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【短編小説】無断欠勤1分前

仕事が嫌になった瞬間に車両が止まり、なぜかそのタイミングが完璧すぎたので今なんじゃないか、と思った。今しか逃げられないんじゃないか。
その自分からの啓示に則って、空いているドアから外に出る。緊迫していた体は解放されて、足が軽くなった。
そして、知らない私鉄のホームへと向かった。

こういう時は海が定石だろうと勝手に確信していた僕は、やっぱり間違いなかったなと、凪いだ海面を眺めながら思った。風のない水平線とは対照的に、足元は岩でゴツゴツしていて真っ直ぐ歩くのもままならない。

今日まで名前も知らなかった無人駅で降りて、どうせ誰もいないんだろうと思っていたけれど、意外と釣り人が時間を潰すように、波の隙間に糸を垂らしていた。引っかかる気配が全くない気がするのは、僕が素人でなにも知らないからというだけではないと思う。

「そんなスーツで、死ににでもきたんか?」

僕を振り返らず、おじさんが声を掛けてきた。視界の隅で見つめられているのに気がついたようだけど、シマウマのような視界の広さだと思った。
そして、その発想はなかったので、僕はまだ生きてはいたいんだなと静かに確信した。

「サボりにきた感じです」

僕の言葉に、なんや。とおじさんが笑った。

「で、サボりにきた感想は?スッキリしたか?」

この人は多分、世話を焼くのが普段から上手なんだろうなとぼんやり思いながら返事を考える。

「まあ、そうですね。2時間後には大きく後悔しそうな爽快感って感じです」

なんじゃそりゃ、とか、最近の若者はとか言われることを想像した。

「ほうか」
と、おじさんが呟く。「じゃあ正気に戻らんように、スマホの電源は切っとかんとな」

おじさんの口から滑り落ちた『スマホ』という言葉に少し良い違和感を覚えて、すぐにポケットからスマホを取り出した。

「そうですね」

始業1分前だった。



終わり


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