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瞑想の道〚01〛最後の探求

 瞑想を始める動機は何であれ、最終的には「私は誰か」を探求することに行き着くことになる。それが瞑想の効力を最大限に発揮させる問い掛けであり、人としての精神的探求の最終局面へと向かわせるものだからだ。そこでは瞑想自体が目的となることはなく、それはあくまでも何かを知るための手段という立場に定まる。その何かが「私は誰か」を知ることであり、それを知り、自分の理解に落とし込むことができれば、瞑想の役割はそこで終わる。瞑想にも探求にも終わりはあるのだ。

「私は誰か」という探求が起こる前は、瞑想自体が目的化し、それによる効果を期待するだろう。実際に、瞑想者は心が落ち着いたり、ストレスが軽減したり、願望が実現しやすくなると感じることがある。しかし、それらは移り変わる世界のことであり、効果があったとしても、実際には広大な時空においては無視しても差し支えないような微々たるものでしかない。加えて、その状態を世界で継続させることは困難であり、そのことが新たな苦しみを生む種にさえなる。それでは瞑想することも瞑想で求めることも終わることがない。終わることがないということは、瞑想の目的が不完全であることの明らかな証拠なのだ。

 我々はこの世界での探求を終わりにする必要がある。この世界で幸福や不幸、成功や失敗、希望や絶望を事あるごとに感じて生きることが我々の目的ではない。何かもっと確かなものををつかみ取るために生きている。そのつかみとった何かが正しいものであれば、瞑想する必要もなくなり、それによる効果を期待することもなくなるはずなのだ。さらにはこの世界で生きる必要もなくなり、我々の精神はまったく違う領域へと昇華する。この人生の機会でつかみ取るべきは「私は誰か」の答えだ。その答えは瞑想の中でのみ見つけることができる。

 我々にとっての福音は、誰でも瞑想することができ、すでにその探求の答えが自分自身の内に宿っているということだ。それは心の中に埋もれていて、掘り出されるのを待っている状態だ。いま問題になっていることは、自分が「私は誰か」を探求したいと思うのかどうかというところだ。ほとんどの人がそんなことを問題にはしないだろう。現実問題として、この世界でいかに生きるかが誰にとっても最重要な問題なのだ。自分の真実を失っていることよりも、惨めに暮らすことのほうが恐ろしい。我々はいまだに精神的には子供であって、世界での目先のことばかりに気を取られてしまう。瞑想の本道である究極的な探求をはじめるためには、自らの精神的な成熟が待たれるのだ。

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