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瞑想の道

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真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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2024年6月の記事一覧

瞑想の道〚20〛自我の思考

 真我を悟る上で自我と世界のことを抜きにすることはできない。自分とは自我のことであり、その自我が世界で生きていると認識しているところから真我探求ははじまる。自我は身体が自分だと思うから大切に世話をする。誰でも病気にならないように注意し、病気になったら早く治るように処置をするだろう。心は自我が楽しく幸せな状態になるにはどうすればいいかを考える。自我の様々な経験は記憶となり、知識となり、自分のパーソナリティを形成していく。多様な感情を表現し、それは心地いいものも悪いものもある。ど

瞑想の道〚19〛創造と終焉

 誰がどのようにしてこの世界をつくったのかは分からない。それは創造主だというかもしれないが、ではその創造主をつくったのは誰なのか。その創造主をつくった創造主は誰なのか。こう考えていくと、その答えに行き着きそうもないことが分かる。つまり、それについては考える必要のないことだ。分かることは、この世界は何を元にしているかだ。その答えは自分が何を中核としているかを探ることによって、直接知ることができる。自分もまた世界の構成要素だからだ。自分が真我という存在を元にしていると知ることがで

瞑想の道〚18〛欲望と悟り

 悟るためには自我の欲望が必要だ。欲望がなければ、悟るための熱意が起こらない。欲望を否定することは、その持つ力を間違った方向に行使していることに対する修正作用としては有効かもしれない。その使い方を間違えば、人や自分をも傷つける毒になり得るからだ。だからといって欲望そのものを否定する必要はない。それをなくせば、ただの無気力で腑抜けた人間になり、真実を悟ろうとすることさえ思いつかなくなるだろう。欲望を使って悟ることに執着し自らを奮い立たせることが、その成就への推進力になる。そうし

瞑想の道〚17〛循環の停止

 真我を完全に理解することなく瞑想をやめてしまった場合、そこには悟りへの道が残されたままとなる。もちろん、悟ることを人生の目的にしていなければ、中途半端に瞑想をやめてしまっても表面上は問題ない。瞑想で期待することが起こらないなら、これは求めている最適な方法ではないと見限るのが妥当なところだろう。要は何を目的として瞑想しているかだ。もし何事にも動じない平穏な心を手に入れたいなら、別に瞑想でなくてもいいだろう。身体に負荷のかかる激しい修行でもいいし、世界に対して無感覚や無関心でい

瞑想の道〚16〛陰陽の彼岸

 真我を悟ったとしても、不安になったり、恐れたり、ジタバタしたりしなくなるということはない。それは悟っていないからだと言われるかもしれないが、むしろ不安になることも恐れることもジタバタもしないのであれば、それは悟りではないとも言える。悟りとは心の状態をポジティブに保つことでもなければ、何事にも動じなくなることでもないのだ。多くの人々は、ネガティブな心の状態を改善できるのであれば、悟りについて学ぶのもいいかもしれないと思うだろう。だが、どれだけ悟りについて学び、修行をしても、そ

瞑想の道〚15〛苦悩の解消

 苦しみや悩みがあれば、この世界の誰もがそれを軽くしたり解消したりしようとするだろう。それは自然なことだ。ただ、そのために瞑想を利用するのであれば、概ね失望することになる。どれだけ厳しい瞑想修行をしても、苦しみや悩みは自分の中に起こる。いくら瞑想に長い時間を費やしたところで、その状況はその前とさほど変わらないだろう。それではそういったことの解消に対して瞑想は何の役にも立たないのだろうか。瞑想することで為されることは、苦しみや悩みがあっても、何の問題もない自分になれるということ