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【短編小説】知らない


歩きながら、今日は何を食べようか考える。

外勤中は仕事以外のことばかり考えてしまう。
商店街を歩いていると、視界の左側で誰かがティッシュを配っている。

受け取りたくないから、用事もないのに角を曲がってみた。

目的地の職場にたどりつかないことで、ネガティブな方に思考が傾いていく。

時間を間違えたこと、エクセルの入力がずれていたこと、挨拶したつもりだったのに聞こえていなくて無視だと勘違いされた事、怒られたこと……。

最近、目がちゃんと開いていない気がする。

現実の世界が、いつもより見えていない分つらい。

直帰したいなぁ、でもやらないといけないことがあるから帰らないとなぁと考えていると、余計に足が重くなっていく。

上京してもうだいぶ経ったけど、時間が経過すれば経過するほど、周りの目が厳しくなっていく気がする。

その目に耐えられなくなって、期待にも応えられなくなっていって、どんどん底なし沼にはまっていく感覚がある。

もうお前は田舎から出てきたばっかりのガキじゃないんだから、これくらいできるよな?という雰囲気で、仕事が回ってくる。

独身なんだから多少残業しても大丈夫でしょう?

田上さんなんか、奥さんが出産後復職したばっかりなんだからすぐ帰らないといけないし。

そんな人に比べたら、あなたの方が小間使いをしやすい。

直接言われた事は無いけど、大体みんなそんなふうに思っているのはよくわかる。

出産したのは奥さんの方で、田上さんは働き盛りなんだから、自分と同じ位働いたっていいはずなのに。

自分と同じ歳の社員もいるのに、絶対に自分の方が仕事量が多いのも気に食わない。

山川と言う社員のことを思い出す。

入社して五年、未だに周りに馴染んでいなくて、絶対に定時で帰る。

定時の一分前に話かけたことがあるけど、かなりにらまれてしまった。

課長にも最初からきつく宣言していたらしい。

「私は絶対残業しません」

その話を又聞きで聞いたとき、自分が普段やっている残業の存在自体が否定されたようで、すごく嫌だった。

自分の要領が良くないっていうのもよくわかっている。

それでも嫌な気持ちになったと言う事実は拭えない。

独身だからってなんでも自由なわけじゃない。

残業をたくさんできるわけでもない。

仕事だけで生きているわけじゃない。

生きたいと思ったこともない。

リアタイしたい配信があるときに仕事を振られてしまうと、本当に嫌になる。

結局アーカイブの残らない配信を一秒も見ることができず、会社でその時間を過ごすことが何度もある。

好きなものを好きなときに見ることができないストレスが、傾けた砂時計のように確かに沈殿している。

不意に、後ろから声をかけられた。

田上さんだった。

「お疲れ。会社に戻るところ?」

八つ当たり気味に考えていたことがバレないように、こっそり会釈した。

小さく頷く。

時計を覗くと、定時よりも少し早い時間で首をかしげた。

その視線を察して、田上さんが先手を打って話し始めた。

「ちょっと奥さんが調子悪いみたいで。保育園に子供を迎えに行かないといけないんだよ。だからちょっと早めに帰らせてもらうことにした」

そこで、田上さんの今日のTo Do リストを思い出す。

簡単に頭に浮かんだのは、自分も携わっていることだったからだった。

これもまた先手を打たれる。

「今日中に仕上げないといけない会議資料の事なんだけど、できるとこまでは作ったから。本当に申し訳ないんだけど、最後の最終確認とか、何か間違いがあったら修正とかお願いできる?」

聞かれていたけど、断れるわけがないなと思った。

まだ自分がやらなければいけないことも残っているから、残業コース決定だ。

いつもならわかりましたと返事をして終わりだけど、今日はなぜか悔しくなって、一言言い返したくなった。

田上さんへの不満と言うよりは、自分に業務が集中しうる、この環境への不満だった。

別にいいんですけどと前フリしてから口を開く。

「山川さんは、やっぱ今日も定時で帰りますよね」

この一言の真意にも、田上さんはすぐに気がつく。

と少し唸って、そうだなぁと相槌を打った。そして続ける。

「あの人今親を介護してるらしいよ」

「え」

「結構だから、大変らしいよ」

田上さんの声は、山川さんも、自分も気遣っているように聞こえた。

そのまま続ける。

「前に山川さんが『絶対残業しない』って言ってた時、俺ちょっと引いたんだよね。

いや嘘、だいぶ引いた。

仕事をしに来てるんだから、責任持って全うしろよ、って思ってたんだよね」

なんと返していいかわからなくて、そのまま返事を待った。

「仕事してると、結構長い間、下手したら家族よりも長い時間を一緒に過ごすじゃん。

そんな中で、何か、その人をめちゃくちゃ知った風になっちゃう時があるんだよなぁ。

でも所詮、みんな他人で、違う、計り知れない悩みを持ってたりするんだよな。

だからそこだけ見て、おかしいとかなんじゃこいつとか、まぁ思ってもいいけど、そこでアイツやべーやつだなってなるのは違うよなって、山川さんの件で改めて思ったよ」

今度ははいと、小さく返事をした。

それから想像してみる。

仕事で業務に追われて、帰ったらすぐに介護しないといけない家族がいる状況を。

その途端、今まで見ていた山川さんが、全く違う人に見えた。

山川さんだけでなく、今目の前にいる田上さんも、そして、職場にいる周りの人たちも。

田上さんが、やばい、もう行かなきゃ、と焦りだした。

引き止めてすみませんと自分が謝ると、いやいや俺だから、と首を振ってくれた。

もう行くわ、と田上さんが背中を向けて歩き出す。

その後ろ姿をなんとなく眺めていた。

スマホを取り出してどこかに電話をかけ始めた。

まま?と田上さんの声が聞こえて、彼の口からそんな言葉が出てくると思わなくて、少し笑った。

知っている人だと思っていたはずの背中は、もう自分の知らない、父親の背中になっていた。

 おわり 


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