見出し画像

瞑想の道〚02〛真我の感覚

 ある程度、精神が成熟すると、「私は誰か」の探求が始まる。それは知識ではなく、現実の感覚である必要がある。その問い掛けの知識的な答えは「私は存在である」ということだ。ただ、この言葉を覚えたとしても、自分が存在だと実感することはできない。知識は必要であるが、それはあくまでも知識であって、それを知ったからといって現実化するわけではない。知識は単に瞑想で探求する方向性を示しているに過ぎないのだ。実際には、自分で瞑想し、その中で存在であることを実感する必要がある。それを確実につかみ取れば、存在についての知識は次第に必要なくなってくる。

 この存在は真我という呼称で知られているものだ。まずはじめに、瞑想でこの真我を感じ取る必要がある。真我の感覚というものは、最初、捉えにくいかもしれない。なぜなら、それは姿かたちがないからだ。我々は世界を対象として認識することに慣れてしまっているため、その姿かたちを捉えて実体験とする感覚を当然のこととしている。その習慣のため、姿かたちのない真我を対象として捉えようとしてしまう。真我は対象ではなく、主体そのものだ。主体が主体を対象として捉えることはできない。これは目で目を見ることができないようなもの。瞑想ではそれを姿かたちのない感覚として捉える必要がある。

 真我は姿かたちはなくとも存在している。それは存在していないということが不可能なのだ。誰もが世界をどのような形であれ認識している。認識できるということは、そこに認識している主体が確実にいるということだ。その主体が不在であるはずがない。この真我を瞑想で捉えることが、探求の第一歩となる。最初、それはぼんやりとした感じかもしれないが、ともかく集中してそれを感じ取ろうとすることが肝要だ。捉えにくい感覚でも、続けていけば、次第に明瞭になってくる。そうなるまでには、人によってかなりの忍耐が必要になるだろう。

 瞑想では思考やイメージが付きまとう。どれだけ真我に注力していても、気がつくと何かを考えていたり、イメージの中に巻き込まれていたりするものだ。そんなときでも、気づいたら、真我の感覚を捉える作業に戻ることだ。この気づきは後々役に立つことになる。この真我の瞑想はかなりの集中力と努力を必要とする。ただ漫然と瞑想したり、静かで深い意識に落ちていては、この感覚を培うことはできない。常に気づきを発動させていなければならず、気の抜けない作業が連続する時間となる。このくらいのことをしないと、真我実現にはならないのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?