自分のいた業界とわたしの話をまとめずに書く【100日継続】
思えば20年以上、整体、セラピー、ヒーリング、スピリチュアルの業界で仕事をしてきた。
業界から距離を空けて、いわゆる一般の人たちの中で生きて行っている今。一般の方々の一瞬の煌めきを感じる日を重ねている。
優しい人が多い。
癒しの業界の優しさとは別で、道端や山奥でそっと咲くような花の優しさだ。
わたしは、業界の派手な、わかりやすい「愛」に辟易していたのかもしれない。香り高く咲き誇るバラやカサブランカなどの派手さと、我も我もと華やかな花になろうとする界隈に、悲しさを感じていたのかもしれない。
わたしは鼻が効く方で、よく「パウダー臭い」という言葉を使っていた。
人工的な香料、昔のお母さん達の、保護者会や授業参観の後のお化粧臭いにおい。オホホ笑いで、家とは全然違う姿のお母さん達。
たぶん、その人の本質とは全然違う、外側を意識して見られ方を整えたようなヒーラー、セラピストや治療家から、パウダー臭がしたのだと思う。
ひとは、もっとその人くさくていいのだ。
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おかしい。本来書こうとした記事の内容と合致しないことで筆が進んでしまった。仕方なく題名も変えた。
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わたしは業界にとてもフラストレーションがあるらしい。
自分のルサンチマンだと思っていたのだけれども、どうやらこのフラストレーションを完璧認定してあげる時が来たようだ。
自己正当化というとおかしな感覚を伴うが、自分が認識したことをあらわれとして認識して良いんだということなのだろう。それは自己正当化とは違って、自分の認識を承認するだけのことなのだ。わたしは自分の認識を否定していたから、おかしなノイズを発していたのだろう。
バラやカサブランカなどの主役級の花は確かに美しいが、違う種類の派手な花々を集めても綺麗に見えない。
道端や山奥で楚々と咲く違う種類の花々が集まると、それはそれは色とりどりで、どの花も引き立ち可愛らしく見える。
きっと好みの問題なのだろう。
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誰もが主役、と咲き誇る(あるいは咲き争う)よりも、わたしは主役を降りると言う考え方の方が好みだ。
自分を消した時に、玄人の輝きが出ると思っている。これは、かなり若かりし頃から。
自分の我の強さに辟易していた。ということは、わたしが見ていた世界は、わたしを投影していたのだから、わたし自身がニセモノだったのだろう。
思い当たる節はある。
本来の自分そのものというよりも、その職の自分に成り切ろうと模索し続けていた。自分がその職を理解していないのだと思い、他者から学ぼうとばかりしていた。実際は、自分を見れば良いだけだった。でも、同じモダリティを使うグループの中では難しかった。モダリティに自分を合わせなければ、伝える側としての辻褄が合わなかった。
教わったモダリティ通りのことをしようとする方が我が強くないように見えるが、実は逆で、教わったことを元に自分を見ていく方が、自分が消えていくのだ。
そして自分が消えると、自分そのものになるのだ。
モダリティありきでの自己統合はあり得ないとわたし個人は感じている。なぜならモダリティを自分より上位概念にしてしまっているからだ。これが、統合を目指すモダリティの矛盾点だと感じる。
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だいぶ、書こうとしたことと内容が変わってしまった。書きながら気づきが増えてどんどん変化していく。今日はそういう日なんだろうな、ということにしておく。