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瞑想の道〚04〛人間性の壁

 悟りというものは自我を磨き上げて到達するものではない。素晴らしい人間性をつくることが悟りではないのだ。古の賢人は怒りを鎮めなさい、貪欲さを抑えなさい、愚劣な行いを止めなさいと説いている。そうして人間性を高めれば、賢人と同じ悟りに至るのではないかと思うかもしれない。もちろん、人間性を高めることは大切なことだ。だが、その先に悟りという到達点はない。もし悟りを求めるのなら、高い人間性とは別の視点で探らなければならない。それはつまり、どのような人間になるかがこの悟りの着目点ではないということだ。

 悟りとは自分は真我であると完全に理解することだ。そう完全に理解するためには、絶え間ない日々の瞑想修行が必要になる。これはある意味、自分が真我であることを理解するための訓練であり、証明であり、確認なのだ。そこまでしなければ、完全な理解にはならない。本を読んだり、誰かの話を記憶したりするだけではまったく十分ではない。最終的には誰かの体験ではなく、自分の実体験として積み上げていく必要のあるものだ。そうしてこそ、誰になんと言われようと、これが悟りだと自分で断言できるものになる。もちろん、それには自分の理解に対する厳しさも手加減抜きで行う必要がある。

 悟りへの過程において、人間性を高めることは無視しても構わない。もちろん自我の自然な向上心として、人間性を高めようとすることはあるかもしれない。それはそれで世界にとっていいことではあるため、あえてやめる必要はない。そうあっても、それを悟りとは結び付けないことだ。悟りはそんな人間性を超えたところにあるものなのだ。自分とは真我であると理解するとき、自分はその真我の本質に従うことになる。その真我は動きがないため怒りがない。愚劣な行いをすることもない。それは不足しているものがないため貪ることもない。真我であるなら、古の賢人が説いていたことはそこで完全に実現する。ただし、それは自我や人間性においてではない。自分が真我になったとき、その本性として自ずとそれはそうなるのだ。

 もし人間性を完全にしてから悟ろうとするなら、それは失意を残すだけとなるだろう。自我というのは世界の本質に従って変化するものであるため、完全ということが不可能な状況に置かれている。つまり、それは苦労しながらも永遠に悟れないことを意味している。自我を超えて、自分は真我だと悟ることで、古の賢人が説いたことを完全に実現できる。真我には動きがないため、もはやそうでなくなることはない。時間とともに劣化したり、不在になったりするものではないのだ。はじめに悟りありきなのは、悟るためには賢人たちと同じ土俵に立つことがどうしても必要だからだ。自我や世界をいくら洗練させても、そこが悟りの場ではないため、賢人が成し得た悟りは見つけることができない。

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