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瞑想の道

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真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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2024年3月の記事一覧

瞑想の道〚05〛自我の期待

 真我を悟ることは何かを得ることではない。どこかに到達することでも、特別な何者かになることでもない。それは元々の自分に気づくことだ。この話に自我は眉をひそめるだろう。自我は世界の物事同様に真我を飾り物にして、美しく気高い自分になりたいと思っていたのだ。そうでないなら、真我を悟ることに意味はないとさえ言い切るだろう。自我は悟りに何らかの価値を見出したい。そのため、真我は特別なエネルギーであり、運命を変える手段であり、恐れから解放され心安らぐ癒やしであってほしいと願う。そして、そ

瞑想の道〚04〛人間性の壁

 悟りというものは自我を磨き上げて到達するものではない。素晴らしい人間性をつくることが悟りではないのだ。古の賢人は怒りを鎮めなさい、貪欲さを抑えなさい、愚劣な行いを止めなさいと説いている。そうして人間性を高めれば、賢人と同じ悟りに至るのではないかと思うかもしれない。もちろん、人間性を高めることは大切なことだ。だが、その先に悟りという到達点はない。もし悟りを求めるのなら、高い人間性とは別の視点で探らなければならない。それはつまり、どのような人間になるかがこの悟りの着目点ではない

瞑想の道〚03〛真我の尻尾

 瞑想で悟るためには、まず悟る必要がある。それから、その悟りを細やかに検証していくのだ。これが本来の悟りの道だ。悟りが何か分からずに、ただ闇雲に瞑想を続けても、悟りに行き着くことは難しい。多くの場合、これは悟りではないという事例だけが積み上がっていくだけだろう。悟りとは、自分の本質を明確に知るということだ。「私は誰か」の答えをまず手に入れることからはじめ、それからそれが本当に「私」、つまり真我なのかを検証していくのだ。  真我を探求することは、多くの人にとって奇妙に感じられ

瞑想の道〚02〛真我の感覚

 ある程度、精神が成熟すると、「私は誰か」の探求が始まる。それは知識ではなく、現実の感覚である必要がある。その問い掛けの知識的な答えは「私は存在である」ということだ。ただ、この言葉を覚えたとしても、自分が存在だと実感することはできない。知識は必要であるが、それはあくまでも知識であって、それを知ったからといって現実化するわけではない。知識は単に瞑想で探求する方向性を示しているに過ぎないのだ。実際には、自分で瞑想し、その中で存在であることを実感する必要がある。それを確実につかみ取

瞑想の道〚01〛最後の探求

 瞑想を始める動機は何であれ、最終的には「私は誰か」を探求することに行き着くことになる。それが瞑想の効力を最大限に発揮させる問い掛けであり、人としての精神的探求の最終局面へと向かわせるものだからだ。そこでは瞑想自体が目的となることはなく、それはあくまでも何かを知るための手段という立場に定まる。その何かが「私は誰か」を知ることであり、それを知り、自分の理解に落とし込むことができれば、瞑想の役割はそこで終わる。瞑想にも探求にも終わりはあるのだ。 「私は誰か」という探求が起こる前