじゃない」
「まさか」と春菜ちゃんが泣き真似をした。
「まさか、チャラ男?」
「違う違う! まさか!」
「違うよねー」ふたりで合掌した。わたしたちは騒いで、すると中から洋子さんが現れた。
「なにやってんの? 早く片づけないと帰れないわよ?」
「ごめんなさーい」
 促されて春菜ちゃんと一緒に軽やかな足取りで店の中へ戻った。戻ると、みんなにやにやしている。わたしたちは咳払いしたり、愛想笑いした。すぐにテーブルの片づけにかかった。
 小林さんがかしゃかしゃ皿洗いをしながら言った。
「いやー、春菜ちゃんはともかく、さすがに月子ちゃんでもあれには、まいっちゃうのかー」
 どっと、みんなが笑った。
 益子くんが、
「あれはまずい、男でもかわいいなんて思っちゃいますもん」
 春菜ちゃんが嬉しそうに「きゃー」と奇声をあげた。実はBLが大好きなのだ。
「でもなんで、(レジの時呼んだのは)芙蓉さんなんですか? 菅野さん」
 不平不満な様子だ。菅野くんは、ははっと笑った。
「年功序列」フラスコを磨きながら、ぼそっと言う。またみんなが笑った。
「ひどい! 芙蓉さんとは、ひとつしか違わないのに!」
 わたしは恥ずかしさのあまり何も言えなくて、テーブルを拭く手を速めた。洋子さんはといえは、やれやれと言った顔でお店のシャッターを閉めていた。


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