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【小説】Lento con gran espressione(2)

レインドロップは無音だった。音楽をかけないのだ。当然お客さんの声で店内は溢れていた。
「音楽、なんかかけてたほうが紛れていいんじゃないんですか?」
 バイトの菅野かんのくんが以前洋子さんに尋ねたことがある。
 すると薄茶の前髪を指で遮りながら洋子さんは、こう答えた。
「音楽があると余計声を出しておしゃべりするでしょう? それに人が少ないときの静けさが好きなの。一人できてるお客さんにとってもいいんじゃないかな」
 わたしは、なるほどと思った。洋子さんは音楽好きだけれど流さないのにはわけがあるのだ。一人のお客さんにも気を使う洋子さんがやっぱり好きだ。

 この店は都会の真ん中にあるからか平日でもお客さんが途切れることがない。それでも昼になるとテーブル席はだいぶ静まった。こうなってくると、昼食の時間だ。私と菅野くんは二人でエプロンを取って、カウンターの空いてる席に座った。菅野くんは近くの理大の学生で、おもに夜担当だけれど火水、土日と昼間もシフトをいれている。眼鏡がいかにも秀才で、でも気さくで飾らないそして素直な人だ。
 小林さんが嬉しそうな顔をして、フライパンを持ち上げた。
「今日は何食べたい?」
 何時も賄いを作ってくれるのだ。
「おにぎり」
 と私が言うと菅野くんも「じゃあ、僕も」と答えた。すると小林さんは怒った顔をして、
「なんだ、最近の若いもんは、そんなんじゃ力でないだろう? よし、ピラフを作ってやるよ」
 いつもこれだった。わたしはこのやり取りが好きでわざと「おにぎり」という事がある。たまにクロックムッシュというと俄然はりきる小林さんはかわいい。
「小林さん、ちょっと聞きたいことあるんですけど」
 突然、菅野くんが言った。
「なに?」
「なんで結婚しないんっすか?」
 私は(あちゃー)と思いつつも小林さんの反応に注視した。
「えーなんだそれ、何突然、菅野ちゃんがいじめるー」
「笑っちゃう」奥の部屋に豆を取りに行っていた洋子さんが戻ってきた。
「答えなさいよね。若者のためにも」
「え? 若者のためにも?」
「そうよ」
 私は笑いをこらえた。
「ふん! いるよー」
「いるって、相手が?」
 私は菅野くんのこういう明け透けのところが好きだ。
「そう、あのね、派遣会社の子でね、なんと二十八歳なんだよねー」
 みんなが驚いて、「えー」と言った。
「なんだよ、そんなに驚くこと? 失礼だね、きみたち。もうね、相手もアラサーだから結婚しようかなって思ってるところ。でも年の差が問題で」
「なるほど」
「そんなことよりさ、菅野ちゃんは?」
 小林さんは手元のフライパンでピラフをふりながら菅野くんに訊いた。
「俺?」
「そう」
「俺はいないっっすよ」
「そんなに偉そうにいえること?」
「すいません。モテないってことで」
「ちょっと眼鏡外してみたら? 印象変わるんじゃない?」洋子さんが笑いながら言った。
「月子ちゃんはどう思う?」
「は?」
「だから菅野くんのこと、どう思う?」
 わたしは顔が赤くなりそうなのを必死で抑えた。
「どうって、わ、わりとイケメンだと思いますよ?」
 菅野くんは嬉しそうに「え?」とはにかんだ。ちょっと気まずい雰囲気になった。そこで扉の鈴が鳴った。
 すぐに菅野くんが立った。
「いらっしゃいませ。お好きなお席へどうぞ」 
 気付けば目の前に小林さんオリジナル特製レシピのピラフができていた。
 作り方はこうだ。フライパンに少量のバターとオリーブオイル、ニンニクを入れる。熱が入ったらシャウエッセンを「ぶったぎって」ピーマンとパプリカを入れ炒め、トマトペースト少々と塩こしょうで味付けする。上には粉チーズとシソを刻んだものがたっぷりと、ふりかけてある。なんでもこの「シソというのがミソ」なのだそうだ。シンプルだけど美味しい賄いだ。わたしは接客している菅野くんを横目に急いで食べた。食べ終わると小さな声で「ごちそうさま、小林さん」と言った。小林さんは頬を緩めた。

 夕方になると専門学校生の春菜ちゃんと菅野くんの同級生の益子さんがやってくる。春菜ちゃんはいつも本屋で新刊を買って店に入ってくる。そして休憩時間になると読みふけるのだ。わたしは少し羨ましかった。自分にはこれといって夢らしい夢はない。今年二十一になる。人生の目標がないのが不安にもなる。菅野くんは研究者だし春菜ちゃんは作家、高校の頃の同級生の彩香はお嫁さん。お嫁さんは、それはそれで純粋な目標だと思う。私は結婚なんてそんな先の話、まだまだ考えられないし。 
「おはようございます。芙蓉ふようさん」
 この業界では朝でなくても出勤してきたら、まず「おはよう」と言う。
「おはよう、春菜ちゃん」
「聞いてくださいよ、今日東野圭吾の新刊、買っちゃったんです」
「えーまた出てるの? 確か先月出たばっか」
「毎月、出すんです。すごい作家さんですよね?」
 春菜ちゃんは有名作家には敬意を込めて「さん」ずけするらしい。
「よくアイデアが出るね」
 私は関心した。
「天才なんですよ」
 黒髪のツインテールを揺らしながら必死で本の話をする春菜ちゃんは目がぱっちりしてお人形さんみたいだ。チェックのミニスカートもちょっと高校生みたいだけれどよく似合っている。

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